思いつくまま勝手なことを書いています。つまらないとか、面白いとか、何かご意見あれば電子メイルでも結構です。送って下さい。

1年たって、いろいろかえたいのですが、時間と技術がありません。今しばらくこのままで。

11月5日 休診
しばらくこのコーナー自重します。
一年間、好き勝手に言いたい放題でした。
僕が正しいと思って、書き込んだことで、色々な人を傷つけるような
内容があったと思われます。反省しきりです。
このような、コーナーでは、語り尽くせないのでしょう。誤解もあります。
僕の早とちりもあります。不定期日記をよんで、「騒ぎ」が家庭や学校などで
おこっては申し訳ない。それが主旨ではありませんので。
しばらくお休みして、考えます。
ご迷惑をかけた方々に深くお詫び申し上げます。
掲示板には引き続き書き込んでください。ここは反論含めぼくが関与しません。
でも不定期日記のコーナーは僕しか書き込めないのですから、不平等ですね。

11月3日 雨ですね。 寂しく悲しい出来事 と 弁解
 長い間小児科医をやっていると、色々な出来事に出会います。もちろん楽しい出来事もたくさんあります。悲しい別れもあります。でも、先週の出来事はなんともやるせない寂しい(こういう表現でよいか?)ものでした。
虐待です。我が小児科も年間数例の虐待例を経験します。でも先週の出来事はどう評価したらよいのか?
救急車で生後半年になった「和平君(仮名)」が転送されてきました。頭の骨折が主訴です。他にも肋骨、下肢の一側が完全に骨折していました。強い貧血と肝障害もあり・・・来院時当日が保険証への記入日でした。
こどもには生まれたからには生きる権利がある。親の意図・意志とは別に楽しく生きる権利がある。その権利を親が剥奪しようとするなら、誰が擁護する。
親には親の生きる権利があり、「そうすること」への理屈もあるかもしれない。しかし、許せない。やるせない。寂しい出来事です。
その公的対応は、昔とくらべ、少しは良くなったが、ギクシャクして外来は半日間その対応(子どもの命を守るための方策)でてんてこまいでした。

 別の話題です。5月27日の不定期日記や10月26日の日記に、ある養護学校への執拗な批判を書いています。この批判が度を過ぎたものであるか否かは読者の判断に任せます。しかし、弁解させて下さい。
個人攻撃をしているのではありません。むしろ誰が見ても常識的に「おかしい」先生の対応を自分たち仲間同士で、相互批判して修正出来ないのか??ということなのです。管理者はどう考えているのか?
ある時、別の養護学校の知り合いの校長が云いました。「誰が見てもおかしい教師がいても管理職である僕(校長)としては、どうしようもないのや。教師には教師の権利があるし・・・教育委員会の指導もあるし・・・」と。
指摘している大規模養護学校の現状は把握しているつもりです。僕が主治医である子ども達の保護者はたくさんいます。異口同音に学校の様子を話ます。それが殆ど同じ指摘に収束します。うわさとしてではなく、沢山の目で見て、そういう判断になるのでしょう。古手のおかあさんは歴史を知っています。小学部のホットな対応から、中学部、そして高等部へ。母親たちは、途中から転勤してきた教師よりもずっとその学校の歴史的取り組みを承知しているのです。
どんなに良くなっかた、またどこが後退しているかなどを。
おかあさん達も本当は一つにまとまって、子ども達の教育環境改善の為に立ち上がりたいのです。でも「しんどい」です。本来の仕事とは異なるし、極端にいえば「こどもを預かってくれるだけで、いいわ」という考えになる人もあるでしょう。要求が一つにまとまりません。特に「医療的ケア」は一人一人内容が違うために、まとまらないと推測できます。でも教育内容なら、一つになれるはずなのですが。これも難しい。担任制ですから、小学部は相対的に熱心な先生が多く、前向きに取り組んで、親も満足している場合が多いと思われます。小、中、高という大規模校の場合の一貫した取り組みは本当に難しい。
とにかく、保護者自身は色々云いたいことがあっても、口に出しては云えない。感謝の気持ちは述べられても、批判めいた内容は面と向かっては云えない。
その批判の中に、主治医として障害児教育を支援する立場から、見過ごせない内容があるので、このようなHPを使って、講演の場で、辛口発言をしています。誰が憎いわけではありません。でも外から見ていると、中では「たいしたことではない」ことが、非常識的なことになるのです。
 皆様のご意見をお待ちしています。どうぞ掲示板へ「杉本ええかげんにしんかい!」と書き込んで下さい。

11月2日 恐怖の体験
 数日前のことです。午後の神経外来でかなり消耗していたことは事実ですが(弁解)、夕方に自家用車で帰宅するときのことです。病院から公道へ出るとき、左折するのですが、そのすぐ先にコンビニとゲームソフト屋があります。いつも若者がたむろしているところです。左折時、まず左見て、右見て、軽自動車をやり過ごし、「よっしゃ」と思ってアクセルを踏みました。ところが正面むいた眼前に自転車の若者が迫ってきます。「やった!」と思いました。一瞬、完全に正面からはねたと覚悟しました。思いっきりブレーキを踏みましたが、停止する前に、ハイ・テクニックでスルリと、若者の自転車は僕の車を避けました。一瞬、何がなんだかわからなかったのですが、その若者に感謝しました。自転車は右側通行で、しかも僕の車が左折する直前であることを知った上での擦り抜けだったようです。弁解無用なのですが、それこそ跳ねていたら、そして頭の打ち所が悪ければ、僕は殺人をしたかもしれないのです。何とも云えぬ恐怖的気分に襲われました。
 その前日には、枚方市のある京阪踏切を渡るときのことです。先に渡った軽自動車が今にも踏切を越えて、右折すると僕が勝手に判断しました。後ろからも車が来ているし、遮断機の手前にいると、また電車がくるか?と思いつつ、軽い気持ちでアクセルを踏みました。ところが、踏切を越えようとしたとき、その軽自動車は少し前進はしたのですが、右から来る車列を待つ姿勢になりました。「ま・いいか」と車の後ろ半分が踏切に残ったまま、しばし?時間を過ごしました。
と、左から車ならぬ電車が見え、突然「ビー」といって、遮断機がまさに降りようとしました。「こりゃ、あかん」、電車にひっかけられる・・・「ブッブー」と前の車に催促、でも右から容赦なく車が来ます。万事休すか!?
すると、軽自動車が右車線の端っこへ歩道半分踏み込み、前進してくれました。同時に僕もアクセルを踏む。竹の遮断機棒が我が車のトランクで跳ね上がりました。鈍いドーンという音、あーたすかった。感謝!感謝!
老いぼれてきたのでしょうか?判断力が実に曖昧になってきています。大事に至らなかったことで、これらの二つの出来事を自分で忘れないように、書き記しました。無事に生き延びることは難しいですね。
今、まさに京阪電車は「踏切事故防止週間」でした。

10月26日金曜日 今週の神経外来・疲れました
 午後の神経外来は、予約表から想像した予想に反して、たいへんしんどい外来診療でした。当然のことですが、一人ひとりの診療が真剣勝負です。曖昧な対応は、許されません。
もう10年近くてんかん発作で診療し、薬をきっちり飲む限り、発作は容易に抑制できていた春ちゃん(仮名)が、昨年後半からだんだん発作回数が増え、今月は100回以上にもなる日がでてきました。養護学校の担任の先生や養護教諭の先生も必死になって、学校で校医の指導のもと、脳波テレメーターをとったり、診断に努力して下さいました。主たる保護者のおばあちゃんも孫の発作をなんとかとめてやりたいと、繰り返し外来へこられました。
 主治医の力量不足です。薬をさわればさわるほど、発作は増えていきます。なんとかならんのか!?と医者(自分)に自問自答しますが、よい答えがでません。こんな時の疲労度はマックスになります。仕方なく「第二の意見と治療も含めてんかんセンターへ行きましょう」と云ってしまいました。敗北です。ものすごく申し訳ない気持ちです。
ところが、帰りを待っていた時、待合い室で「痙攣」がおこりました。懐中電灯を片手に薄暗くなった待合室に飛び出しました。思春期を迎えた春ちゃんは、大きな体を屈曲させて、歯をくいしばり、目を強く閉じています。
(なかば予想したとおり)本来の強直発作と形が異なっています。瞳孔反射もあるようです。てんかん性のものではないように思いました。
この一年春ちゃんには色々なことがありました。悩める春ちゃんの表現の一つとして、新しい発作が加わったのでしょう。でもこの発作は僕には止めることはできません。
少し話題が飛びますが、この春ちゃんの通う養護学校の先生方には、いつも頭が下がります。こどもを本当によく観察しています。発達経過についても、自分たちで心理発達の学習をして、子ども達の到達点と課題をしっかりと把握しながら、障害児教育に取り組んでいます。主治医に提出される学校での様子も診療の役にたちます。質問も的を得ています。とんちんかんな質問をする学校もありますが、ここは違うのです。
 そういえば、今週の別の日の外来での出来事です。ある養護学校にこの春から高校入学した太郎君(仮名)のことを書きたくなりました。
 彼は、背も高く、ものすごい男前です。中学校の時、校内事故で脳出血をおこし、気管切開まで行き、死線をさまよいながら、快復した「中途脳障害」者なのです。主治医として、学校へ再入学しようと勧めました。親も本人(こちらのいうことはだいたい理解できますが、言葉はでません)も大いに喜び、学校生活に期待しました。ところが、学校がはじまると、「医療的ケア」で親が学校へ足を運ぶのは、まだいいとしても(問題はありますが)、肝心の教育がほとんどなされないのだと親は主治医に訴えます。はからずもケアのために、学校へ行くことになった親の見た教育の中身は、太郎君を車椅子から降ろして、「しんどいやろうから、休もう」と横にならして、担任は別の「仕事」をする。
「この子はなんでも良くわかっているから、もっと話かけて、勉強させてやって」と親は控えめにも云ってきましたが、変わりません。いまでは、親子そろって、登校拒否です。「行ってもしかたがない」と。
これでは、障害児教育が泣きます。まさになにもしない「あるがまま」論です。主治医である僕がすべてを自分の目で見た訳ではありません。でも長年つきあってきた親の言葉には嘘はないと思います。ここには書けない、もっと迫力ある(気になる)発言もありました。こんなことを聞く外来も疲れ切ります。
 一人一人のこどもたちのニードをきっちり把握し(その力量が必須)、そのニードを満たす内容の教育を是非やってほしいと思います。
 養護学校によって、所属する都道府県によって、小学部や高等部などの違いも、もちろん個々の教師の力量によっても、随分と教育内容が異なります。
もっと相互討論や研修によって、普遍的な前向きの取り組みにならないものでしょうか?押しつけでない、楽しい、そして専門性を生かした教育を。

10月21日 最近の朝日新聞の話題 治験とバス釣り


 天声人語の「医療的ケア」についての記述は、内容として多少の不満がありましたが、広く世間に問題を投げかけたことを大いに評価しています。この問題の本質的な点は、責任の所在です。これを抜きにして「医療的ケア」は語れません。
 次に、昨夜の「窓」です。簡単に掲示版に書き込みましたが、確かに患者サイドに新薬情報が流れ、それをメディアが後押して、というのは一つの形として、これも評価できます。しかし、すべてが万事同じ傾向とは限りません。僕が取り組んでいる、抗てんかん薬の場合の治験は、他剤のように一般紙広告に掲載して患者を集めるわけにはいきません。治験対象患者が限られ、条件が厳しく制限されているのです。しかも同じ系統の薬の治験が2,3並行して実施されているという現状です。詳しくは9月30日付けの不定期日記のてんかん学会発表内容をお読み下さい。欧米なみに厳しくするのは良しとしても、肝心の新薬を試すことが出来ない我が国の現状は、やはりどこかに問題があるのです。

 さあ、次は、本日朝日朝刊の天声人語です。僕は数年前から息子や釣り仲間と琵琶湖へ釣りに出かけるようになりました。以後、釣れたのは、バスとギルだけです。はじめのころは他の若者と同じく、高価なルアーで釣っていましたが、一向にバスが釣れません。子どもの頃に立ち返り、みみず(ワーム)で釣り始めるやいなや、「入れ食い状態」でギルが釣れます。以後、琵琶湖では、ミミズで釣っています。ギルはフナに似ていますが、これも外来魚です。そして、あの大きい琵琶湖の北でも、南でも、どこでも釣れるということは、ものすごい数のギルがいるということです。考えるだけで恐ろしくなる数と思います。このごろはおやつに持参した、「かっぱえびせん」でも良く釣れます。琵琶湖でバスをつることは諦めました。色々な釣り場を変えましたが、テクニックもあるのでしょうが、あきません。とにかくギルだけです。
 さて、そのつり上げたギルをどうするか?「キャッチ アンド リリース」(逃がしてやる)が最近の釣りの常識と考えていました。ところが、本日の天声人語にも書かれている通り、琵琶湖のフナや鯉、もろこがこれらの外来魚によって滅ぼされつつある現状だということです。
 釣りが大変理詰めで、スポーツとしてのバスフィッシングがどれだけ正当性があるかわかりませんが、これは人間社会のものです。長い歴史のなかで進化をとげてきた琵琶湖の魚たちが、今、人間が意識的に運んできた外来魚によって、完全に制覇されようとしているのです。たしかに漁業で生計をたててきた人には、外来魚の侵入は許せません。しかし、それ以上に、日本一の淡水湖の環境を破壊しているという事実は見逃せません。 これはまさしく琵琶湖という美しい国を強力な武器を持った国が侵略し、完全に乗っ取った形と同じ様に思います。
そんなことを考えるようになると、琵琶湖から足が遠のくのです。自宅からたった30分の本当に美しい琵琶湖なのですが・・・憎いギルを一匹でも減らす為に(本当は運んで来た人間を恨むべき)、せっせと釣りに行かねばならないのですが・・・
天声人語の締めにもあるとおり、そろそろ問題解決の為に取り組む時がきていると思います。個人の想いだけではどうしようもありません。

10月17日 松岡洋子氏「老人ホームを超えて」出版記念シンポ印象記

 去る10月13日夜に大阪市内のセンチューリークラブという「高級社交会員クラブ」(二度と行けない所でしょう)で「いまデンマークから真に学ことは何か?」というタイトルで講演とシンポが行われました。これからの高齢者ケアはどうあるべきか?高齢者はどこで生活するのが幸せか・・・
まず、元社会大臣のアナセン教授が基調講演 おもしろい話題がいっぱいありましたが、その一部を紹介します。
アクセスしやすい社会・地域を作る、その場所へ早い目(55から70歳とのこと)に自分で引っ越す(いつまでも自宅にこだわっていると、老いるとバリアのために自宅に閉じこもることになる)、そしてともに生き、ともに交わり、自己決定を尊重し、社会的つながりを維持していく。これらが高齢者に大切。
特養は孤立し、不毛で活力なく、人の権威を失わせるミニ病院である。
さらに、教授は7年前からデンマークの高齢者政策は軌道をはずれていると大胆にも主張する。政治家が効率のみを追求し、家の中をきれいにすることがサービスと考えるようになり、高齢者との会話・交流の時間は不必要な時間と考える政治家が増えているという。

これに対して、同席していたデンマーク大使館の参事は、ユーモアを交えて反論する。必ずしも便利な所へ引っ越すのがよいとも思わない。サマーハウス(別荘)を第二の住処にして、のんびりと自然の中で暮らす人もいる。60位で高齢者住宅に引っ越すと、チャレンジの気持ちが萎えるのではないか。第二の人生にやりたいこと、挑戦もあるであろう。
今のデンマークの政治家はたしかに効率化を追求する。それは、現場をしらない人、公的機関に勤めていた人、そして二世・三世議員が増えていることが原因であろう(日本国と同じではないか)。昔は普通の人、労働者・勤労者が議員になっていた。   もちろん流ちょうな日本語で話す50歳後半の男前のブラッド大使館員でした。

高齢者3原則とは、自己決定、残存能力の活性化、そして継続性は、障害者にもあてはまる原則です。最後の継続性については、むしろ生活環境の整備という方が適切かもしれません。
緑溢れるバリアフリーの癒しの生活空間、そして地域。気のあった仲間と,いつでも一人になれる空間・部屋の保障、さらに町ぐるみの文化、そして交通の利便性という住処を確保することがいかに大切かを実感しました。
高齢者に限りません。障害者に限りません。人間みんながこのような住環境を保障されたら、毎日が笑顔の生活になるのでしょう。

ただ、前々回に書きましたが、デンマークの町並みは決して、バリアフリーではありません。アナセン教授の講演の中で、「町の青信号の時間を長くして、車椅子でも高齢者でもゆっくり横断できるような町作りをしてきた」と。いえいえ、コペンハーゲンのあの駅前の信号は運動障害のない人でも小走りで渡りきらねばなりませんでしたよ。

でも本当に勉強になりました。おもしろかった。

10月13日土曜日 老い
このようなタイトルをつけて、書き始めることそのものが、「老い」を意識して、老いてきている証拠と思います。若い若いといつまでも思い続けて、50年余生きてきました。自分の仕事は、新生児神経学で博士を取りました。それから乳児発達や乳幼児期の急性脳炎や急性脳症の仕事、次にてんかんの治療へ。
 仕事内容からみても、新生児、乳幼児、学齢期、そして成人障害者へと自分の年齢に相当するところまで追いついてきました。
 トロント滞在中(むしろ渡航前からそれを目論んではいましたが)に障害児者の療育、教育のシステムに我が興味は発展して行きました。帰国後、本書き・本作りと社会医学的視野での行動にかわっていったのです。
 決して本来の診療活動を放棄したわけではありません。でも自分の専門分野ですら、時代の進歩に追いつくのが必死です。同じ小児科でも他の分野の新しい部分などほとんど勉強できていません。神経の外来で診察する患者さんは、半分とはいいませんが、少なくとも3割以上が 20歳を超えるようになってきました。まさに成人障害者外来です。もちろん付き添う親は60歳を超える人も増えてきました。

最近の事例から
患者さんはまもなく40歳の男性です。知的障害と運動障害があり、もちろんてんかん発作も合併しています。自力の移動運動は匍匐です。身体が大きく車椅子も大きく、車椅子のまま小児科外来の診察室に入ることが困難です。性格はやさしく、いつもニコニコしています。ところが、これまで寄り添い、サポートしてきたお母さんが今年、悪性疾患で亡くなられました。         お父さんは、数年前の定年直後、自ら外来で語りました。「家庭と息子のことはすべて家内にまかせ、仕事に没頭してきた。でも定年後は、その罪ほろぼしもあり、息子の面倒を自分が主になって見ていき、家内を楽にさせてやり、家族3人で楽しく暮らしたい」と。
   今、お父さんは「まわりに親戚縁者は一人もいない。家事から息子の面倒から・・・すべて。家の中に何がどこにあるのかわからない。何をするにも、まず道具の家捜ししてからになる。持病の生活習慣病が悪化して、毎日生活するのが精一杯」と。

ついに決心されました。
   「息子を施設に預けようと思う。先生、どう思う?」
色々公的サポートを頼んだが、40歳の障害者へのサポートは極めて限られたもので、このままいくと共倒れになる。70歳近い親が慎重170cm60kgの息子を車椅子へ座らせるだけでも、腰が痛くて、持ち上げることが出来ない。
 主治医「・・・・・」   無言というより、心の中で「なんとかならんのか!」と叫びつつも、父親の寂しい顔をみると、うなずくしかありませんでした。
後日、自分のふるさとの児童福祉施設に申し込みに行ったところ、順番待ち。はてさてどれくらいかかるやら。

先日相談を受けた別の事例です。
55歳と38歳の重い知的障害と運動障害で車椅子生活の兄弟を81歳になる父親(10歳以上若く見えました)がサポートしつつ自宅で共棲しておられました。75歳の妻・母親も悪性疾患で病院入院中とのこと。

介護も医療も、なによりも毎日の生活へのサポートをどうするのや!どれだけの公的サポートがあるのや!
自分(スギケン)の老いを意識すればするほど、考えは過激になります。
どこかの国を攻める手伝いで、つまらぬ自衛隊機をとばすことに税金を使う政府など、許せない。小泉曰く「いつどこで、だれからテロをうけて死ぬかもしれない。だから、国際協力するのだ」と。

 もちろんテロは否定するにしても、罪なき人を爆撃で殺す権利などないはず。
やはり、政府の考え方を変える。政権交代しかないのか。
自分になにができるだろう? 子ども達にもっと住み良い国を残すために。自問自答の毎日がつづきます。
 

10月6日 北欧の旅・余談


本論はまたの機会に書くとして、
旅の間に感じた幾つかの話題を書きます。その多くが「腹立たしい」ことです。
1) 関空をたつ前夜
台風が急接近し、その進路が少しずつ東へそれていきました。東向きの新幹線は止まっても、飛行機は大丈夫のよう。そういえば国際線がキャンセルになるとは、あまりニュースで聞いたことがありません。たぶん遅れても飛び立つのであろう・・・
27kgのボストンバッグをもって、はるかを前夜の宿泊地である日根野駅に降り立ちました。日根野は、1,2か月に一回、嘱託医をしている障害者センター「いちょうの森・ぎんなん」のある場所です。駅は知り尽くしているつもりでした。ところが、27kgのバッグをもつと、そこは全く別の駅でした。ステーションホテルへいく改札の場所は、JR特有の急な階段をまず登ります。そして、改札を通過し、また階段を同じだけ降ります。エレベーターはありません。ものすごいバリアです。老人性関節炎を抱える僕には、バッグを持ち上げて、冷や汗がでました。前夜このホテルに宿泊する人たちみんなが同じ重い想いをしているのでしょう。おまけに、ホテル入り口(正面ではない)には、大きな足ふきマットが敷いてありました。普通なら気付きませんが、このマットは、ホテルに泥を持ち込まない様にするのでしょうが、バッグはころがりません。その間持ち上げて運ばねばなりません。もちろん車椅子での通過も困難になります。ホテルのフロントで聞きました。「あの 駅の階段クレイムつきませんか?」「そうなんです。反対側のあまり利用しない側にエレベータがあるのですが・・・。相手がJRで、どうしようもありません」。あとで集まった同行の人たちに聞きました。
異口同音に「たいへんだった」。「でも、東京駅もひどかった・・・」という関東の人の声。JRはどこも同じなのでしょう。国際的にみると我が国の町はバリアだらけで、発展途上国なのでしょう。
たぶん、「いちげんさん」ばかりなのでしょう。この経験をした人は、重い荷物もって、二度とこのホテルには泊まろうとは思わないでしょう。
2) ホテル比較
ということで、その後に宿泊したデンマーク・コペンハーゲンのホテルとスウェーデン・マルメのホテルを車椅子使用の立場から検証しました。というのは、今回の同行者に車椅子を常用されているSさんがおられました。たいへんよい勉強をさせてもらいました。
コペンハーゲンの古い駅前ホテルの入り口にはしっかり段差がありました。そして古いホテル内エレベーターが車椅子キチキチの小ささには驚きました。
マルメのホテルは、入り口が回転ドアになっていました。通常回転ドアがある場合、その横手に自動のスライドドアがあるのですが、このホテルには、入り口が回転ドアのみの「ものすごい立派なホテル(部屋のベッドはキングサイズ)」でした。その回転ドアがまた小さめで、車椅子がガラス戸につっかえるのです。とても車椅子一人で出入りできるしろものではなかったのです。カードシステムで安全管理されているのですが、エレベータの使い方が不明なのは、何度か間違えながら試行錯誤すれば、方法を見いだせるのですが、ドアの開閉の重さは、とても車椅子のゲスト一人で出入りできないものでした。もちろんリストラ時代ですから、ドアをあけるボーイさんなどどこのホテルにも一人もいませんでした。
車椅子のSさんの話では、お風呂も不便、蛇口も重いし、シャワーの固定は高すぎるなど、「一流」ホテルでもバリアだらけホテルでした。
北欧の町中すべてが、バリアフリーという幻想は持たないで下さい。横断歩道の青信号時間内に車椅子で一気に渡りきることはできません。必死に身構えて「渡るぞ」という意志ないかぎり、無理です。これはコペンハーゲン(ここはものすごく短い青)でもマルメでも同様でした。
車椅子のSさんの言葉「わたしたちは一人で町中を安全に出歩きたい。でもこれでは無理」。そうなのです。サポートが進むと、ドア ツ ドアで、運んでくれるのでしょう。
日本は決して遅れていない??とはいいませんが、北欧のどこもかしこもバリアフリーとは思わないで下さい。・・・という結論でした。

9月30日
本来なら北欧訪問の内容を書くべきでしょうが、その後にあった
日本てんかん学会での僕の発表全文を記します。
抗てんかん薬として11年ぶりに発売されたマイスタンの使用経験ですが、従来の「医学的」発表を少し逸脱して、何故我が国は新薬が出ないのか?
どこに問題があるのか?を訴えました。この仕事は、現在日本てんかん協会(てんかん患者とそのサポーターの組織)でも取り組んでいる創薬ボランティア運動の一貫でもありました。なんとかてんかん学会が動き出すように・・・祈念して

日本てんかん学会 200192728日 東京

タイトル:久々の新薬・クロバザム(マイスタン)の難治性てんかんへ   
     の効果:臨床治験の今後の課題
 杉本健郎、荒木 敦、原田佳明
 関西医大男山病院小児科、関西医大病院小児科、小松病院小児科

発表読み原稿(全文)
これまで討論されてきたクロバザムの効果の発表(B会場の朝から7演題連続のクロバザム=マイスタンの効果についての発表がありました)と今回の発表の主旨は異なり、遅れている治験(新薬認可)の遅延についての発表になります。
最初に発表内容が抄録と一部異なることをお断ります。
                             
  スライド@
 目的
 クロバザム(CLB)は10年ぶりにでた新薬
 新薬が発売されてのてんかん発作抑制への貢献
 どうして新薬がでないのか・世界各国多数で発売中なのに
 CLBで発作効果を検討し、治験の問題点を検討した
                              
今回の発表の目的は、スライド@の通りです。クロバザムが久々に新薬として発売され、どのくらいの難治性てんかん患者の発作抑制に役だったかを検討し。次に現在の治験中の薬剤および治験遅延の問題点について検討しました。
                               
  スライドA
 クロバザムの歴史
1979年 Gastaut & Low  (Epilepsia)  難治性てんかんに有効
1990年2月 ヘキスト(ドイツ)〜日本商事KK 治験着手
1990年5月〜12月 前期第II相 成人 3施設 83例
1991年4月〜1992年3月 後期第II相 成人 16施設 98例 
   (併用は3剤以内)
1991年4月〜1992年10月    小児 10施設 112例
1992年5月〜1993年3月 第III相比較試験・多施設共同二重盲検比較 
                   成人 19施設 53例と52例
1992年12月〜1994年12月 第III相無作為化比較試験 クロナゼパムと
                   小児 18施設 38例と42例
1991年4月〜1993年3月 成人長期試験  
1997年7月〜1993年3月 小児長期試験
1997年3月18日 大日本製薬KKから申請
2000年3月  承認    2000年5月  発売
 なお、CLBは、抗てんかん薬として、ドイツは1983年12月から、フランスは1981年12月から、英国は1979年2月から発売していた。世界87か国ですでに承認されていた。
                            
 まずクロバザムの歴史から見てみます。字が小さくてすみません。
1979年ガストーとローによって難治性てんかんへの有効性の報告からはじまります。ヨーロッパ各国では1979年から1980年代前半にかけて発売承認になっています。我が国では、1990年2月日本商事株式会社が治験に着手し、新GCp以前の治験法がとられ、II相、 III相とも10施設代で実施され、10年後の2000年3月に承認されました。
                               
  スライドB
   方法
 関西医大男山病院小児科、関西医大病院小児科、小松病院小児科
の神経外来通院患者にインフォームド・コンセント後、投与した。
  2歳から22歳、男15、女4の19例で一年のフォロー
一日一回以上の部分ないし全般発作の難治性てんかん患者
 なお、知的障害合併は、なし:2、 軽度:1、中等度:4、重度:12  
                             
今回の方法は、スライドBの通り、関西医大小児科関連3病院で実施しました。1日1回以上のてんかん発作がある2歳から22歳の19例が対象です。投与にあたって、患者本人の投与承認を得ましたが、中等度以上の知的障害がある16例については、親権者のインフォームドコンセントを得ました。

                             
  スライドC
結果
投与量 0.1〜0.8mg/kg/日 分1,分2(多くは0.3〜0.4mg)
併用薬 1剤 1、2剤 4、3剤 9、4剤 4、5剤 1 
(VPA,PHT,CBZなど)CZPを6例で減量中止した。

  有効性     完全抑制   3
          一時抑制   2
           有効    6
  安全性 副作用  発作増加    2
           ふらつき・眠気 2
           ゼロゼロ増加  1  
                           
結果(スライドC)です。投与量は0.1mg/kg/日から0.8mg/kg/日で、殆どの例で0.3から0.4mg/kg/日の投与量でした。併用薬剤数は、セニラン、メイラックッスも含めての数です。14例が3剤以上でした。なお、クロナゼパム投与中の症例は順次入れ替えました。投与後1年で完全抑制3例で、発作半減までいれると、11例58%の症例が有効でした。副作用は2例で発作が増悪し、即中止しましたが、他は眠気やふらつきなどが3例ありました。
このようにクロバザム投与まで発作を繰り返していた症例で、クロバザム投与によって半数以上が有効性を示しました。このクロバザムも10年かかってやっと承認発売された結果の効果で、その時点ですでに世界各国87か国の発売が行われていました。
次に、我が国の抗てんかん薬の治験について述べます。
                             
  スライドD
(発表は1995年の講演スライド、ここでの内容は1999年のものを示しています)
 (スライド5 当日は1995年現在のものを出しました)
 主な抗てんかん新薬の開発・使用状況、1999秋
 (日本てんかん協会1999年大会の報告集)

薬の名前   開発の経緯と諸外国の発売状況    日本の現状
                        
トピラメート  米国で創製。    第III相準備中(来春から)
      米国(1996)承認    (あと早くて4年くらい?) 
        英国(1995)
        カナダ、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー
         成人部分発作 27カ国
         小児部分発作 (英国、仏国など)

クロバザム  ドイツ、仏国で抗不安薬として開発    第III相終了、
   抗てんかん薬としては国際的には     来年発売予定?(審査中)
       「新薬」に入らない。
        世界90カ国以上で使用中

ビガバトリン  1980年から治験開始。    1990年から開発開始。
        英国(1989)その後60カ国以上 第III相終了(1995) 
      アジアでも中国、台湾、韓国など承認    視野狭窄が報告
         米国はまだ。       どうするか?検討中

ラモトリジン   英国で開発       第III相終了、申請準備中
        英国(1991)、米国(1994) (通常1〜2年かかるか?)
        世界約80か国で承認

タイアガビン  デンマークと米国が開発   第II相終了時にデンマーク
(ガビトリル) デンマーク、スウェーデン、ドイツ  
     本社が薬剤権を別社に売却
     米国、仏国、英国など16か国で承認   
     薬剤とぎれ、他社探すも引き受けなしで中止。

ガバペンチン  1973年ドイツで開発     第II相中
         英国(1993)、米国(1993) 欧米27カ国で発売

フェルバメート 米国(1993)発売後副作用出現で     治験中止  
         限定使用中。スペイン、アルデンチンも。
         カナダ、メキシコ、等臨床前

TJ-960  抗てんかん薬としての漢方    治験中止
                         
このスライドは約6年前の1995年7月日本てんかん協会基礎講座の薬物療法についての演者の講演に用いたスライドです。この中でその後発売になったのは今回検討したクロバザムだけでした。
                          
  スライドE
現在進行中の主な治療;新GCP(平成10年4月適応)以降

ガバペンチン 二重盲検、200例, 最短通院4週、16歳以上、2剤まで
       代諾者
 ラモトリジン 第III相長期試験
 トピラメート  (B S) 有効性検証二重盲検、18歳以上、文書同意
         知的には軽度まで、併用二剤まで、最短通院1週
 レベチラセタム (B S) 1999年11月 FDA, 2000年9月、EMEA(欧州)承認
      Add on、3剤まで、説明が理解できる人
      二重盲検比較(プラセボ:1000mg:3000mg)各70例目標
                             
新GCPが1998年4月に適応されて以降の現在の治験中の抗てんかん薬です。ガバペンチンはクロバザムとほぼ同様の条件で治験がおこなわれ、すでにキークローズドしているはずのものです・・・・
ラモトリジンについては第III相および長期試験での有効性が再検討されています。トピラメートはご存じの通り、かなり厳しい条件で治験が行われています。文書同意、18歳以上、軽い知的障害までの条件、併用2剤まで、最短通院1週」、そして1施設5例以上という条件でクロバザムの倍以上の施設が参加していますが、なかなか症例が集まらないようです。レペチラセタムはつい最近ブリッジングスタディがはじまりました。これは少し条件が緩和されています。
                            
  スライドF
治験遅延の問題点(私見)
1)新GCPによる質の高い治験
   医療制度の違い 治療・投薬の習慣
2)知的障害を合併している人のIC
3)治験が同時進行中
4)1施設での例数が多い  グループスタディが難しい
5)有効性を裏づけるためには200例が目処・多い
6)リストラ時代の病院の体制
   治験責任医師(専門性)、特別外来設置、CRC
7)通院条件  交通費など、1〜2週おきの通院、待ち時間
                           
治験遅延の問題点ですが、新GCPにより北米、EU諸国と並ぶ質の高さを求められることは良しとしても、医療の歴史や制度の相違が質の高い治験を難しくしています。
症例が全国の医療施設に散らばり、かつ、現在でも3つの治験が同時進行し、1施設で数例以上の治験数が要求され、治験委員会の関連で大学を越えたグループスタディが組めません。もっともこのリストラ時代の医療施設側の診療体制や患者側の通院条件の問題も原因の一つにあると思います。
                           
  スライドG
今後の対策(私見・順不同)
1)学会として
   対策委員会設置
   専門家として、有効でかつ合理的かつ迅速な方法を科学的に模索
   治験研究への評価アップ
2)患者団体・日本てんかん協会
    創薬ボランティアの発足・実際に運動中
    専門医師の協力
3)製薬会社
   新GCPによる条件設定
   ブリッジング・スタディの追究
   (迅速は経費節減)
4)厚生労働省
   新GCPの解釈
   ICH(international conference on harmonisation・・・)
   治験相談へのてんかん専門家導入
   受益者視点と自己決定の論理
5)治験施設・大学での治験重視
   医学生教育への治験の利用
   臨床薬学の重視
                             
今後の対策について私見を述べます。
まず本学会として、治験を有効かつ合理的、迅速、科学的な治験方法の検討が必要と思います。
治験研究への評価も再検討が必要でしょう。
次に日本てんかん協会では今春から創薬ボランティアを開始し、トピラメートの治験から運動を開始しています。我が国の法律や医療制度の中で、患者団体としても手をこまねいているのではなく、新薬の治験促進に奮闘しています。是非とも本学会の先生方のこの運動へのご支持、ご協力をお願いします。
治験そのものは、これまで大学の医学教育の中では語られてきませんでした。しかし、治療医学の進歩のため、臨床薬学の立場からみても、今後は前向きに検討すべきものと思います。
最後にブリッジングスタディについてです。ICH(国際的にハーモニーをさせた臨床試験・スライド参照)の評価についても厚労省の見解がすこしずつ変わってきています。現在進行中の治験薬剤で世界80か国以上の承認を得ている薬剤のブリッジングスタディについては、学会と該当製薬会社がより迅速で科学的な方法を検討すべきではないかと考えます。
インフォームドコンセントをきっちりして、受益者の立場にたって、薬剤の選択は自己決定の論理で、日常診療が行われるべきと思います。
今回検討したクロバザムでも明瞭になった通り、約半数の難治性てんかん患者の発作が改善する可能性のある新薬をせめて諸外国並に使えるようになってほしいと念願しています。
 以上です。ありがとうございました。

  質疑応答〔杉本が勝手に要約しました〕

A教授:先生(杉本)のいわれた通りです。いっぱい問題があると思いますが、しかたがない面があります。ブリッジングスタディは北米欧州のとおりのものを実施しなければなりません。難しいものになります。でも学会でも取り組まなくては・・・
B元教授:問題点はおっしゃるとおりです。北米の国際学会へいっても、(日本ではまだ使っていない薬の話になる)薬物療法の討論には我々日本から来たものは討論に加われない(ついていけない)。このことを学会員は認知すべきである。
C教授:我が大学でもこのたび治験部を立ち上げて、医学教育・診療面で取り組み始めた。すこしずつ体制も変わってきている。学会でも取り上げねばならないと思う。もし、ほんの数パーセントしか効かない薬であれば、オーファンドラッグとして申請していけばよい。とにかく前向きになって来つつある。

フロアーで
E療育センター長:いいたいことをよくぞいってくれた。感謝。
同内容が3人あり。
F元教授(現重度施設長):知的障害の重い人が何故治験できないのですか?難治性てんかんの人の殆どは知的障害を合併しているのでは。親に十分説明してやることはできないのですか?そうすれば数はたくさん増えると思いますが。 
 

9月21日金曜日 帰国
今回ほど遠い国に来ている感覚をもったことはありません。その理由は、例のハイジャックテロです。毎日、訪問が終わると、テレビのCNN かBBCをかけっぱなしにして、貧しい聴力で必死に聞き分けて、 一喜一憂していました。
 最初に滞在したオーフス・ホースコーレンというところは、海辺のコテージで、ちょうど軽井沢のゴルフ場コテージのような佇まいで、緑いっぱいのすばらしい環境の中でした。そこを基点として毎日、障害者施設訪問をしました。騒然とした世界情勢とはかけはなれた静けさでした。
 オーフスを後にして、コペンハーゲンに戻ったときは、夜の町で喧嘩の声がし、なんとなく騒然としていました。やっとホテルの部屋の電話ジャックが合い、必死で日本にメイルを送り、ヤフーで情報を仕入れていました。そのうち日本にいるのと同じ錯覚にとらわれ、延々と使用していました。もっとも、僕の使用しているソネットは英国に中継点があり、そこにアクセスしたのですが、ものすごい電話料を請求されるはめになりました。これで「びびって」しまって、後は最小限の使用になりました。日本語でインターネットし、e-mail の自分の私書箱を覗く為には、やはりこういう方法しかないのでしょうか? もっとも送信だけはホットメイルでできると思いますが。  ちょっとした知識ですが、これから北欧へいかれる場合のメイルですが、ホテル各部屋の電話のジャックは日本と同じです。そしてトーン信号です。
 ただ、中継点をどこにするかが、値段に直結します。So-netは欧州に関しては英国でした。それゆえ、使用を最小限にしました。コペンハーゲン中央駅にある売店に電送の朝日新聞を売っています。これを日本人が先を争って、買い求めに行きました。
「うまく、帰ることが出来るだろうか??」
CNN のタイトルは途中からWARという戦争文字になりました。「こわいこわい」と思いつつ、英語サウンドが音楽のように快くなり、テレビ付けっぱなしでおやすみなさいになっていました。
まずは無事帰ってきたことを報告します。
結構、興味深いおみやげ話があります。これからの講演などに肉付けしていくつもりです。報告集としての本作成もあきらめないで、検討します。
今回の一行は僕を含めて「きょうされん」生活部会13人でした。デイサービスや夜間のステイについての北欧の現状を是非一冊の報告集にして全国へ発信したいと考えています。よろしくお願いします。

9月10日 台風接近中関空へ
海外へ行く時、何が嫌か・・・それは飛行機の缶詰状態です。
30年前に北米上空でただのアルコールを思いっきり飲みました。結果、上空での悪酔い。「ほんまにもう死ぬか?」と思うほどしんどかった経験がありました。血圧が落ちて、ボーとして、脈が減っていくような気持ちになり、一種の静かなパニック状態。以来、機中では酒は飲まないことにしています。にもかかわらず、「ひんけつ」をおこしてしまいます。それは機中での食事です。次から次へと、時間をおかずに運ばれてくる機内食。このごろはこれも、義理で食べるのはやめました。いつもパスします。そしてひたすら睡眠をとります。
さあこれから12時間の旅・苦痛との闘いが始まります。なんとか楽しい機内であればいいのですが、あの閉塞感は何度のっても慣れません。お金さえあれば、クラスが上に座れて、優雅なのでしょう??
仕事を文庫本をいっぱい詰め込んで、自らに「がんばれ」と言い聞かせての出発です。・・・・・そんなにまでして、行くことないのに・・・
ではしばらくこのコーナーには書き込めません。よろしく。

9月3日 団塊世代・・・老い
数年前にある大学の50歳を過ぎた共同研究者の友人が語っていました。
「残念なことだけど、50歳を過ぎると、研究するのに、目が見えなくなるし、根気がなくなるし、なによりも英文の論文が読みにくくなるのだ。これが悔しくてたまらない。老いを避けることが出来ない悔しさは何とも云えない想いになるのだよ」と語ってくれました。この時僕は45歳を少し過ぎた頃。なんのなんの僕は若いのだ!と思っていました。
 今、同じことを感じます。 英文を読んでも、今までなら、格好いい話ですが、斜め読みができました。電車の中で英文をたくさん読むことができました。でも今は、声を出して読まないと、英文の論文の意味はつかめません。あーこれが老いなのか!? いーえ 単に英文を避けているだけか? でも人の名前も覚えられません。友人や患者さんのお母さんとの会話(どこの出身だとか)でも、同じ質問を繰り返していることに、後で気付くことが多々あります。
 本日、自宅に帰ると、米国ヒュートンの友人であるボーアン医師から共同研究の英文別冊が送られて来ていました。なんと9年前に彼から呼ばれてテキサス大学に二週間滞在し一緒にやった仕事でした。彼は僕と同じ歳です。よくぞ10年近くも同じ論文をあっちやこっちやアプライして、頑張ったなと尊敬してしまいます。そして、手紙には、一時テキサス大学の小児神経をやめて開業していたが、また同じテキサスメディカルセンターのベーラーカレッジでアカデミックな仕事をしはじめていると書いてありました。
彼も、たぶん悩んでいたのだと思います。これからの生き方を。でも9年来の仕事(ドイツとアメリカと日本の世界的な共同研究でした)を一応仕上げて、また新たな仕事をやってみようという気になったのでしょう。
 負けてはおれません。そういえば、こんなことを書いたら叱られるかもしれませんが、「トロント事情」の田中さんは、僕と同年代(少し上)ですが、50歳以降に水泳で鍛え、いまやK1の話題でもわかるように、トロントで空手のような格闘技(あまり正確ではありません)をはじめていると聞きます。
 片や、僕は、足・膝を痛め、「それは老人性の関節炎でしょう」と診断され、ジムで鍛えることやウオーキングすら止められる状態。気が滅入るのですが、海外の同じ世代の「若者」に触発されて・・・もう一度初心に帰って、身体を鍛え(水泳か?)、勉強・研究もしてみようという気持ちになっています。
 ちょっと前向きになってきた団塊世代おっさんの二学期の始まりです。さーーあて、この気持ちいつまで持続できるでしょうか?

8月26日 弱点


 25日の土曜日は、久しぶりに本屋さんへ行きました。住処が東山なので、医学書まで含めた大きな本屋さんは、二地域にあります。一つの方向は、四条河原町の丸善かジュンク堂のどちらかで、後者は福祉関係の本がたくさんあります。もう一つは、昔の丸物百貨店、その後近鉄百貨店、そしてプラッツと名を変えた京都駅前。そのワンフロアーに旭屋が入っています。ここは北米の本屋の中に喫茶店や昼寝のできるソファーがあるわけではありませんが、比較的スペースが広く、椅子に座って少し本を読む場所もあります。丸善も昔ほど店の対応は悪くはありませんが、店頭スタイルは昔のままです。
 いつもマウンテインバイクででかけます。家からの距離は同じ位で、10分位のところです。今回も南方の京都駅へ走りました。京都独特の路地を自転車で近道します。結構楽しい時間です。しかし、住処が東山の中腹なので、帰りは急な坂をローギアで登ります。これがきつい。  昨日は道すがらの国立博物館が入場無料日でしたので、つい入場しました。坂本龍馬特別展をしていましたので。  これは常設に加え二階の二つの部屋だけの展示でした。妻であった京都出身の「おりょう」の写真の討論があるそうですが、今回の展示にさいして、この国立博物館としての「新たな見解・写真」が展示されていました。それによると現在にも通じるなかなかの美人だったようです。
 帰り道は自宅までバイクを必死にこぎ続けました。
そのバイクのおかげでしょうか、日曜日、階段が登れません。膝が痛くて、膝に力が入りません。ご存じの通り、160cm、51kgのたいへん小柄な体格に加え、極めて明瞭なo脚です。膝に負担がかかるのでしょう。
 思い起こせば、30年ほど前に夏休みに友人達と白馬岳へ雪渓から登りました。
次の日から膝が痛くて殆ど歩けない状態になりました。途中からおんぶをしてもらって下山したのを思い出しました。以来、荷物を背負っての登山は出来ていないのです。おそらく、50歳をすぎて、老いがやってきて、弱点がより一層明確になってきているのでしょう。前向きに強化する方法を考えなくては。
40歳すぎから断続的に続けていたジムトレーニングをカナダ・トロントでもなんとか持続しました。でも、そこで見た現地の「ムキムキのマン、ウーマン」を見て、完全に萎縮し、帰国後はなにもしていませんでした。
膝の二次障害で動けなくなる前になんとかしなくては、このバリアーだらけの日本の町を一人で移動することができなくなるのではないかという危機感を持ちました。

8月19日 森の遊園地プール


京都市内には野外プールが南北に二つあります。一つが南のお城のそばの遊園地で、これは紹介済みです。もう一つ、北部比叡山山麓に「森の遊園地プール」があります。今回はここを紹介します。
まずインターネット・ヤフーで「森のプール」と引きますと、必ず宝塚ファミリーランドのプールが出てきます。そして、少しだけ控えめにこのプールも出てきます。遊園地としては何度か行きましたが、プールは今回初めてです。
 ヤフーで出てくるのは、個人のホームページの体験談が主でした。今回もここに上記のタイトルで書き込みをしますと、今後は以下の印象記も引っぱり出されることになるでしょう。
 少し横道にそれますが、このごろこの不定期日記に載せたものやトロント事情の内容によって、キーワードがヤフーなどに記録されて、僕のホームページに到達し、メイルを下さる方が増えてきました。最近では、格闘技K1シリーズのことや、田舎のバリアフリーをお願いした「竹澤工務店」がキーワードとして引用されて思わぬメイルを頂くことがありました。インターネットのつながりは凄いですね。
 さて、森のプールですが、入場料は南部と同じでした。しかし、プールが円形の浅いものが一つだけです。もともと幼児向けに設定されているようでしたが、当日は若いカップルから、明らかに中学生と思われる男子グループ、そしてファミリー(みんな若い親)で、すし詰め・芋のこを洗う状態でした。円形プールのまわりに6人の椅子監視員と3人の流動監視員がいました。後者はプールサイドでアイスクリームを食べたり、僕のようにメガネをかけて入水する人や、走りまわるこどもに注意する若者で、みんなバイト学生でした。ただ、ここで書いておきたいことは、注意するとき、どなりちらすのではなく、必ず当事者の耳元でささやくのです。これはいい方法と思いました。南部のプールでは、中央指令が、監視員そのものにマイクのがなり声で注意していました。これはよくない。
 気になった点です。消毒薬の臭いがとてもきつい。濃度を高くしているのでしょう。芋のこ状態だから仕方がないとしても、アトピーの人には辛いと思いました。有料の休憩所もなく、ウオータースライダーも短いものでしたが、無料でした。でも多くの日本のプールがそうであるように、脱衣所やトイレが汚いのは同じでした。
 ここは泳ぐ所ではなく、水浴びをするところと割り切って行くべきです。比叡山からわき出る?水をひいているためか、大変冷たい水でした。
近所のこどもたちを引率したのですが、水深が浅く、しかも徹底しての見張りバイトがいるため、引率者としては日陰でただただ時間が早く過ぎてくれるよう祈りながら暑さを耐えるのみでした。
 以上、暑い夏の京都市内屋外プール辛口情報でした。

8月12日 プール・・・仕方がないか・・


週末に京都市内南部のお城のそばのプールに行きました。
駐車場1000円也、プール大人一人1800円也はびっくり・私学共済の割引でこれは格安に。人影がほとんどない遊園地を通り抜けて奥のプール入り口へ。
ロッカーが200円也、これはあとでも帰ってきません。一昔まえの脱衣室同様、不潔。
そして、形だけのシャワーと足浴を通り、プールサイドへ。               流れるプールから、波のプール、ウオータースライダー、25mプールまで様々。そこは若者の世界。
 時間が経つにつれ、色々なことが見えてくる。まずびっくりしたのは、家族休憩室と称して、屋根つき小さな囲いのスペースを3時間6000円と3000円で貸す。なんじゃこれは??なるほど他には蔭が出来る場所はプールサイドにはない。もっと驚きは、ウオータースライダーが一回100円也。そんなに立派なものでも、距離が長い訳でもない。お陰でどこのプールでも大にぎわいのウオータースライダーが閑散としているので、お金さえ払えば、「何度でも、すぐにすべれて快適」。   プール中央の監視室から、マイクの大きな声で、「小さなこどもさんから目を離さないで」としつっこくがなりたてる。もちろんプールサイドにはバイトのおねえちゃんがパラソルの下で監視しているのに。
 もうちょっと静かにできないのか?  叫んでいれば責任が逃れられるのか?
いやー 時代の先取りというより、つぶれる前の悪あがきのような経営?
でも今年の酷暑はいやでも、水に入りたくなる暑さ。仕方がないか。
なんとなく不快な想いでプールを出る。なお、断っておきますが、どこへ行ってもあら探しをするわけではありません。先々週に行った三木のグリーンピアのプールは、お金、お金の世界ではなく、気分良く水に入れました。
そして、まだ追加があります。前夜ヒラパーのお化け屋敷の特集をテレビでやっていたので、ここのお化け屋敷を試そうと入場。入り口で金髪のバイトのにいちゃんが昼食のパンをかじっていました。一人200円也。すべてが古くさい仕掛けで、何一つびっくりするものなし。埃だらけの幽霊(当たり前か?)。
あーこれは近いうちにつぶれる。企業努力の仕方を間違っている。
昼頃、この遊園地を後にするも、後から後から車がやってくる・・・
近場ならこれでも仕方がないのか・・・
なんか「仕方がない」が今回のキーワードになりました。

8月4,5日 門司・小倉へ行きました。


第42回日本社会医学会が小倉であり、4日朝から家を出ました。
相変わらず暑い。新幹線京都駅はヒトだらけです。ものすごい熱気に包まれたホームも様々な人たちでいっぱい。係員が列車が出入する度に、がなり声で「黄色い線より内側へ入って下さい!!」を怒鳴り立てる。これがとてもうるさく、暑苦しい。外国人観光客が猛暑の中、増えています。動き出した新幹線の窓に肌を付けて、別れをしています。手を振りながら列車に寄り添うように歩く人もいます。いくら日本語で怒鳴っても、なんの効果がないことはわかっているのに・・・それより近くにいるのだから、直接注意すればいいものを・・・。JR諸君もっとプロになれよ。静かな駅にしてくれよ。
 長年の共同研究者である室博士が門司に棲んでおられる。
久しぶりの出会い、もちろんこれからの仕事の話も。二度目の門司です。
門司港はなかなかいいところです。門司港がレトロの町として保存され、細部にまで割合気をつかった町作りがされています。小倉から10分位ですが、対岸に下関、関門海峡がまさに間近です。
 平家最後の地、巌流島の佐々木小次郎の想い、「龍馬が行く」で海峡を渡り小倉城を攻めた決死の若者・・・関門の流れをみているとタイムスリップしそうになります。
前回訪問時にはなかったのですが、門司港レトロの町の真ん中に25階のマンションが建っていました。地元出身の佐木隆三や栗原小巻が持ち主とか。
いいところです。
 小倉は夏祭りの真っ最中で、駅ホールから町中まではっぴ姿や浴着姿?の若者があふれ、和太鼓のビートが鳴り響く。おかげでホテルはすべて満タン。
インターネット予約最後の一つ。駅から歩いて3分の4階建ての12部屋位の「ビジネスホテル」。裏は成人映画館、横にストリップ劇場、前がソープ、横が焼鳥屋。凄い場所。
ところが外見で評価してはいけない。ホテル入り口に座っているのは、「その筋」のヒト風の青年。でも部屋は静か。セミダブル、横の部屋の声も聞こえない。バスも普通。カーテン開けるとピンクの空なるも閉めると、真っ暗になる。クーラー調節もグット。なんとここ数ヶ月どんな大きなホテルでもみたことないインターネット接続のジャックがあった!値段は5300円なり。朝まで大変気分良く熟睡しました。「場所や外見で評価したらあかん。中身で勝負や」
 以下は、つまらない話ですが、気になった出来事でした。
こんな時どうしたらいいのか?小倉にできた有名な推理小説作家の記念館での出来事。学会の昼休みのわずかな時間で展示を見て、そこのレストランでの出来事。ピラフに中に茶色に染めた一本の長い髪の毛がからみついていました。
やはり「ムッと」しました。・・・「どうしよう?」「クレイムつけるべきか?」・・・急いでいることもあり、髪を手で引き抜いて、全部食べました。黙ってそのまま支払いました。人手がないのか、髪を染めた若い女性がウエイトレスと厨房の両方を走り回っていました。
社会医学会発表の意見は別項へ書き込みます。

7月31日 夏休み小旅行
28日土曜日から月曜日まで友人家族といっしょに小旅行に出かけました。
ところは兵庫県の南の島・家島です。瀬戸内海国立公園の一角です。なんの前知識もなく、姫路港から高速艇にのりました。(注;駐車場が少ないので土曜・日曜は早い目に行かないと岸壁近くに車を留められません。)
 25分で離島へ到着。港の真っ正面にモダンな診療所、そして2000トン級の石をはこぶ船が所狭しと停泊中。そういえば途中の島は、「石取り」で昔の島の風景が消失しつつある奇異な姿を見ました。
 家島群島についてのおはなし。古くは縄文の遺跡がでるような古い島。魚介類が豊富で、今も漁師さんが生活している群島。でもその古い島に棲む人たちが、たぶん「バブル」時代の要請で、自分たち所有の緑豊かな島々を切り崩していったのでしょう。ポートアイランド、関西空港、今は六甲アイランド・・・そして神戸空港と。宿にした山のてっぺんの「いえしま荘」から見る西島は、そびえ立っていた山はなくなり、男鹿(たんが)島も半分がなくなり・・・
 島の名物(後述)のカブの二人乗りでてっぺんへ登ってきた島の老夫婦曰く「食うためには仕方がない」「タコのように自分の足を食べていっている姿」とのこと。共感。しかし、その石材のお陰で、島は豊かになり、8割は姫路にもう一軒の家を持ち、本州用の自家用車を持っている。なによりも、若者で活気溢れる島。女性は総じて美人揃い。走っている乗り物は狭い道のため、軽自動車以下。                          3月に訪問したベトナムそっくりの状況。カブが主たる乗り物で、ヘルメットなしで、家族3、4人が同乗している。もちろん小さな子どもは、前に立つか買い物かごの中。みんながもくもくと一定以上のスピードで島内の細い路地を走り回る。
 ちなみに島内には交番があるも、取り締まりは姫路飾磨署から出張されるそうで・・・
兵庫県の山奥で育った人間には信じられない同じ兵庫県の風景でした。ここには昔から独特の文化が育っていたのでしょう。先ほどの老人曰く、「つい最近まで同じ島内だけの婚姻だった」「姫路まで船で2時間近くかかったし、一日2,3便しかなかったので、本州とは日常的な交わりはなかった」と。
 「兵庫県」の臭いがしない島。釣りと魚料理が目的なるも、釣り船に乗るなり、酔っぱらってしまって、近くの島で休養するはめにはなったものの、不思議な体験をした小旅行でした。

7月20日・海の日  「千と千尋の神隠し」封切る


久しぶりのお休み。 といっても、締め切り間近の原稿が3つあり、少々、パニック状態。にもかかわらず、筆進まず。 今日は宮崎作品の久々の封切り。朝から東宝直営館へ出かけた。なんと長蛇の列。おまけにその列の切符はすでに売り切れ 。列は良い座席を取るためのものでした。切符は夕方4時からの上映分しか余裕なし。なんと・・・。炎天下しぶしぶ自宅まで40分歩いて帰る。何故か?タクシーで映画館まで乗り付けた。それが目的達成できず、もったいない気持ちになったため。
午後4時からの入場権は確保していたが、心配で3時半から並ぶ。若い女性が多い。カップルも多い。今回は母親同伴が多い。僕のようなおっさんは極めてまれ。宮崎作品は女性に人気があるのかな。
 鑑賞結果。おもしろい。実におもしろい。宮崎監督(60歳)は10歳の子ども達へのメッセージと書いていたが、50歳すぎたおっさんでも結構『はまってしまう』。日頃、カードやテレビゲームにはまっている11歳のこどもが、「文句なしにおもしろい」とさけんだ。この映画は子ども達の心をつかんでいた。普通の子どもが感動を覚える作品。普通の子ども「千尋」が、苦境に陥っても、くじけることなく、前向きに生きていく・挑戦していく姿に共感を覚える。たいへん気持ちが素直になれる映画だ。

 親子ともども是非ご覧になって下さい。


7月14日 朝 八鹿へ出発直前

 掲示板の「脳死・移植」に書き込みましたが、杉本健郎が斬る「子どもの脳死」・・
の講演を一昨日の夜行いました。40人から50人ちかくの小児科医師(ほとんど小児神経)の前で、計1時間ほど絶叫したためでしょうか?声が枯れて、鼻汁??が止まらないコンディションです。本当の原因は、暑い夜にクーラーをかけて寝るから風邪をひいてしまったようです。今日の午後、はたして二時間の間、声がもつか? 頑張ろう。
 でもこの一週間は脳死のレジメ(好評)を作るために力を注ぎました。これまで見えていなかった脳死・移植の問題点が見えてきました。この掲示板の「障害児者医療・療育」と社会的にまさに同じ土俵にある問題であることをはっきりと認識しました。
そして、脳死という言葉は、歴史的にあきらかに「移植」を意識した言葉であること。
これまでは二つを別に考えようという流れがありましたが、これは間違い。すなわち
この先の討論には、水無脳症や「植物」状態の人たちをもドナーに仕立て上げるような
討論がやってくる!まさにアメリカはその傾向がバリバリにあります。ドナー不足を解決するために、どんどんドナー対象者をひろげられてはたまりません。
 人間の生きていく権利そのものを犯し続けてていく可能性を感じています。

もっとも、これまでも同じ考えでいたのですが、今回総合的に「脳死」の復習をし、みんなの前で実際話してみて、自分の考えがまとまってきたのです。今日の話でそれもくわえましょう。   いつも講演をすると、自分の考察に新たな部分を発見するのです。それが楽しくて、うれしくて、・・・次の講演ではさも昔から感じていた自分の意見のごとく話ます。

さて、今日はどんな出会いとどんな発見が あるでしょうか。

7月8日 日曜日 ポケットモンスター セレビィ 時を超えた遭遇


昨日から封切りのポケモン劇場版を早朝一番に見に行きました。
8時45分即ち学校の始まる時間です。劇場は座席が588ですが、小学校低学年の子ども達と親でいっぱい。このごろ母親でなく、父親がいたれりつせりのサポートで付き添いで来る例が増えています。
内容は、まさに「もののけ姫」と「ゴジラ」をあわせたような内容です。目新しい内容ではありません。「どこかで見た筋だぞ?」と思いつつ結構面白くみたのですが、見終わって、「もののけ姫」だという印象のみが残りました。最後のタイトルとスタッフ紹介バックで流れる映像で今回の主人公の40年後が描かれているように伺えました。これが少し目新しい感じを受けました。
 成人がみるこども映画としては、コナンやどらえもんとは比較にならない筋書きでした。でも見に来ているこどもはみん満足していたようです。
帰りに日曜の朝の河原町西側を南下しました。驚きました。京都に20年近く住んでいますが、パチンコ屋とゲームセンターがやたらと増えていました。結局今景気がいいのはこの分野だけですか?

7月1日 熱帯夜が続きます
昨夜、テレビで「のど自慢」を放映していました。ボーとして見ていたのですが、途中で面白くなってきました。終わりの方では、涙が止まりません。このごろ涙もろくて・・・ヘッドホーンで聞きながら遠慮して見ていたのですが、その最中に、久しぶりに帰ってきている娘の叫ぶ声。なんだ!泥棒か??・・・違いました。新聞紙をもって、黒いものをこわごわ追いかけています。「お父さん、なんとかしてよ!!」「今、いいところで(顔中なみだ)・・・」
そうです。ごきぶりでした。 娘に叩かれ弱った奴を、怒りをこめてテイッシュで握りつぶしました。残酷な中年男でした。
昼の本物の NHK「のど自慢」をビール片手に見てしまいました。

6月30日 西日本ツアー その3 広島から神戸へ


先週のことです。博多に二泊して23日は広島へ向かいました。
 ひとりで旅にでるときは、いつも一人で夕食をとります。1996年にカナダへ行く前は、この一人の食事や買い物が苦手でした。でも、トロント生活とひとりでヨーロッパなどをまわることで、鍛えられました。別にどこへ行こうと、何をしようと、身構えることなく、自然に動けるようになりました。50歳の手習いでしょうか。田舎育ちですから、夜の食事はきっちりしたものを食べなければならないという既成概念が植え付けられていました。今は「腹が膨れたらよい」という感覚になっています。これがよいのか?わかりませんが。
 博多二日目は、博多駅構内の「まわる寿司」でした。結構味はいけました。京都の色々なまわる寿司より美味。食べている顔ぶれは、すべて男で一人。ウーン
 広島は、グッチの会という広島の産科医師グループからの招請講演でした。タイトルはいつもの持ちネタ「脳性麻痺の発生要因は分娩時仮死ではない」です。リーガロイヤルホテルという自分のお金では到底宿泊出来ないホテルに泊めてもらい、ホテル内で話させてもらいました。広島で開業の母校関西医大の先輩も来られていました。学生時代に僕が自治会活動で奔走していたとき、その人は昔でいう硬派、右翼的な人で、「おまえは・・・」と僕がなぐられそうになったのを今でも覚えています。でも30年という年月は、昔の「左と右」がいっしょに酒を酌み交わすことを可能にしたのですね。
それにしても、最近の産科医師を相手の患者側の賠償訴訟が増加し続けています。この十年ほど、医師会などの医師側の相談窓口になって、問題点を小児神経学的立場から検証しています。何割とは明確に云えませんが、「障害を残したのはあの医者のせいだ」と医師に対する憎しみを裁判に持ち込まれる事例の一部に、医学的・科学的にはそうではないと断言できる場合があります。我が国で、障害をもつこどもを育てるのは、親であるべきという「受益者負担」の考えが徹底しています。そのため親や兄妹の生き様や将来設計まで狂ってしまいます。その怒りや苦しみを分娩した医師に向けるのは決して正しいとはいえません。もちろん「間違った医療」と一目瞭然のケースもあります。生活の困難さや障害児の自立へのサポートは、むしろ公的にきっちりと保障すべきだと思います。間違いを犯した医師は、公的に裁かれるべきです。ひどい場合は免許取消も含めて。しかし、その裁決には質の高い討論と専門性が必要と思います。個人的に保険に入って、個人的に支払うという北米的考え方はどうもなじめません。
 24日日曜日は神戸です。「こども病院で療育を考える会」での定例勉強会での講演です。場所は新神戸駅近くの教会でした。難病で今も入院しているこどもをもつOさん夫婦が中心の会です。院内に入院している子ども達の訓練ができないことから、運動が始まり、運動のかいあって、いまでは病院内で週3回の理学療法が可能になっています。しかし、まだ病院内に訓練士が常駐するシステムにはなっていません。
病院はなんとかリストラしてこの厳しい時勢を生き延びようとしています。そんなときに新たな職種や部署を増やす運動はどんなにたいへんなことか・・・しかし、慢性の神経障害へのトータルサポートとしての訓練は、当然の保障と思います。無理難題を押しつけているのではなく、「あって当然のもの」を要求する運動です。こどもたちのために、息切れしないように頑張って欲しいと思います。
それにしても、講演は神父さんがいつも講話をされる場所に立ってしました。なんともはれがましい。そして、あの阪神淡路大震災で歴史的聖堂が倒壊し、いまだ仮設の聖堂なのです。地震後のボランティア活動での神戸訪問は別として、ここ1、2年の神戸訪問では震災があったことすら、わすれさすような復興です。聖堂でいつもの杉本節を訴えるときも、時として震災直後の神戸を思い出し、身が引き締まる想いになりました。
この教会が社会活動センターとして、日常的にホームレスの人たちへの炊き出しや社会復帰に努力していることも知りました。その活動の中に、大学時代に障害児研究会を一緒に立ち上げた同級生Mちゃんがいます。もう半世紀を生きてる女性に・・ちゃんとは失礼ですが、話していても昔とちっとも変わらない姿に共感しました。僕も彼女に負けない。まだまだやりまっせ。

6月26日 西日本ツアー 第二報:脳死・脳蘇生学会印象記(硬派の話です)
脳死・脳蘇生学会の昼飯まで書きました。
この学会でのメモを続けます。気づいたままです。・・・(杉本)は僕の意見です。
予想していたより会場に詰めかけた医師も報道陣も極めて少ない。
今、報道陣の興味は脳死論議にあらずということはわかります。久留米支局発信の西
日本新聞が大きく取り上げたのに対して、朝日新聞は虫眼鏡が必要な位小さな取り扱
い。しかもなにを伝えたいのか意味不明の文章。

会場の医師は9割以上が救命救急センターがらみの医師。おそらく小児科、しかも小児神経は僕一人だったのでは?
一般演題から:日本大学の平坦脳波の評価について。平坦脳波をきっちり取ることは
本当に難しいという結論。なんども環境条件アーチファクトになる電気信号・磁場環
境を5mG以下に30分以上保つことは至難のわざ。もともと脳波は平坦を確認するた
めの道具ではない(杉本)。
バービツレートの影響は人によって異なる。必ずしも血中濃度と自発呼吸や対光反射
の出現は一致しない。2〜14日血中濃度は測定できる。判定は測定感度以下までまつ
べし。
心臓移植をまつ立場にある心筋症などの患者の脳死判定を含めた国立循環器センター
からの報告は、脳外科を含めてこれまで脳波による脳死判定は60例あったが、院内の
脳死判定委員会の検討になったのは8例に過ぎなかった。内2例がカード保持者であっ
たが、感染症や記載不備で法的判定に入らず。フロアより、移植をする施設がそのよ
うな「消極的」判定でいいのか?と。両者の意思疎通?なんとも興味深い討論でした
(杉本)。
熊本の意思表示カードの誤記演題は、ドナーカードはドナー可能を意味したカードで
あるべきで、ドナー拒否を並列に書くのはおかしいとの指摘。できれば(ジョーク??
)ドナー拒否カードを別個につくるべき。なるほど、阿部さんらの拒否カードもコン
ビニで配布すれば(杉本)。
 臓器提供への主治医の態度は、この煩雑な取り決めはいい加減にしてほしい。死亡
診断は医師の専権事項のはずだ。世界一厳しい基準ではないか。移植してもいい人の
ニードを円滑に受け入れるような立場でありたいと。フロアから「そうしたのは、わ
れわれ医師自身、和田事件ではないか!」とこの発言は、この場面だったか?でも次
期会長の発言なり。救命関係医師のなかでも、微妙というより、はっきり意見は分か
れている(杉本)。
シンポジウム
奈良医大救急医学の脳波の報告:脳波がECI(electrocerebral inacrivity)でなくて
も、他の脳死判定基準を満たしていたら、ECIの存否に関わらず、心停止までの期間
は同じであった。そして、非ECI=脳幹死が多い? 脳幹死とはどういう診断基準なの
か??脳波は脳皮質の電気生理学的反応にすぎない(杉本)。
低体温療法について3演題。低体温療法に持ち込めるような症例は延命できる。復温
が難しいが、根気良く頑張れば成功する。復温にはTCD経頭蓋ドップラー所見が有
用。
パネルディスカッション・参加者約60人
パネラーは墨東病院濱辺先生以外はすべて14例のいずれかの脳死・移植に関連した医
師であった。経験者は口々に、医師の仕事以外のことで時間とストレスを要したと述
べる。120時間つめっきりになった。時間に追い立てられる感じで、とにかくしんど
かった。シュミレーションが大切。通常業務へ割り込まれると、他の診療がストップ
しかねない。日本医大ケースでは、院内倫理委員会と脳死判定委員会の招集合議があ
り、時間的に負担大きい。一回目法的脳死判定に3時間、二日目に2時間強を費やし
た。救急学会島崎理事長は、カードが先にでれば臨床的脳死判定は不用。脳死判定の
ための保険適応の必要性をのべ、だいたい15万円がいいのでは。
濱邉演題は、結論として「真の脳死症例をもとにして作った判定基準ではない」。調
査時暫定案が書いてあった訳だから、その案に従って前向き調査をして、それ相応の
結果がでるのは当たり前。討論で、「診断基準は経験則にすぎない」「あなたのいう
真の脳死をどうして見つけるのか」「それが診断基準だ」「血流がないが大事だ」
「診断基準は不可逆的か」「時間で担保している」「とにかく、亡くなる間での間に
機能回復はなかったのだ」
他の討論で、「脳死と診断したら治療は即やめるべきだ」「なんで移植をいそぐのか。
脳死になったら安定するのだからドナーペースで淡々とやればよいのではないか」
「移植側は早く新鮮な臓器をと・・ADHいれて安定させてゆっくりやっては・・・レ
シピエント側は聞く耳もたない」「マニュアルには早く早くと書いてある」

最後に座長がまとめとして、「討論に深入りすると移植ができなくなる」と。???
Why?What!

6月24日 週末の西日本ツアー報告(第1報)
21日夜から博多へ向かいました。自律神経失調症状がきつく、果たして計画の最後まで実行できるか大いに疑問な旅立ちでした。理由は沢山のことを引き受けすぎて、自分で勉強する課題が多岐にわたり、頭が混乱し、よって酒量も増えるという悪循環だということは診断できていました。「よーしこの間は断酒だ」。
久しぶりの博多は大雨でした。体調が悪いためラーメンも食べられず・・・部屋で大好きな内田康夫シリーズの世界に入っていました。博多都ホテルに2泊しました。リニューアル7000円という旅ネットによる予約でした。東京のワシントンよりずっといい。そして駅の目の前。壁掛けテレビをはじめてみました。でも後で泊まった広島随一というリーガロイヤルホテルもそうでしたが、インターネット専用のジャックがきていません。これだけは不満でした。持ち込んだB5パソコンに携帯を用いてメイル送受信をすることになりました。
22日はこれも15年ぶりくらいの久留米です。博多から特急にのりました。計1300円くらい。でも紺色一色にまとめたかっこいい車両でした。これが昔の国鉄か?アッという間に久留米に到着。日本脳死・脳蘇生学会の会場へ。
受付に代表幹事の桂田先生が座っていました。15年前テレビでごいっしょしたことをお話しましたが、「しらん。わすれた。そんなことあったかなー」と。ちょっとさみしい。でも同じようなことが自分の方にも思い当たる日々・・・
時として走馬燈のようによみがえることもあるが、多くは記憶の底に沈殿してしまう昔の出来事。これを認めるのは辛い。
脳死論議はあらためて書きます。印象だけ。終始60人くらいの出席でした。
報道関係や移植ネットワーク、お手伝いの学生?ヲぬけば40人くらいの医者でしょうか?それも比較的年齢が高い医師(演者はわかい)がおおく、発言は終始決まった救命救急センター関連医師10人程度が入れ替わり立ち替わり。サロン的。そして、脳死についての意見が三つに分かれている。慎重は3,4人、厚生省派はその倍、そして感情的脳死賛成派が数人・・・微妙に発言が絡み合います。みんな同じ仕事仲間ですから、誰がどんな意見かはお互い知っている雰囲気です。はじめて参加した僕もどこかでからんでやろうと身構えていましたが、結果的に徹底的に「傍観者」になりました。誰がどんな考えの人で、オピニオンリーダーは誰か・・・そういう立場に徹すると、結構楽しい学会出席でした。
「なんでこんな厳しい脳死判定基準を実施せなあかんねんや」「煩雑でどうしょうもない」「なんで脳死が移植だけにみとめられるのや」
出席していた多くの医師がこれまでの14例の脳死移植の経験者でした「。医者は診断までや」といいつつも・・・なにもかも対応しなければいけない現実にとまどいを隠せないという鬱憤を感じました。
久留米の昼飯は某新聞社の記者さんに久留米ラーメンを食べに連れていってもらいました。昔たべた味。あとあとまで口のまわりに「汁」の臭いが残る例のラーメンは久しぶりでした。380円は安すぎる。帰り、記者さんの車のボンネットに真っ黒な子猫が潜り込んで、「にゃーにやー」と声がついてくるのです。途中ボンネットあけてびっくりでした。
久留米の話題もひとつ。大学病院の周辺を「篠山町(ささやまちょう)」といいます。そして篠山城もありました。僕の田舎は篠山市になりましたが。
(つづく)

6月16日 頭が疲れます・今週も色々ありました。
今週も沢山の勉強をしました。毎日なにかの進歩がないと生きている気がしない一種の「強迫感」があります。駄目だと思いつつも、変えることができません。自分でも生き急いでいる感じがしています。
もともと頭は良くないので、いろいろな問題をうまく交通整理できません。一つのことを引っ張りながら、次のことに取りかかる。どれも中途半端です。

最近よく使われる言葉の「学習障害」の概念は、子どもの頃から自分に適合していると思います。物覚えが悪い。特にことばの復唱できません。歌詞も覚えられません。計算力が殆ど駄目です。未だに10本の指が動きます。人の顔が覚えられません。会う場面が変われば、余程親しくない限り、認知できないのです。 でも第六感は昔から良かったと自己分析しています。今なにを取り組めば良いか?どこに力点をおけばよいか?なにがケースで大切か?方向感覚も含め、「勘」がよかったのです。でもこれも最近は落ち込んでいますが・・・

 今週の最高の話題を一つ。また学校の話になります。
ある脳性麻痺とてんかんがまだ抑制されていない車椅子の中学生が、関東方面へ修学旅行に行きました。障害を持っていますが、地域の学校へ行っています。関東方面だとディズニーランドはお決まりです。二日目はなんと八ヶ岳の麓のペンションです。前者は緊急時の病院は大丈夫ですが、後者は全くありません。                                 主治医「どうするのですか?」 担任「そうですねー」・・・       後日自腹をきって、もしもの出来事に対処するために? 父母がペンションへ自家用車で向かうことになりました。ちっちゃなペンションです。父母が泊まっていることは生徒にわかってしまいます。結局父母と二日目は同室に。その生徒は父母に怒りました。「なんでくるのや!」と。父母とて仕事休んで「しかたなく」長野へ車を走らせてきたのです。
 驚いたのはその後です。通常の計画は、塩尻駅で特急に乗り換え名古屋から新幹線で帰る計画でした。ところがJR塩尻駅がバリアだらけで、とても車椅子を(先生だけで)持ち上げたりできないということで、ペンションからその生徒を父母の車でのせて帰って下さいということになりました。
 父母の想いは?肝心の生徒の想いは?担任はなんと考えたか?・・・日本の象徴的な出来事ということですましていいのでしょうか?
 そのほか書いたらキリがありません。いっぱいの出来事がありました。子ども達や親達にいっぱい教えてもらいました。この年齢になっても、まだまだ「驚く」ことがいっぱいあります。神経外来は僕が社会を学ぶ外来でもあるのです。

6月9日 小児神経学会から帰って
日記として何を書こうか?パソコンに向かいましたが、なかなか先の文章の計画がたちません。
まず、正式に僕たちが行いました学会への提言がアクセプトされ、今年中に委員会として正式発足する予定です。学会内部への提言ですが、基本的に前向きにアクセプトということですから、公開してもいいと思います。
といっても「医療的ケアネットワーク」の僕の稿は、ほとんど同文ですから問題ないと思います。

日本小児神経学会
理事長 埜中征哉先生 ご侍史
>
21世紀の学会活動の一つの柱として、障害児者医療、療育支援に取り組みましょう。その一歩として、以下の項目について要望致します。
> (1)理事会の下に、社会的支援・療育支援などを取り組む「社会活動委員会」(仮 称)が作ってください。
>  各地方会に関連委員をおき、地域のニーズに応答する体制を作る。
> (2)学会として、連携のための連絡や専門医相談窓口を作ってください。
> たとえば、ホームページを療育関係者にも公開し、掲示板の開設する。
> URL: http ://www.yo.rim.or.jp/〜JSCN  (このHPは現在質疑応答は 
> できません)
> 地方会事務局の連絡先(上記HPに掲載)を公開し、相談や連携の窓口にす
> る。 
> (3)小児神経専門医に対しての障害児者医療の研修システム・セミナーを開催してください。
 小児神経初期研修の「小児神経セミナー」とは別に障害児医療・療育につ
いての実地研修会をもち、新しく正しい知識・技術の獲得・普及を目指す。
研修を受けた専門医が地域関連スタッフの研修を積極的に受け持つ。
>
(4)学会の開催地域での療育支援ネットワーク作りを意図した公開シンポな
どの開催に努力してください。
> (5)なお、上記の取り組みは、厚生労働省、文部科学省、医師会、関連学会・ 
> 研究会と連絡を密にし、理解を求め、医療・教育・福祉の充実・発展のため
に積極的に協力していく。
>
> 2001年5月31日
>    日本小児神経学会評議員 提案者    
>                    北原 佶
>                    小西 行郎
>                    富和 清隆
>                    三宅 捷太
>                    杉本 健郎
>    なお、文面、内容は以上5名で了解すみです。
>    要望提案責任者としてサインします、  杉本健郎 印

ということで、近いうちに準備委員会を開き、早急に具体化する体制を委員会としてとれるように頑張ります。
日本小児神経学会が医学的な学術学会だけでなく、社会的にも専門家集団として社会的ニーズに十分応答できる体制作りと、存在価値・意義をこれから積極的にアッピールしてまいります。乳幼児期のサポート、学齢期の重度児の教育や医療的ケア、そして卒後のより快適な地域での生活支援を目指して、色々な職種が手を取り合っていきましょう。そして、もっともっと社会へ向かって法的な不都合やシステムを憲法で保障された生存権や快適に生きる権利を真に追求できるような仕組みに変えていくための発言もいっしょにしていきたいと考えています。
 皆様のご意見をお待ちしています。
このところ、固い固い話ばかりですね。

それにしても、僕の同年齢の小児神経専門医の仲間達はみんな偉くなって、それぞれ自分の分野でよい仕事をしています。頭がさがります。いつも学会にでると、新しいことが頭からふりそそぎ、自分の不勉強をただただ反省するばかりなのですが、今回は、50歳の団塊世代もよく頑張っている。ぼくももっともっと積み重ねの勉強をしようと決意しています。いつものアジテーターに終わることなく。

6月2日 毎度同じような話ばかりですみません
交野養護学校のことを「ぼろくそ」に書いてしまいました。外来で僕が主治医である子どもたちのお母さんやお父さんから聞く話があまりにも取り組みだけでなく、考え方も「後退」していて、障害児医療を目指す医師としては看過出来ない状況と思いました。
その後、メイルなどでいろいろ意見頂きました。校医からは「今までの伝統をしらない新しい人たちに、交野へきたから急にケアの無理強いしても駄目だと思う。じっくり内部で話合っていかないと・・・」との意見をもらいました。なるほどと思いますが、僕の怒りは、管理職(といっても校長には人事権がないのですね)であり、保健室の学校保健に対する姿勢であり、教育委員会の養護学校への人事そのものです。一人一人の教諭を攻めているのではありません。臨時職員である講師という先生と正式職員の教諭の違い、これも複雑にケア実施に絡んでいることも知りました。少し違うかもしれませんが病棟での正看護婦と准看護婦の違いに似たものかもしれません。外からは違いが見えないのですが、働く場所では、随分肩身の狭い思いをしているアシスタントナースがよく働く場合もあります。
養護学校へ来て「僕は数学、私は英語が専門」なんてことを云う前に、子どもたちと肌で接して下さい。そこから「教育」と言う以前に子ども達との人間どうしの関係が生まれます。釈迦に説法ですね。お許しを。
しつっこいように繰り返しますが、障害をもつ子ども達を親が医ケアすることが法的に問題がないというのはケッタイな論理です。在宅でも受益者負担の論理ではなく、公的扶助の原則が生かされるべきです。学校でのケアも決して「親の肩代わり」というのではなくて、「学校保健=教育の一部」で、公的責任があります。
今日の外来での話です。大阪市内の小学校の2年生になったBちゃんがいました。難治性てんかんで治療中です。ストレートに申し上げます。新しい二年生の担任(現学級)は学校の中でもことに「実力がない」といわれている人でした。実際に二ヶ月経って、予想どうりでした。養護学級に在籍している児童をほとんど理解しようとしない姿勢や扱い方・・・見るに見かねた母親が「こわごわ」担任にも、そして校長にも要望・意見を申し上げた。ところが、その後、複数の同僚教諭から母親に電話がかかったのです。「教師いじめしないで。かわいそうやないの!」と恫喝にちかい電話。・・・・・これ聞いて唖然。
ある教育委員会の方が云ってました。「教師には、学校には、自浄能力はない」。会議も討論するより、多数決の論理で無難に落ち着ける体質があるとも。外から見ていると、職員会議は教育問題などでも丁々発止の激論をして、お互い高めあっておられるように想像していました。
 こんな教師バッシングはよくないのですが、また上記のような学校ばかりではないことも承知しているつもりです。
校内でさらに真剣な討論をしてほしい。できれば外の空気も入れて。真摯に受け止めて欲しい。21世紀の教育、障害児教育をどうするかを。
またまたかたい話になりました。見方によっては、「誹謗中傷」的な内容でしょうか?先生方大いに反論して下さい。メイルでも掲示板でも結構です。

5月28日 堺の重度障害児教育シンポと今日の外来
26日のシンポはたくさんの人が集まりました。発言の一つ一つが会場に吸い込まれるような一体感を感じました。当初は「挑戦的」な言い方や内容にするつもりはなかったのですが、正直このところ元校医だった交野養護学校の取り組みに大きな疑問をもち、さらに枚方市の地元へ通う小学校や中学校の養護学級の子ども達の扱いについても、腹に据えかねていたものが一気に爆発しました。もうK養護とは書きません。はっきり名前を書きます。堂々とこれから討論していこうと思います。僕の校医の5年間は何だったのだ。その後の禹 満君の校医は何だったのだ。積み重ねではなくて、積み木崩しのような状態では。
今日の外来でも腹が立ちました。宿泊訓練に親がついていくのが当たり前のような発想があるようです。胃ロウがあるからなんで親がついていくの?さらに宿泊訓練のために教育委員会派遣の看護婦がなんでついていかなあかんの?無駄金そのものです。またその看護婦がなんで主治医に聞きにくるの?ちゃんと看護婦免許もった立派な養護教諭がいるではないのですか??僕は養護教諭は教育の視点をもったスクールナースと考えています。誰の何を守るための、誰の為の学校ですか?決して教師のための、教師の権利を最大に考えるのが学校ではありません。子ども達の学校ですよ。こんな調子でやっていると、養護学校不要論・解体論が飛び出しますよ。あなた方は障害をもつ子ども達の教育をするプロでしょう? 胃ロウが「医療的ケア」で学校でやってくれないなら、これから親の「合法的」運動として、口から給食をたべさせてもらうように要請してはいかがでしょうか・・・と云いたくなります。でも子どもの命をまもるためには、それは出来ません。
父兄会で拡大学校保健委員会を開く要請をして下さい。父兄と学校側の討論会しましょう。僕もボランティアの主治医代表オブザーバーで出席しますからと云いました。果たしてどうなるかわかりませんが、このまま黙って見ているわけにはいきません。
別の話です。今日、お母さんから聞いた話。枚方市の地元養護学級で、一人担任を増やしたことを教育委員会のある人が、年間1000万円の持ち出しだ。税金の無駄使いのような発言を養護学級に子どもを通わせている母親たちに云ったそうです。これは議会で取り上げて、その教育委員会の担当者を市議会に引っぱり出して、問題発言を追求するべきと云いました。どこがインテグレーションですか?
何もかもおかしい。腹がたって仕方がありません。でも母親は教諭に向かっては、叫べないでしょう。その分僕が吠えます。
このごろ、回りくどいことを云うより、ストレートに意見を述べた方がよいと考える様になっています。回りくどく云うと、気付かない人が多いからです。
そのことで嫌がられても仕方がありません。もっともっと正直に生きていこうと自分に言い聞かせています。もちろん自分の間違いを認めた時は素直に意見を修正します。ご意見下さい。
更年期障害でしょうか?それとも青年時代に若返りしたのでしょうか?
この水曜日は府の教育センターで自立活動研究会で知的障害養護学校の先生方相手に講演です。タイトルは「ドクター杉本の元気の出る話:日本の障害児教育と養護学校」です。2時間ものです。さあ、どのように脱線するでしょうか?でも発言には責任をもちます。

5月24日 障害者の医療的ケア
最近、やっと全国規模で、学齢期に達した障害児の医療的ケアの討論が行われるようになりました。これは、何度も書きましたが、決して在宅医療の延長線上にあるものとして位置づけてはならないと僕は考えます。在宅医療は保護者・親が実施するから「合法的」という考えは、もともとおかしいと思います。何故親なら医療的ケアをしてもよいのか?変な論理です。
先日、ある病院のNICUに入院していた3か月の重度児に(なるであろう)退院勧告があり、親は在宅でのケアが不安でとても自宅へ連れてかえる気概が出ず、困っていました。酸素療法、時間的な吸引など、患児を生む前は全く無関係の世界だったド・シロウトの母親が困惑するのも当然です。我が国では、「親が子供を看てあげなさい」という考えが一般的・当然というのはおかしい。親だって夜は熟睡したい。時には旅行にも、ショッピングにも・・・。十分なショート・ステイすら保障されません。父親はともかく、母親の人生は何なんだ! もちろん、我が国では親が見捨てると、子はひとりぼっちになります。
学校は通学している間は、教育の一貫です。責任は学校にあります。義務教育の9年間は絶対的に国に責任があります。医師法や保助看法に違反するから、学校へ来るな、親がついておいで、などというのは責任放棄そのものです。
以上は何度も述べてきました。さて、卒業後はどうなのでしょう?無認可でも社会福祉法人でも変わりありませんが、通所施設での医療的ケアは、どこに責任があるのでしょうか。また保護者ですか? 低賃金でボランティア同然で働く作業所のスタッフ達は、吸引やチューブ栄養などはどうしているのでしょうか?気管切開の障害者は家からでることはないのでしょうか?
多くの作業所は看護婦は不在です。雇える余裕はありません。痙攣が頻繁に起こる障害者は敬遠されるだけでなく、通所を断られます。人手も知識もないのですから、責任がもてないから断るというのも道理かもしれません。学校卒後の生活は、またまた家族、しかも年老いた母親の双肩にずっしりと重くのしかかってきます。
やっぱり、卒後もサポートする社会的責任が行政にあるのではないでしょうか?・・・少しずつ少しずつ変わってきています。今、吹田市の「アイホープすいた」では、この新しい試みが始まりました。吸引、胃ロウ、気管切開・・・みんなが勉強して、スタッフもできる限り揃えて、受け入れていくようにしようと。近いうちにそれらの経験が語られるようになり、全国にノウハウや哲学が普及していくことを願うものです。僕も少しでも役にたてばと協力しています。

5月16日 この二日間の印象的な(気になった)話題
1) ニュースステーションの久米さんが謝罪していました。埼玉の野菜のダイオキシン暴露報道の裁判について。そして、印象的な言葉「私は50歳までは、番組の視聴率をいかにあげるかを考えてきた。しかし、50歳過ぎた頃から、この私でもすこしでも国のため、人のためにお役にたてればと思いやってきた。今回の出来事はその考えからすると痛恨の極み・・・」という意味だったと思います。自分も同じ想いです。50歳すぎてから、なにか役に立てないか、少しでも住み良い社会に出来ないか・・・という気持ちです。
2) 同僚の医師からストレートな言葉:「遠くから(僕の)頭をみると、ベレー帽をかぶっているのかと思える」きつーい批評。気にしています。増毛法を選択するか?! 
 そういえば、田舎の80歳になる母親に「あんた、髪の毛がなくなってきたナー」、なんときついことを。「俺の年、いくつや思ってるンや?」
老母自身の年齢を意識せず、息子をいつまでもこどもと思っているようです。

5月13日 良い天気でしたね
先週は東京でのフォーラムで久しぶりに「胃痙攣」状態でした。
この土曜、日曜は家でのんびりと過ごすことができました。東山一帯を鴨川から見ると、まっさおな雲一つない空と、新緑に黄色の縞模様が浮き出た様に見え何ともいえぬ美しさ。家の窓をあけると「みどりの臭い」が部屋に充満します。東山界隈をのんびりと散歩でもすれば、この間のストレスもふっとんだのかもしれませんが、残念ながら約束した原稿がたまって、朝から机のパソコンにむかっています。先のことも考えずに、目いっぱいの計画を建ててしまいます。 今、日本てんかん協会東京支部報の「ともしび」に「てんかんをもつ子のサポート態勢」という連載と、「養護学校の教育と展望」という日本重複障害教育研究会の季刊誌にも「 NICUの子ども達」という連載を書かせてもらっています。締め切り日から逆算してなんとか間に合う様にこの二日間も頑張りました。9月の日本てんかん学会の演題も今月中に作らねばなりません。今週も大変です。週末には仙台の日本小児科学会へ、来週は掲示板にも書き込みました堺市の重度児教育のシンポジウム、その後引き続き東京での日本てんかん協会第24回全国大会での創薬ボランティア説明会に運営委員として出席予定です。

まだ活躍出来る場があること、当てにして下さる人がいることは、幸せなことです。

5月6日 子どもの日フォーラムが無事終了しました
昨日のことを書くまえに一言弁解。このごろよく「HP見てますよ。特に不定期日記を楽しみにしています」と声をかけられます。   うれしいのですが、これすごいプレッシャーです。
勝手なことをあからさまに、いつもの言動と同様のタッチで打ち込んでいます。まさに本音の文なのですが、これが面白いとなると・・・もとより、わがままに育った中年というより、子どものままの感覚を持ち合わせているから、年齢や職業との落差がおもしろく感じていただけるのかもしれません。

 5月4日の夜は新宿のワシントンホテルに宿泊しました。当日配布するアンケート結果の重い重いコピーをぶら下げて、昔に宿泊したことがあるので、その記憶を頼りに、新宿駅を降りました。結果は正反対に歩いて10分で、間違いに気付きました。情けなくって、くやしくって・・・若い時は「絶対」方向を間違うことはなかったのですが、・・・勘の良さだけが僕の取り柄だったのですが。    こんな想いでたどりついた、このホテル、最低でした。もう二度と泊まりません。昔と同じです。10年以上どんな企業努力をしたのでしょうか?場所が良いと云うだけで生き残っているのでしょうか?ウナギの寝床。廊下の声・・・あまりけなさないように。なんせ5300円というゴールデンウイーク割引でしたから。
 さて、次の日、新宿駅から新しい「大江戸線」に乗ろうとしました。ところが、この日の頭・勘はさえていました。切符買うとき駅地図をよくみると、新宿からぐるーっとまわって、また新宿を通るのです。なんと不思議な地下鉄です。目的の女子医大は、向こう側の新宿駅から二つ目でした。ショートカットで重たい荷物をもって広い新宿駅を東西に歩きました。そして別の新宿駅から乗りました。京都の田舎もんですが、「今日はさえている」と思いながら弥生講堂到着。

 一番乗りかと思いきや、愛知からのドナーファミリー・吉川ご夫妻〔ター君は生きていたの著者〕が先着でした。夜行「銀河」で到着とのこと。10数年前から何度も何度も電話や手紙でやりとりし、旧友のようなおつきあいと思っていましたが、この日が初対面。お互いの死んだ息子が取り持つ「縁」なのです。そこへ学会倫理委員長仁志田教授が到着。
 打ち合わせには、これまたメイルでは何度も交信し、今度も森岡・杉本案でご一緒させていただいた若い森岡教授がなんと遅刻でした。この理由がなんと新しい「大江戸線」の乗り間違いだったそうです。それを聞いた僕は「俺の方が若い!」と叫びそうになりました。森岡教授は、倫理を語り、本もいっぱい書いている方で、イメージをしては、中年で古くさく(失礼)でっぷり太った体格と思われるでしょう? 違うのです。年齢は見たところ30歳代前半、昔で云う「ジャニーズ系」よりもいい男ブリです。そして、僕ですら、同じ背広にネクタイのシンポジスト集団にあって、短髪で、黒の丸首シャツ姿でした。いやー 人気あるはずだ。そして、発言は僕以上に「アグレッシブ」。
もう一人、渦中の町野教授。先日のNHKテレビでは写りが悪かったためかイメージが違っていました。実際の姿は、若々しい学者という感じ。ほとんどの演者が「町野案はおかしいぞ!」と思っている中に、いわば敵地に単身乗り込んできたという雰囲気で打ち合わせが始まりました。
「みなさんは町野案という名前でよばれるが、私は単に分担研究者にすぎないのです。今回の案は旧中山案に過ぎません。町野案と呼ばないで下さい」で始まりました。   これを聞いたとき、今日はどうなるか? 乱戦覚悟と思いました。ところが、その後の討論は他でも書きましたが、町野教授は、最後まで自分の論説を見事に筋道たてて話きりました。町野教授には、失礼ないいかたですが(訂正しなさいと云う本人の声が聞こえますが、あえて)、最後まで、立派な「悪役」を演じ通されました。論説はともかくとして、さわやかな弁舌にはファンもふえたのではないかと思います。
主旨の「拒否表明のないかぎり、脳死移植に合意したものと考える」という「性善説」。討論の中で、成人と小児は差別すべきではない。しかし、今の法律の15歳未満をはずして、低年齢の脳死移植は無理だ。15歳よりももっと20歳に近い年齢でないと拒否はあらわせない。「私の意見としては、小児の脳死・移植は無理と思う」「15歳以下のドナーも可能にしようとするあなた方の意見は矛盾している」。そして、100日や1年以上も脳死のまま「生き続けた(心臓が動いていた)」例があるのをどう考えるか?との問いには、「事実としたら現法律の前提条件がくずれる」(法律の脳死規定は、脳死は死で遅くとも一週間以内に心臓は止まる)。   思い切ったことをはっきり云う学者でした。
基調講演の柳田さんのお話は、同じ経験者としても、表現は違っても、殆ど同じ想いであることを再確認しました。ファジーな現法律のよさ、別れの場と時間の保障を(これは僕が16年前から繰り返し述べています)。でも、病み上がりのためか、少し元気がなかったのが心配でした。講演中、涙ながらに話されている場面があった様に見受けました。心にしみ通るような説得力ある話で、元気だけが取り柄の僕のアジテート口調を反省することしきりでした。
主催者の1人が云うのも変ですが、自分の「為になった」有意義な会でした。

5月4日 これから東京へ行きます
16年前に事故死した長男剛亮の23歳の誕生日を前に、彼のこの世を去るときに僕に与えた「仕事」をさらに深化するための一つの取り組みです。
5月5日の子どもの日に、果たしてどれくらいの人たちが討論に参加して下さるかは疑問ですが、今回は日本小児科学会の取り組みとしてフォーラムが出来ることが、自分史にとってものすごい価値があります。もちろん社会的にも脳死・移植の論議がさらに広がりをもつきっかけにもなると確信しています。
賛否両論入り乱れ、まとまりのない会になると予想されますが、学会がこのような会を開いたこと、アンケートで96%の代議員が継続的取り組みを願っていることは明らかになっています。これを公表する事で、小児科学会としても今後、前向きにこの問題を取り組んでいく結節点になるはずです。それで十分です。
この会が始まったのは、昨年末に大阪医大小児科田中助教授と玉井教授の近畿地区代議員会での提起からです。それを受けて、兵庫医大谷澤教授(倫理委員会担当理事)が前向きに段取りをとられ、2月神戸での東京女子医大仁志田教授(倫理委員長)、中村神戸大学病院院長との合議の末、ここまで来ました。
特にこのフォーラムへの仁志田委員長の取り組みの素早さには目を見はりました。これまで多くの小児科医師を見てきましたが、問題提議、決断、実行の素早さでは、群を抜いた指導者と思いました。
僕は、アンケート内容の原案作りから参加しましたが、必死になってタイムスケジュールにあわせて来ました。あとはインターネットアンケートを如何に多くの小児科医にアクセスしてもらうかが課題として残ります。しかし、これは難しい。
明日の僕に与えられた時間は15分です。いつものように原稿などは作っていません。新幹線の中で少し骨組みを考えます。そして、その場の雰囲気を見ながら、「感情的なアジテート」を少し抑えながら、問題提起をするつもりです。
このごろ、講演で気持ちがのってくると、途中で頭の中が「真っ白」になります。一時的な脳血流が悪くなって、梗塞がおこる手前の状況かとぼんやり理解していました。ところが、3日前の深夜番組で、タカジンと松山千春の会話の中で、コンサートで気分がのってくると、頭の中が「真っ白になって」自分の持ち歌の歌詞を忘れてしまうと語っていました。まさに同じ現象なのでしょう

4月24日 新学期
 本日午後の神経外来での出来事です。毎年繰り返されることですが、今日の経験はどうしても書いておきたい気持ちになりました。
 ある養護学校の生徒3人が、「新学期から調子がわるい」「久々に痙攣が起こった」等の主訴で、来院しました。
聞いてみると、みんな担任教師が新しくなったとのことです。
一人は障害児の学校がはじめての担任。もう一人は、高等部から中等部へうつってきた教師などなど・・・
 肢体不自由校の教師なら、脳性麻痺児が、高年齢になったらより一層気持ちのコントロールが難しくなるということまで理解して欲しいとは言いません。でも、痙性麻痺の子どもの手足が、無理すると「クローヌス(間代)」がおこることくらい最低限知っておいて欲しい。てんかん発作と混同しないでほしい。これは初歩。
 代謝障害や痙攣が頻発している児童・一見して理解出来ていない様に見えますが、実は大変ナーバスです。その彼らに、大きな声で、叱責的な言動で「教育」しないでほしい。それだけで、震え上がります。楽しくない。「学校へ行くのは嫌」になります。
 なによりも、子どもたちの発達を理解してほしい。無理強いの教育は古い。教師自身がプロとして彼らのニーズも勉強してほしい。なにもかも、賢い母親は見抜いています。切磋琢磨している教師か、ぶら下がった課題だけをこなしている教師かを。
北欧のように、適切な教育を出来ない教師を保護者がリコールできるようにしようとまではいいません。でも近いうちに「うちの子どものIEP(個別の教育プログラム)を見せて下さい。一緒に検討させて下さい」と保護者が云う時代がやってきます。
もっともっと教師集団のなかで、相互討論が必要です。もっともっとオープンに他の職種の意見をききましょう。僕も専門家としてさらに勉強します。

学校に求められているのは「医療的ケア」の対応だけではありません。プロの目、力量、そして連携、なによりも人の意見に耳を傾けて下さい。
 

4月22日 青年と少年時代へ
 20日夕方、久しぶりに関西医大教養部へ行きました。社会医学研究会という学生サークルが昨年から復活し、そのサークルの新入生歓迎の催し「講演」に行きました。
 30年前に所属していたころ、社会医学というより、社会科学論を戦わせました。反デューリング論の読み合わせなどをしたように思います。結局、当時の学園紛争の中で、サークル員の意見も食い違いが生じ、サークル機能は停止したように思います。
「患者の立場にたった医療とは?」が講演の主題でした。当初、新入生は殆ど来ないであろうという予測を裏切って、19歳〜21歳のピチピチの新入生5〜6人が集まり、2、3回生あわせて10数人で討論しました。
 現在の病院・医療は本当に患者の目線にたったものか?僕たちはどのような医者になるか?どのように勉強していくか?
 30数年前に入学した頃の我が「想い」を振り返りながら、懐かしい校舎で、いつのまにか、討論の若者と同じ年齢と錯覚してしまうような気持ちになりました。若者達に、52歳の僕の今の気持ちは、昔の気持ちと決して変わらないと強調しましたが、果たして若い医学生に「今も燃え続ける」気持ちを理解してもらえたか・・・?

 日曜日の早朝は、封切りの「名探偵コナン」を鑑賞しました。8時20分開始時満席でした。予告編など一切なしで、時間通りに本編が始まりました。
後半のラン姉ちゃんとコナン君の勇気には、感動を越え、ただただ感涙にむせぶ・・・「また、明日から頑張ろう。僕も正義のために悪と戦うぞ!」という少年の気持ちになっていました。「どらえもん」シリーズもすべて鑑賞していますが、この二つのシリーズは、大人がみても感動する楽しみな映画です。
もし、まだ一度もみたことない方は騙されたと思って、一度鑑賞下さい。

4月16日 スウェーデンからのゲスト
 かもがわ出版の拙著2冊でおなじみのスウェーデン・マルメ大学の作業療法士河本さんといっしょにクリスチャン家族4人が京都に来られました。
 クリスチャンは、河本さんのご本(スウェーデンの作業療法士・新評論)でも紹介されていますが、骨形成異常症で身長が60cmの重度肢体不自由の青年です。夕食をともにしたのですが、それに先立ち、京都市内でバリアフリーで、トイレも身障の広いものがあり、食べ物もいろいろ選べるという3点で予約できるレストランを探しました。          ないのです。なかなか条件を満たす所がありません。結局、どこにしたか?
それは京都ホテルでした。仏教会の拒否したホテルです。高さ制限を無視して建設された、その最上階の17階にあるバイキング・レストランでした。
予約の時から、バリアフリーであり、スウェーデンからのゲストであり、障害者の町作りの専門家が同行することなどを告げたためか、ホテル側も神経質になり、何度となく電話をかけてきて、当方のニーズを確認してくれました。まさにゲストのニーズに応えようとする「企業努力」には頭が下がりました。
 結論は、  良かった!
これはクリスチャン家族だけでなく、同行した日本在住者の評価でした。皆様にもご推薦申し上げます。
鴨川を眼下に、東山の新緑も美しく、味も悪くないし、値段も老舗京都ホテルにしては安い。クリスチャンを含め家族は英語が話せます(スウェーデンでは英語がだれでも話せます)ので、僕の下手な日本人英語でも十分聞き取れるほど静かでもありました。もちろん河本さんというスウェーデン語の名通訳もいっしょでしたが。夜が更けると、派手ではないのですが、鴨川と東山の間に、ネオンがパラパラとみえ、結構いい眺めでした。
 この京都ホテルと比較して、彼らが宿泊していた京都駅のホテル・グランビアは、最新ホテルらしいのですが、バリアだらけでした。僕が確認しただけでも、二階にあるフロントから一階へおりるエレベーターですら、障害者用の広いタイプは通常鍵がかけられ、いちいちフロントに使用願いをしなければならない状態でした。バリアフリーとは、声高に宣伝するものではなく、自然と環境を整え、バリアを感じさせないことが基本です。しっかりとバリアフリーの視点で見直さないと国際的には大変「はずかしい」ホテルと思いました。

ベトナム紀行・その2
ツーヅ産科病院と「平和村」の独断的印象
 
 「ベトナム戦争」は、僕の思想形成に大きく影響しました。浪人時代の友人に「アメリカの北爆は許せない!」と討論をふっかけられ、なにも答えることが出来なかったことから始まりました。以来、「ベトナム戦争反対」と大きく書き込んだバックを背中にしょって歩くようになりました。1975年医者になってまもなくのころ、サイゴン(=現ホーチミン)の大統領府が解放されるのをテレビで見て、涙を流したのを思い出します。その大統領府も今は、オープンマーケットになって買い物をしている市民の姿がありました。
 今回は、こういった青春時代の思い入れをなぞる旅でした。そしてもう一つの目的は、25年間の小児神経専門医師としての、枯れ葉剤(エージェントオレンジ)=ダイオキシン被曝2世、3世の中枢神経奇形発生頻度調査でした。一日100人の分娩があるツーヅ病院との共同研究の足がかりを得ることでした。
 ツーヅ病院での小児科医の視点です。
 病室廊下には「ござ」をひいて出産間近の妊産婦の家族が寝そべっています。歩くところがないほどの多数です。産まれてまもないあかちゃんを一部屋20ベッドくらいのところでおかあさんといっしょに寝ています。日本ではもうみることができなくなった風景です。
 でも、個人のプライバシーが守られない面があります。見方かえれば、「感染防止」などの目的で近親者を遠ざけるより、和気藹々のなかでみんなで出産を祝う雰囲気はむしろ「患者」側の視点に立ったものかもしれません。
 ところが、低出生体重児やハイリスク児を治療する病棟をみると、その考えは少し変わりました。今日本でも流行のカンガルーケアはお金もかかりませんので、取り入れてはいますが、呼吸数60/分をはるかに越えた低出生体重児が頭に刺した頭皮針のみで治療されていたり、チアノーゼ寸前のハイリスク児がクベース収容だけで診ている。しかも危険を知らせるモニターが全くない。スタッフも少ない。
 ある程度の治療と自然淘汰の原則が許された我が国の30年前の治療のようにも見えました。
 産科病棟を見学した後に訪問したツーヅ病院内の別棟病棟・通称「平和村」を訪問しました。正直「ショック」でした。
 ベトちゃんドクちゃんで世界的に有名になった病棟ですが、他にも約30人のこども達が住んでいました。
 なかでも、頭囲70cmを越える水頭症児が複数いました。「どうして手術しなかったの?」。そして目の前の床の上で強直発作を繰り返す小頭症の4歳児がいました。
 この病棟は、親がいない子ども達がほとんどとのことでしたが、医者の目から見ると、「なんとかしたら」という気持ち以上に怒りに近い感情になりました。もし、この子ども達が戦争被害者であるとするなら、余計、国が医療面でも強いサポートをすべきと思いました。
 ベトナムはカンボジアや中国とも対戦し、1989年にやっと平和が訪れ、今はその10年後に過ぎません。無理はいえません。日本でいうなら昭和30年です。たった5日間の滞在でしたが、もっともっと日本が国としても、民間レベルでも支援すべきと肌で感じました。僕も自分の専門性を生かして、共同研究を申し出ようと考えています。でもベトナム政府の受理は難しいかな?

3月31日 親父帰る 田舎家の改築完成

親父さんはリハビリ入院でなんとか二足単独歩行が可能になりました。
当初、車椅子生活かと思っていましたが、なんとか歩行可能とはうれしい誤算でした。それにしても、息子の個人的な気持ちですが、学校医を長年勤め上げたからとの理由で、「勲五等」を天皇からもらうことになり、その準備などで過労が生じて、脳梗塞を発症したと思っています。もし、「勲章」をもらわなかったら、もう少し元気に働けたのでは? 正直な気持ち、残念でなりません。昔なら「非国民」的考えでしょう。
 さて、田舎の旧家ですが、これまで何度も継ぎ足しで大きくしてきた家でしたが、今回は一番古い所を基本に改築をしてもらいました。

 そして、31日、我が家を自分でほめるのもおかしいのですが、ものすごく素敵なバリアフリーの改築になりました。棲むものの視点で考え抜いた信頼のおける設計士と旧家の良さを褒めちぎりながら仕事をすすめてくださった大工さん達のおかげです。京都市のもえぎ設計の川本真澄氏であり、施行は明石市の竹澤工務店、坂居工務店でした。
杉板を敷き詰めた床暖房、昔の柱などをむき出しにした天井、サッシを一切使わないで白木使用の縁側と外戸、以前は物置であった天井裏に忍者さながらの隠し部屋・・・ピンクの浴槽、ちょっと討論があった単独槽による「水洗」(二年後に下水がつきます)。不潔なトイレとすきま風が吹きすさぶ居間を完全に払拭しました。
親愛なる大工さんの坂居氏(まだ20歳代)曰く「息子(僕)が何度も帰ろうと思うような快適で楽しい田舎家を作ったので、せいぜい帰っておいでや!」と。  まさにふるさと回帰哲学を吹き込んだ改築でした。
52歳の息子がこんな評価なのですから、80年間暮らしてきた親父は、どんな想いでいるのか?ゆっくり聞いてみないと・・31日はただただ涙のご帰還でした。

ベトナム紀行(その一)

3月20日から25日までのベトナム紀行
(その一:印象)
ベトちゃんドクちゃんの発達を願う会のダイオキシン・枯葉剤被害の一連の調査活動でした。
代表はもちろん藤本文朗先生です。総勢22人+α
障害児教育者、臨床医、研究者、医学生、助産婦、看護婦、心理・・・混成部隊でした。
ベトナム航空で、関空からホーチミン市への直行便約6時間の旅
沢山のエピソードがありました。
今朝帰国しました。ホカホカの気分を少し書き留めます。
1) ホーチミン市はサイゴンである。とても社会主義国とは思えない。
2) 街はエネルギーのかたまり。単車、自転車、車、シクロ(人力車)が道いっぱいになって・・・イメージとしては、市民マラソンのスタート直後に人のかたまりが移動する「姿」が縦横無尽にみられる。にもかかわらず、事故がない!?・・・この雰囲気は現場でしか味わえない・自動車の前の座席に座っていると恐怖の連続。
3) 女性が強い。よく働く。男の蔭が薄い。覆面姿で単車にのる姿は女「月光仮面」そのもの。男は軒下で椅子に腰掛けてぼんやりしている。
4) 女子高校生の真っ白なあおざい姿が印象的。
5) 地方へいくと公安当局が強い。幹部は「社会主義の建前」論。
6) 病院の設備は日本の20年前に近い部分が残っている。
などなど・・・・

3月12、13日 ジュリーとキムタク
もちろんHIROは見ました。もともと松たかこのファンです。何故かというと雰囲気が娘そっくりなのです(娘は否定)。でもこの番組の松たかこはちょっとイメージが違う。かなり無理した役回りと思いますが・・・どう思います?
その後、SMAPの歌番組を見ました。なんと太めのジュリーが歌っているではありませんか。ど田舎から出てきて京都で浪人中、初めて行った「都会」のプールで、タイガースの歌が鳴り響いていました。1948年生まれの「同級生」としての親近感から、ずっとファンでした。このごろ朝の連続ドラマに出演しているとは聞いていましたが、あのど派手な衣装ではないにしても、昔の雰囲気のままでした。

 さて、キムタクとの会話「ジュリーはいくつですか?」 「52歳」
「うっそー!僕の父親と同じ歳」とキムタク。

    ジュリーは何ともいえぬ顔。
そこで、キムタク、ブラウン管に向かって「親父がんばれ!」だって。
見ていた僕もショック・・・たぶんジュリーも同じ気持ちだったと思います。
太めのジュリーでもいい、52歳万歳。ともに頑張ろう!という気持ちです。

3月9日 「着たかもしれない制服」15年目


1986年の3月、すなわち剛亮死後一年を「記念して」出版した「着たかもしれない制服」が15年目を迎えました。すでに本は絶版で、出版会社「波書房」もつぶれ、いまや本屋さんでの取り寄せも不可能な「名作」です。その本の最初の章「父より」をこのホームページに全文のせることが出来ました。表紙の本写真の上をノックして下さい。アクロバットリーダーで読むことが出来ます。この文は、小児科医と父親の目線で書いたものです。今、小児の脳死の討論が始まっています。厚生科学研究の町野案は、子どもの意見表明権を完全に無視したものです。
事故がおこったのは、1985年(阪神タイガース優勝の年)の3月15日。両親の考え・意志だけで、18日に人工呼吸器を止めました。その日が命日になりました。   16年経った今も完全な答えが出ていません。本当に人工呼吸器を外すことが剛亮の意志であったのか?親が勝手に子どもの意志と「思いこんで」、早い死を押しつけたのではないか?

 この迷いを、経験者の一人として伝えねばなりません。迷いは、1997年の北欧の障害児者施設や関係者訪問で、少しずつ吹っ切れてきました。「子どもだから・・・」、「障害児だから・・・」といって、まわりで勝手に判断してはいけないという答えです。子ども達自身、障害者自身が自らの判断で、生き様を決めるべきなのです。
 これから国会に上程されるであろう「町野改正案」には絶対反対していくつもりです。
ちょっと固い話になってしまいました。

3月5日 キムタクはかっこいい


2週間近く日記を休んでしまいました。落ち着いた気持ちでパソコンに向かえない毎日が続きました。でも3日、4日のスケジュールが済んで、ちょっと余裕がでてきたのでしょう。やっとトロント事情の田中さんに追いつくことができそうです。
3日は、日本小児神経学会プログラム委員会がありました。僕の演題が落とされるのではないかと、心ドキドキでした。僕の演題は、「医療的ケアネットワーク」の最後の資料にもある学会の療育演題を歴史的にピックアップしたものでした。自分では有意義な発表と思うのですが、「どこが研究やねん」と考えるむきもあり、ヒヤヒヤでした。なんとか通過したようです。これでこの本の宣伝も学会中にできるのでほっとしました。学会発表でも社会的な意義あるものも評価されるようにしていきたいと思っています。
 4日日曜日は近畿小児科学会でした。ひさびさに男山病院小児科から演題を出しました。先天性水痘症候群の一例報告で、我が娘と同年代の浦岡先生の男山所属の初デビューでした。立派でした。助け船はいりませんでした。会場にいたお父さん(小児科医)にしかられるかも知れませんが、まさに「父親の視線」で発表を聞いていました。
昼には代議員会がありました。いま僕も小児科学会倫理委員会の一員に加えていただいて、小児の脳死のアンケートを作成しています。この取り組みについての討論では、おおむね今の進行を容認し、支持する発言があり、ほっとしました。5月5日子どもの日には小児科学会主催の子どもの権利を尊重する脳死フォーラムを成功させようと自らの決意を固めました。この件はまた詳述するつもりです。
午後からは、5月から開設される吹田市の障害者交流センター「あいほうぷ吹田」の勉強会でレクチャーしました。この通所施設は、学校卒業後の重度の障害を持つ仲間達を専門的にサポートしようとする所です。関係者はみんな若い。40〜50人の聴衆でしたでしょうか、その中で僕は後ろから数えて一桁以内の年齢でした。多くがピチピチギャールとピチピチボーイでした。うれしい限りです。この専門サポート施設についても別に詳述しますが、なにせPT,OT,ST、心理、ナース3人などの専門常勤を抱える陣容です。僕も一専門職として支援していくつもりです。自分にとっては新しい仕事です。
 ところで、今晩はじめて「HERO」を見ました。やっぱりキムタクは50歳のオッサンがみてもかっこいい。嫌みがない。「オッハー」もいいけど、やっぱりキムタクがいい。いたって感覚的な評価ですが。

2月21日 落ち込んでいます


このごろ、何もかもうまくいかず、大切なことを忘れたり、変に怒ってしまったり・・・代表的なのが、依頼されていた原稿の締め切りを10日間も間違っていたことです。書き始めた時がすでに締め切りをすぎていました。自らの犯した罪をどう認識したらよいのか・・・初めての経験だけにショックが大きく、自分の年齢と限界を嫌というほど意識してしまいました。
 もう一つは、ホームページがうまくいかないことです。何度教えてもらっても、すぐに忘れてしまいます。系統的に覚えられないのです。昔、自分の母親が(現在80歳)、ささいなことまで、ノートに覚え書きをしていたことをみて、馬鹿にしたのを思い出します。いまや、自分がその後を追い続けていることに、たまらない寂しさと生き急ぎを感じてしまいます。さらに、毎日病棟で、間近に父親の仕草を見ています。自分の30年後の姿なのでしょう。素直に受け入れなくてはいけないと思いつつ・・・自分にあまりにも似ている父親の仕草をみては、「俺は、違うぞ。違う生き方するぞ!」と叫びつつ、結局は同じ様な道を歩むことになる。
うまくいかない時は、すべてネガティブに反応します。
トロント事情の田中さんのメイルをみては、頑張らねばと思って、つまらない不定期日記を泥酔状態で打ち込んでしまいました。これも僕の一面です。

2月10日 この一週間の講演から


3日は、障害児者療育の掲示板にも書きました通り、養護学校の先生などが中心の研究会で専門医の役割について話しました。15分間の一シンポジストとしての発言でしたが、出しゃばり、言い過ぎました。しゃべりだしたら、歯止めがきかないのです。日頃考えている「夢物語」を披露してしまいます。
そして、しゃべりすぎたその夜から、自己猛省の数日が続き、鬱に陥ります。
このパターンの繰り返しです。でも内容は、少しずつ質的に変わってきていることもあります。その場の討論で、話す前には考えなかった「新たな筋道」を参加者から教えられるのです。次の講演では、さも自分で気付いたかのように、さらに自分の色をつけて、「さらに深化した過激な意見」をアジテートしているのです。鬱もひどくなりますが。
 鬱状態のまま、7日には堺市百舌鳥養護学校分校の講演に行きました。たった13人の重度の子ども達が通う学校ですが、子ども達の目線にたった我が国の一つのモデルになるような教育が取り組まれていると思います。「医療的ケア」にもみんなで取り組み、分校では3度目の講演でしたが、小児神経専門医の立場からみても討論はいつも的を得たものです。一番気に入っているのは、子ども達の通学がタクシーだということです。他のマンモス養護学校のように1時間以上かけて大きなバス(しかも業者委託が多い)で通学するのではないのです。堺市内と言う限られた域である上に、短時間のタクシー通学です。しかも、地元の中学校の敷地内あります。健常児との交流では、小学校ならもっとよいのですが。確かに一人一人の子どもの単価は高くつくでしょうが、21世紀、世界のどの地域でも模索している重度重複児の教育を、我が国流に討論していくための、代表例なのです。お金がかかると言う理由で、つぶしていいものでしょうか?アメリカのように「ドーン」と大金を寄付してくれませんかね。
10数人の先生方と円卓での討論は、時間がアッという間に過ぎました。この日の帰りは、鬱になるのではなく、「なんとか存続するための方策はないのか?」と思いめぐらしながら、自分の無力さを感じながら、怒りもこみ上げる夜で、なかなか寝付かれませんでした。

2月1日 金曜日 新しい町


1月29日から30日の話です。
前回の日記で田舎へ雪のため帰れなかった話をしました。30日の朝の今後の作業打ち合わせのため、29日月曜日の夜遅く、田舎の近くまで帰り、ホテルに泊まりました。田舎の家まで、高速道路で15分の距離にある三田(さんだ)です。
三田は中学、高校と通った三田学園があるところです。宿泊は「神戸・三田新阪急ホテル」でした。ウッディタウンの駅前にあるのですが、車でニュータウン内をうろうろし、携帯電話で場所を聞きながら夜遅くたどり着きました。
30数年前には丘や山であったはずの三田学園の「桜ヶ丘」の地続きの場所が、新しい町になり、その一角に立派なホテルが建っているのです。本家梅田の新阪急ホテルより立派なホテルでしたが、なんと宿泊した5階には、僕と他に外国の人の二人だったようです。これは30日朝の部屋に挟まれた新聞でわかりました。
朝食にレストランへ行くと、少ない客の半分以上がアングロサクソン系の人たちで、英語が飛び交っていました。ここはどこかいな?
さらに驚いたのは、前夜は暗くて見えなかったのですが、周辺の風景が、北米のベッドタウンとうり二つの町並みでした。違うのは、北米は家と家の間や道路との間に木製の塀が防衛?やプライバシー保護のために、立ち並んでいるのですが、ここはそれがないのが唯一の違いでした。
便利になり、きれいな町ができるのはいいのですが、この先田舎はどう変わっていくのでしょうか?
このように、日記に書くのは、3年前の欧米での経験と我が国の対比、昔と今の対比ばかりです。50をすぎてやっとグローバルな視野で物事が見られるようになってきた証拠でしょうか?それとも西欧かぶれなのでしょうか?単に歳をとっただけでしょうか?

1月28日日曜日 昨日の雪


篠山市の田舎家をバリアフリーに改造開始しをはじめて一週間になり、床がはがしがすんだということで、見学と相談がてら、27日朝から車で京都亀岡から篠山に向かいました。
京都は朝から雨でした。9号線は洛西まで珍しくすいていました。京都縦貫道に乗り、最初の老の坂トンネルを越えたら、なんとそこは雪国でした。道路には積雪がなかったので、そのまま園部まで走り、八田峠(湯ノ花温泉の奥)をやりすごし、天引き峠へ向かいました。ところが、峠直前からあたりは真っ白、おまけに道にも雪が積もってきました。ノーマルタイヤでしたので、勇気を出して「撤退」しました。京都へ帰る9号線は亀岡までは、雪が降っていましたが、道路は積雪がなく走れたのですが、亀岡の市役所付近から、京都むきの車が動かない。老の坂トンネルまで4km以上あります。雪はどんどん降ってくる。約二時間半かかってやっと老の坂峠へ。峠には道路上にも積雪。
小生、田舎育ちで、おまけにトロントのノーマルタイヤでの高速道路も経験し、雪道走行は結構慣れているつもりです。雪道ののぼりは一度止まるとスリップするから、ローかセコンドで前の車と間隔あけて、マイペースで急ハンドルきらず、ブレーキ踏まずに、ただただ慎重に登ります。ところが、女性を差別するつもりはないのですが、後ろの車が中年の女性で、しかも国産の高級乗用車で、前に続けとばかりに、ピッタリわが車についてきます。「怖い」!!道が怖いのではなく、後ろの車が怖い。
昨年の京都市内の大雪の時は、市内で後ろからドーンとあてられました。高年の男性ドライバーでした。これは、四輪駆動を過信した馬鹿者が、低速走行している我々を「格好良く」無理に追い抜いて、すぐさま一人で前後に一回転してガードレールにぶつかり急停車。そんなこともあろうかと、こっちは余裕で追い抜いた車にぶつかることなく停止。するとすぐさま、後ろからドーンと。ちなみにこの高年ドライバーは、車修理会社の社長でした。
トロントの高速道路でも、目の前の車が回転(前後)しました。これは拙著でも紹介した内容ですが、もうはっきり言ってボロボロの小さなバンに大男や奥様方が4人乗っていました。回転する直前、これも恰好良く横の車線を(トロントは田舎でも高速道路は計6車線あります)追い抜いたのです。道は真っ白に固まった雪です。タイヤは追い抜いた時、溝がツルツルに減っていることを確認。
少しのぼりにさしかかり、アクセルを踏む。あーこわい!と思った瞬間でした。でもトロントは一応車間距離はとっていますので、この一人相撲は、一人で転んで誰も巻き込みませんでした。ちなみにトロントは車検なし。走ればどんな車でもオーケーです。
さて、昨日に戻ります。後ろの車はバックミラーで確認する限り、上り坂では。車体があっちこっちへ振られながらも、一生懸命ついてくるのです。「お願い!離れて」と云いたいのですが、ここで止まると、発車が難しい。そして、道路頂上のトンネル直前で、後ろの車はスリップ停車。事故にはならず。ここで一気に引き離す。ところが京都側にも雪あり。すぐさま追いついてきた。
この人は何を考えて運転しているのであろうか?下りこそ、車間距離あけないと、ぶち当たるよ。こっちはセコンドでブレーキ踏まずに下っているのに、バックミラーで見ていると、トランク直前に近づいては、また離れる・・・ブレーキとアクセルを代わりばんこに踏んでいると思われる。反対車線には大型トラックが登ってくる。ものすごい長い時間に感じられました。雪がなくなった峠下の信号で、後ろの高級車は何もなかったように、京都市の高級住宅街へ左折しました。市内は雪も雨もあがり、路面は乾き始めていました。亀岡から苦闘の三時間の峠越えでした。もう一つ腹がたったのは、この間KBS京都のラジオ交通情報が二度ありました。全く嘘。10km以上雪のためスリップで停滞しているのに、「断続的に4kmの渋滞」とだけ繰り返す。情報はなんの役にも立たず、今日は雪に埋もれて近づけないはずの「湯ノ花温泉」の宣伝をし、ジョッキーがばか笑いをしている。
 という腹の立ったつまらない話でした。

1月26日 日本の医療・雑感その一


昨夜、京都駅前のある会議室で、クリエイツかもがわ主催で「医療と福祉」の討論会をしました。僕もこどもや障害児に関連した北欧・北米の医療事情を駆け足で話しました。話そのものは、いつもの通り、あっちへいったり、こっちへきたり・・・まとまりのないものでしたが、昨年出版した本にも少し書いていますが、今は、もう少し過激になって・・・
1)北欧の素晴らしい所は、まさに患者が主人公の発想で作られ、運営されている。現地へいくと、それを肌で感じる。帰国して、日本の遅れに黙っておれなくなった。北欧の話をするたびに、内容は「過激」になっていく。国は、政府は、行政は、こんな単純な論理が何故わからんのや!
2) 小児医療や小児救急が、資本の論理(儲けがない)と重労働から医者が遠ざかり、崩壊しようとしている。赤字を出さないで運営する病院を目指すのが現在の目標なのか?それは正しいのか?
  必要な医療なら「赤字」であってもいいではないか。我々医師やスタッフが何故売り上げを考えて働かねばならないか?
馬鹿げた診療がある。小児科「売り上げ向上」の容易な戦略として、成長ホルモン注射の患者を増やすやり方である。一人月数十万円の収入になる。(実質的な利ざやは多くはないが)、診療報酬が極めて少ない単価の小児科にとってはドル箱である。厚生省が認める-2SDという「本物」の低身長には、検査値などで基準を満たす場合の公費負担があり、これには一定のコンセンサスがあるが、それに満たない比較的低身長の子ども達に対しても、健康保険を使って、お医者様が病名をつけて、ホルモン注射をする。ちなみに「体力、筋力がつくから・・・」などと云う医者もいる。本来の適応は、身長をのばすための薬である。「治療」を提案された家族としては、「少しでも身長がのびれば・・・」と言う親心であったり、脳性麻痺のこどもに「体力つくと、上手に歩けるようになる」と云われると、「お医者様のいうことだから」と(なんか変だな)思いつつも同意してしまう。全く馬鹿げた「商売」であると思うのは、僕が160cmしかないためのひがみであろうか。
外来で抗生物質の点滴をすることも、果たして科学的な裏付けの「治療」だろうか?脱水症に水分の点滴をする理屈にあった治療とは、同じ点滴でも中身が違い、「儲け」がちがう。風邪に抗生剤内服薬を当然の治療法として認めてきた?ことも、疑問符がつく。まだまだ、いっぱいおかしいところがある。(つづく)

1月19日 女坂


自宅から京阪の七条駅まで歩く道で、いつもたくさんの京都女子大の児童、生徒、学生に会います。通称「女坂(おんなざか)」といって、広い通りが若い女性でいっぱいになります。その中を僕が対面する格好で突っ切って歩くことになります。午前7時代は、男子も含めた付属の小学生、8時台前半は、古典的セーラー服の中学生とルーズソックス(今は半分くらいか)とミニスカートの高校生、そして後半は思い思いのカジュアルな服装の短大と大学生になります。このパターンは、僕が東山に移り棲んだ30歳代後半から、ずーと同じです。
そして、彼女達と向き合う形で突っ切る時の僕の年齢は、いつも同じ。30歳代の気持ちです。決して50歳を越えた「おじさん」とは思いません。
 今朝は、高校入試(推薦?)だったのでしょうか。殆ど同じ顔をした親娘が私服で女坂を登ってきます。中には姉妹と見間違いそうになる親子もいました。母親が着飾って、化粧しているからかもしれませんが、いつもの女坂の雰囲気とは違っていました。しかし、最近の傾向かもしれませんが、父娘の組み合わせが結構いました。2割近くになったでしょうか。お父さんが会社休んで、子どもの入試につきあう時代なのです。

 でも校門には、各塾ごとに塾名の入った腕章とのぼりをうち立て、「がんばれ」「がんばれ」と声をかけ続ける姿は、「異常」としか思えませんでした。

1月8日 新年の誓いとして


昨年から体力の衰えを日毎感じています。
1996年から1997年までのトロント滞在中は、毎週何回かトレーニングセンターへ通っていました。それが帰国してからは、時として自室内に置いたバイクを20分ほど使用するのみになりました。このごろは病院の階段を上がるのさえ、しんどくなりました。今年は「鍛えよう」と新年から誓っています。
トロントへ行く前にも京都で市立のジム施設へ通っていました。京都とトロントの施設などの違いははっきりしています。少し比較しながらトロントでのジムの経験をのべてみます。
1)まず、トロントでは通う前にテストがありました。一人一人の体力や柔軟度などについて、きめ細かくチェックを受けます。それだけで結構きつい体力チェックでした。次にジムへ通う理由を聞かれ、その目的と現在の体力とを鑑みて、ジムの専属プロが「あんたはこのマシーンはこの力で、何回繰り返しなさい」と一つ一つの器械巡りをしていきました。
1時間以上かけて、マンツーマンで説明を受けました。
京都の場合は、10人近くの新人を集めての講義と、一つ一つの器械の使い方の説明があり、無理をしないようにという程度のものでした。一人一人についての体力測定とそれに基づくプラン設定はありませんでした。最近はジムもご無沙汰していますので、トロントのようなシステムになっているのかもしれませんが。
2)トレーニングしている人の雰囲気が違います。トロントはのんびりとマイペースの雰囲気ですが、55カ国ほどの人種が棲んでいるのですが、ジムを利用している人は殆どが「白人」でした。ジムは、東洋系の人が多く棲んでいる地域でしたが、東洋系の人はほとんどお目にかかりませんでした。 みんなでかい。パワーもある。筋肉量もちがう。器械の設定も自分が使うときは、常にゼロに近づけた数字になります。大人と子どもがいっしょにトレーニングしている様でした。その上、日本の時と違い、至る所におおきな鏡が張り巡らせてあります。常に、常に、自分のみすぼらしい姿が映し出されるのです。みんな半そで、半ズボンスタイルですから、より一層中身がよく見えるのです。
3)トロントでは半年単位のクラブ入会の形でした。一回使用料で換算し、京都と比較すると、やはりカナダは安い。しかも入会していたのは、地下鉄のフィンチという駅に直結したような場所にあり、たいへん便利でした。

ということで、「今年はトレーニング頑張るぞ」とここで宣言し、自らを奮い立たせます。

2001年1月1日

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

部屋の北方すぐそばの正林寺の鐘が鳴り続けています。西方からは妙法院付近の寺からの鐘・・・ほかにも色々な方向から鐘の音が聞こえてきます。救急車の音色も変にマッチしている京都の新年です。遠くから若者の甲高い声も聞こえます。それにしても騒がしい新年の始まりです。

メイルの第一発は、てんかん協会の創薬ボランティア運営委員会からの「今年はがんばろう」というメイルでした。世界80カ国以上で使用できる抗てんかん薬が我が国では使用出来ません。患者組織からのプッシュです。

小児の脳死について、日本小児科学会でも1月早々検討小委員会が始まるでしょう。私的には、15年前の拙著をなんとかリニューアル発売したいと考えています。

学齢期の重度児の医療的ケアの一定の結論がでる年でもあります。『「医療的ケア」ネットワーク』 が2月発売です。前向きな結論へ働きかけていくつもりです。 

3月下旬には、ベトナム TUDU病院などへ行きます。ダイオキシンと被爆二世の神経学的奇形の調査です。夏には北欧の成人の重度脳障害者の医療と福祉の調査にでかけるつもりです。

親父を通して、引き続き老人介護の現状と問題点を学び、障害児者医療との接点を模索します。

小児医療は日毎に受診者減少、収入も当然減少傾向です。日本の医療全体の問題、まさに国策そのものに問題があります。

人生を逆算すると、そんなに「生きる」日がありません。日々大切に、悔いのない、誠実な生き方をしたいと願う2001年の始まりです。

12月30日  50年(以上)ぶりの大掃除


4代続いた篠山の一開業医が店を閉めました。81歳の元院長は、現在リハビリ中です。やっと二足歩行が可能になりつつある状態です。
バリアフリーにするために、信用のおける京都の1級建築士さんにお願いし、施行は明石の工務店の方に頼むことになりました。近畿ワイドな布陣で新年早々からリメイク(リフォームと呼ばない僕のこだわり)にとりかかってもらいます。旧家の骨格を残しながら、斬新なデザインの老夫婦館ができあがります。本当は老夫婦の自己決定で、内容が考えられるのでしょうが、今回は娘、息子が、老夫婦になりかわり、計画を進めました。さあ、できあがった時、住人はなんというでしょうか?
昨日、田舎の古家をバリアフリーにするための前段階の大掃除にたくさんの人が集まりました。老夫婦には10人の孫がいます。この殆どが掃除、片づけの働き手として集まったのですが、和気藹々、この田舎家の歴史上初めてのことでした。いやはや、爺さんの脳卒中の「おかげ」です。
でも昨夜何年ぶりかで、田舎家に泊まりましたが、「寒いこと、寒いこと」顔をすきま風が一晩中なでていました。久しぶりに子どもの頃の感触を思い出しました。
バリアフリー改造は、なによりも息子や孫が快適に宿泊するためのものなり。


12月28日木曜日 さみしい年末

 14歳のWくんの訃報です。彼は生後まもなくから難治性痙攣が始まり、生後2か月の時、僕といっしょに男山病院へやってきました。何度となく、ACTH治療や肺炎で入院しました。彼の脳波は、ずっとずっとヒプスアリスミアのままでした。病態はわからずじまいになりました。K養護学校でもはじめは訪問でした。でも母子センターで胃ロウ形成術をしてもらってからは、ほとんど入院もなく、在宅酸素もはじめて、表情が和らいできていました。最近、ずっと介護してきたおかあさんの付き添いもいらない通学になる時だったと思います。

僕の男山病院での診療の歴史を振り返る時、一番最初に浮かんでくるのがW君の顔です。残念ながら、最後のお別れができませんでした。早朝、救急車でK病院にたどり着いたときは、瀕死状態だったとのこと。

さみしい年末になりました。

12月22日金曜日 インフルエンザ来る

 子ども医者からの感染情報です。
今年もインフルエンザがやってきました。18日ころからぼつぼつという状態でしたが、本日の小生の外来でもキャッチしました。簡易のインフルエンザ診断キットによる診断です。症状は昨年、一昨年ほどきつくありません。「熱が5,6日続く」「咳がでる」「身体の節々がいたい」という訴えです。
23日から学校は冬休みです。流行はこれで一時途絶えます。
今、他にマイコプラズマ肺炎と溶連菌感染症(猩紅熱)も流行中です。
こども医者の主たる診療は、急性感染症です。

12月19日火曜日 外来にて「白衣」を考える


 少し酔っぱらった状態で書きました。
もともと小生は白衣が嫌いです。医者の白衣の意味が理解できません。
できるかぎり通常の服装で診察してきました。風邪など咳が降りかかってくる外来では、自分の防衛のために白衣を作業着として着ることがありますが。
 1年間北米と北欧をみて、自分の考えがまんざら間違っていないことに意を強うしました。病院では、医者の白衣にほとんどお目にかかりませんでした。でもみんな医者でした。日本の医者はほとんど白衣を着ています。
 本日の外来で、あるおかあさんに云われました。
医者が白衣を着て、泰然自若の状態で患者さんに話しをすることも、時には有用であることを。

 我が国では、医者と教師は聖職意識があったのでしょうか?白衣を着ていると、発言にも「重さ」がでてくるのでしょう。
 子ども達のことで、学校の先生方と診察室で向き合う時にも、白衣は一種の「武装」状態を意味し、きっと威圧感をあたえるのでしょう。
専門家としての「権力」誇示になるのでしょうか?
プラトン以来のパターナリスム(父権主義・小生に言わせれば一種の押しつけ)のユニホームでは・・・・こういう小生自身も「部長回診」では、白衣を纏います。
   矛盾だらけの「こども医者」です。

12月10日 ある養護学校(O府下)の先生からのメイル

質問内容:O府の府教委で医ケアの検討会が設置されて、検討が始まりました。先生もそのメンバーに入っておられますが、・・・。
人工呼吸器をつけたお子さんの保護者がメンバーに加わっておられ、一般校での医療的ケアに対するバックアップ体制を考えていくということで画期的なことだなあと思っていました。

:画期的かどうかは答申をみてからでしょう。評価は。 ただ、関係者(選択基準は別として)がほとんど集合させたことは評価出来ると思います。

質問:先日教育委員会の「重度重複障害教育研修」で、あるDrから「医療的ケアについて」という講義を受けました。その中で、「ちょっと難しいが」ということで人工呼吸器の話がでました。O府は人工呼吸器に関するケアも教員が取り組むように考えているのでしょうか?

:21世紀に向けての新しい形を作ろうとしているように見受けられます。
決して教員にしてもらおうとうのでなくて、こんな形でもやっているところがありますよ。教育委員会はそのことも知っています(理解しています?)よ・・・
という社会へのアピールもあるのでしょう。ただ、それを教育委員会が主導ですることかは、別の問題ですよ・・・という様な印象を持ちました。
21世紀の行政は、アメリカの州にも似た、東京都石原知事のアドバルーンのような、地方行政主導形の「民主主義」でしょう。金はださんが・・・如何に地方で金集めて・・・(ちょっと飛躍あり)

質問:私は、まだまだ教員が人工呼吸器に関わることは難しいと思っています。

:僕も同意見です。今後も無理です。教員には他の課題があります。重症児の教育です。複雑な分野外のケアにふりまわされないように、本論を進めねばならないと思います。人工呼吸器のテクニックよりも、重度児がどんなサインをおくって来るのか?それにどう答えるのか?どう教えるのか?教育的問題は山積していますよ。

質問:基本的に医療的ケアとして教員が関われる範囲として、ずっと前に厚生省に医師会の有志が提出された「経管栄養、吸引、気管切開部の管理、導尿、エアウェイ、酸素吸入」などであると思っています。
さらに文部省は実践研究で「経管栄養、吸引、導尿」しか示していません。
養護学校の中でも、今後どんなケアが求められ、それに対応できるのか?ということに不安をもつ教員が多くいます。私自身の思いでは、上述の6つのケアについて何とかどこの学校でもできるような施策ができることを望んでおります。

:同意見です。全国津々浦々の学校でチューブをいれているために訪問教育になっている子ども達が早く学校の校舎で学べるようにする事だと思います。ただ、てっとり早い方法として、看護婦を入れるか?もし入れるとしたら、どのような形で入れるか?の討論が必要です。果たしてそれが根本的な解決に向かう方法論かは、僕は疑問に思い続けています。
養護教諭のリメイクと増員が僕の意見です。校医をどうするか、専門性が問われています。巡回指導にするか、一校一人にするか・・・。専門医が現場に入ることが、どれだけ教師に安心感を与えるか。教師は本来の教育に邁進できるような学校保健体制を作らねばなりません。

質問:人工呼吸器の問題はいかがでしょうか?  

:人工呼吸器は、基本的に患者自身・親がえらんだヘルパー・アシスタント・ナースが24時間体制でつきそうスウェーデン型が理想と考えています。別に看護婦でなくてもいいのですが、免許証にうるさい日本ではやはりナースになるでしょうか?公費で雇ってもらいます。親がしなければならないという義務もないと思います。親には親の人生もあります。もちろんこどもと共に歩むのも人生ですが、こどもの呼吸管理に疲れ切る親をみて、それで当たり前とは思いません。公的援助が必須です。
それと、在宅と学校を分けて療育内容を考える視点は間違っていると思います。子どもの側からみると、どちらでも同じ内容のケアが保障されるべきです。どちらも公費で。でも学校は生活場所だけでなく、学ぶところでもあります。この違いはあります。
専門職には専門職のやることがあります。    話は変わりますが、毎日の新聞をにぎわせている医療ミスですが。  病院内でも本来は、人工呼吸器や病棟での薬の配布(この投薬ミスが一番多い)、注射液の調合などは看護婦の仕事ではありません。前者は臨床工学士(これからの分野か)で、後者は薬剤師です。そして、各職種の連携です。でないと病院でのミスはなくなりません。20世紀の専門性をもっと大きな視野で見直さねばならないでしょう。とにかく、北米・北欧と比較し、医療現場には限られた人間の数と限られた職種(医者と看護婦と薬剤師)しかいません。もっともっと他職種がはいらないと。
教育現場も同じです。良い意味での棲み分けの再確認と必要な職種(何が足らないか)の関わりがこれからの学校でしょう。
「みんな平等」で「足らないもの(金や人)だらけ」というのでなくて、ニーズに応じて一つ一つの学校の布陣がことなってもいいのではないでしょうか?でないと、フリースクールの波が押し寄せ、公的教育がすみっこへおしやられていくでしょう。僕が紹介したスウェーデンのちいさな障害別養護学校も北米のフリースクールの形です。もちろん北欧では公的支援があります。

僕は、今、現実的な課題として老人福祉・医療・介護、ぼけ・・・に突入しています。お先真っ暗です。現実は本当に厳しいですね。新・真のパワーがいります。
なんとかして・・・国の方針をかえることを、これほど現実味をおびて肌で感じたことはありません。これまではインテリの筋論でしたが・・・。格好良く講演で話しておけば自分自身のガス抜きはできましたが、毎日の生活に食い込んでくると、筋論では、パワーがつきません。具体的な施策そのものが早急にとられるべきと痛感している今日このごろ、2000年の師走です。

12月3日 日曜日
少し自宅周辺のお話をします。
今日の紅葉が今年最高でした。自宅の部屋のリビングは、二方向がガラス窓です。燃えるようなカエデが東山阿弥陀が峯山麓を覆い尽くしています。朝食を取る食卓からは緑の中に赤や黄色の太い帯状になった紅葉が見えます。
春はこの一帯は桜の花でおおわれます。
カラスの鳴き声がうるさい以外は自然の中に棲んでいる感覚です。

 ところが、ここ2,3週間の休日は他府県ナンバーの大型観光バスと自家用車で東山界隈はあふれかえっています。自宅の南に東福寺、せんにゅう寺、北には清水寺が散歩コースの距離にあります。
他府県から京都にあこがれてやってくる人たちは、はじめは自家用車で来ます。そして、市内ほとんど車では移動出来ない混雑と、目的地に十分な駐車場がないことに気付き、疲れ果てて帰っていきます。決して良い思い出にはなりません。二回目からは電車で来て、市内バスか徒歩で観光します。
 ということで今、東山通りや7条通りはリュックを背負ったスニーカーの中年と若いカップルで溢れています。
われら住人は、行き止まりの道に迷い込んでくる自家用車を横目でみながら、自転車か徒歩で買い物です。
京都府、京都市行政! なんとかしてくれ!! 周辺の高速道路ばっかり作っていると、もっともっと矛盾が深化しまっせ!

12月1日
 このところ多忙を極めています。ホームページを更新することもできません。
申し訳ない次第です。この間、頭に来る出来事、そして悲しい話題も幾つかありました。

老医師のこと・その4
 ついに退院が現実的な課題になりました。会話も時々理解出来るようになりました。「家へ帰りたい」という帰宅願望が強いのですが、息子は無惨にも父の願いを拒否しました。しばらくは村社会とは遠く離れた別の病院でリハビリし、その間に自宅の古家の改造をする方針です。さて、いつまで「拘束」しておくことができるか? 
診療所も閉院同様の無期休診になりそうです。代々続いてきた田舎の開業医の終わりです。

11月26日 
月光仮面・その2

 行きつけの一本100円のビデオショップで「月光仮面」を借りてきました。
第一話の少年は、「全く面白くない。ゆっくりペースで筋がさっぱりわからない。話している言葉と口が合っていない。月光仮面のユニホームがピチピチで変な感じ・・そして、なんで二丁拳銃なのか?」と。
 テレビが始まったころのモノクロ・・・しかたがないですか。
でも我ら団塊世代にとっては、大瀬康一演ずる月光仮面は永遠のヒーロです。

第一回クリエイツかもがわ総合研究所医療講演会
 研究所主任研究員で、日本アルツハイマー協会副代表の三宅貴夫先生の『「ぼけ」からみえるもの』と題した講演がありました。たいへん興味深い内容でした。その中で、老人のぼけと障害児者医療・福祉と共通の課題をあらためて認識しました。

1) ボケ老人の場合、殆ど本人が希望して施設へ入ることはない。施設では善意で接しているつもりでも、本人は快適かどうか不明。
2) 拘束または抑制または不適切なケアが入所施設で広く行われている。安全を期すという理由で、「拘束」が行われている。みんなは気付いていないが人権の問題として討論されねばならない。排泄時のプライバシーにも問題があると感じない人が多い。
3) 介護に疲れ、「介護殺人事件」をおこすまでもなく。その直前の状態の人がたくさんいる。昔と違って、家族の閉鎖性も関係している。
4) SOSネットワークとして新たな地域社会の形成が必要。地域ぐるみでボケ老人への理解を深め、みんなが老人の安全を地域で守る。コンビニ職員、タクシー運転手・・・等の協力もそして警察もその中核になる。

 障害児者の通園、通所、入所施設にも同様のことがいえます。障害者本人の意志・自己決定の尊重が、この神の国ではないがしろにされています。
 ただ、3)と4)で少し異論があります。家族の閉鎖性が虐待などと関連するというのは、田舎の恥の文化と通ずる無理矢理の開放には、少し問題があると思います。警察が中核になるというのも、住民のための「警察」でないと、秩序維持を大義名分にした為政者のための監視社会になりかねないと思います。


11月24日 老医師倒れる・その3
 

 8日に入院し、リハビリに励む。スムースではないにしても単独歩行も数歩可能となる。そして、一週間後の退院通告。
 欧米並の早期退院、自宅療養も国の政策であり、病院の生き残り策であることは承知するも、患者本人と自宅介護のサポーターにとって、あまりにも早すぎる退院である。
 田舎の古くさい広いだけが取り柄の老医師の自宅。主たる介護者は80歳の老妻。老妻は医師免許があっても、家事労働や介護労働の免許は、かぎりなくゼロにちかい。
 23日、設計のプロがバリアフリー改造の目的で古家を検証した。
 老医師の田舎の取り巻きは、「なにかあったとき(葬祭)、近所の人たちが集まる“よそいきの場所”が必要(でないと、恥ずかしい)」との主張。専門家は、「広い家の中で、一番しっかりした快適な部屋を“傷ついた主人”のために改造できないとは?」 ・・・・結局、数年後には壊す可能性のあるリビングを改造することになった。そこは、患者本人が酒をのみタバコのヤニがしみついた場所。古家では一番奥まった場所・外には声も届かず、外から覗きもできない陽当たりのない暗い場所。
隣は何をする人ぞ? 向こう3軒両隣の古い歴史的「覗き・監視体質」が残る田舎。戦後50年、田舎の人々の認識は一歩たりとも変化していない。
 すきま風が遠慮なく通過していく寝室、田舎の古家には似つかわしくない数百万円した・バリアだらけのバスユニット、おまけにシャワーは全開でチョロチョロとしかでない、いい加減な給湯システム・・・こんな「中途半端」な「文化的生活」をこれまでよく我慢してきたものだ。
「わしの子どものころに比べりゃ、良くなった!」と自慢げにいっていた老医師。たかり商売や設計ミスに抗議一つせず生きてきた。それを見て育った息子は、逆に好戦的性格になったのか??
 病院放り出されたらどうしよう? 自宅療養のソフト面も問題あるが、ハード面の環境作り・バリアフリー改造にはあと2,3ヶ月かかる。

11月22日 京の街角

 近頃、都に流行るもの?
朝、ファミマに寄りました。すると托鉢姿の若者がレジに並んでいました。
いくら京の都といえども珍しい風景と思いました。

ファミマを出た後、一列に並んで歩く3人の若いお坊さん後に続きました。
素足にわらじを履き、禅僧風の格好、そして坊主姿・・・なんと信じられない!

次の交差点で少し立ち止まったかと思うと、3人一列でそのままマクドナルドの
注文行列につながりました。

最近、三条大橋の托鉢の若者に偽物がいるとのこと・・・これもフリーターの一つ?
真実は如何に?

11月18日 ある葉書

 関西医大は学長選挙中です。こんな葉書が舞い込みました。「同窓会有志」という差出人名です。

 『今こそ関西医大の常識が問われる時です。8年前の藪内候補落選の雪辱を期し、元北新地のナイトエンペラーに一票を投じ、第二の日本医大を目指そうではありませんか。』
 
 多分有権者である学内の講師以上の関西医大出身者に出された葉書でしょう。
「同窓会有志」のいう「常識」とは如何に? 正義か、つぶしか?

母校出身者のみを良しとする「ナショナリズム」はいずれ駆逐されるか、母校そのものがつぶれてしまうかも?

11月17日金曜日 診療での出来事

1)小学生のN君1年ぶりの来院:肺炎等で入院を繰り返していた重度脳障害をもつN君10歳が元気に診察にやってきました。お母さんや学校の先生の話では、この一年元気に通学し、たいした熱も出さなかったとのこと。
元気の主な理由は、1年前に入院したときに教えた「鼻腔からのエアウエイ」を睡眠時に使ったことでした。体位によって、昼間でも舌根沈下のため呼吸時にゴーゴーと音がするN君。エアウエイを挿入以前は、夜でも睡眠が浅く何度も起きていたのです。それがこの方法でなくなりました。
「医療ケア」で生活リズムも安定し、より快適な生活を送ることができるようになったのです。

2)小学生のB君・新聞記事のトップを飾る:京都のローカルなある新聞のトップページに「苦しむ障害児・泣く養護学校・養護学校義務制から20年、京都は・先駆けから全国最低に」という記事が出ていました。

なんと数日前におかあさんと外来で「通学バスの危険性」について討論をしたB君9歳が、お気に入りのヘアバンド(吸引チューブの固定も兼ねる)姿で写っています。重度仮死から重度脳障害を持ち、先日は喀痰をのどに詰めて救急車来院しました。無事退院しましたが、その後も養護学校までの往復2時間半のバス通学。

母「もしバスの中で同じことがおこった時どう対応するの?」
主治医「問題があることはわかっているが、京都はまだ学校へ行けるだけいいと思う」
母「吸引も出来ない状態では、命の保障ができない。なんとか改善してもらうために働きかけます!」
主治医「筋論ではおかあさんが正しい。本当は北欧のように常に専属ヘルパーがついて吸引などできたらいいのだが。日本では難しい」
母「それは理想でしょう。とにかくなんとか早急に対応してもらわねば」
主治医「他の保護者や学校の担任の先生といっしょになって、頑張って」
 という討論でした。
記事には、先日講演に出向いた与謝の海養護学校の現状も書かれていました。
与謝の海は27年前の学生時代に訪問した時と全く変わらない校舎と校舎が斜面つなぎの「バリアだらけの養護学校」でした。
なお、京都は全国最低とは、一人あたりの施設整備費のことです。

微力ながら僕も頑張ります。できることあれば声をかけて下さい。
 

11月15日 老医師倒れる・その2

 81歳の元開業医は、その後リハビリを開始し、杖で少し歩けるまでになっています。言葉は不明瞭で理解できませんが、一生懸命「発言」しています。どうもこちらの云うことは理解しているような仕草です。でも非麻痺側での文字表現や文字を指し示す方法での自己表現はできません。言葉を獲得していない障害児の場合、自己決定のための表現・サインをまわりのサポーターがキャッチする方法が、まだまだ研究されていません。老人介護と障害児サポートは、共通の研究課題であるように思いました。

それにしても、あと2,3週間たらずで退院?開業医の棲んでいた旧家は、部屋ごとにバリアーがあり、生活する場所にあらず。旧家を改造するにも「プロ」の援助と時間とお金が必要。日本の福祉の私的責任・受益者負担制度を進行形で勉強中です。

11月8日 ある年寄りの開業医の話・その1

 11月3日に秋の叙勲が発表された。80歳をこえてほそぼそと開業している医師が「勲章」をもらった。50年以上校医をしていることが地元から評価されたためか。実際は順番が回ってきたということかもしれないが。
大正生まれの医師にとっては、一生で最後の表彰の舞台であろう。地元では、叙勲記念のパーティを開くという。生きている間の最後の主人公として登場するはずであった。準備の疲れと気持ちの高ぶりでアルコール量も増える。疲れがたまり、夜も眠れない。そして、自宅で倒れる。皇居の中で倒れなくてよかった。
これで開業医はやめることになるだろう。たぶん死には至らず、訓練の毎日が始まるであろう。これを誰が支える。取り巻きにも新しい試練がはじまる。
 息子は、ここだけの話「勲章なんぞ返したら」と云っていた。でもそれは息子の生き方

11月3日 ある子どもの話

映画「となりの山田君」を観て:
月光仮面や若者たちといった団塊世代の管理人には懐かしい
音楽がでてきました。子どもはどう受け止めたでしょう?
月光仮面のこと:
1) どうして「おじさん」なの?「おにいさん」ではないの?、
2) なんで覆面しているの? 覆面したら何かパワーがでるの?
3) スーパーマンは下に服を着ているのに、月光仮面はなんで
  陰で着替えるの? 顔がばれるとまずいの?
4)いつも決まった敵がいないの?怪獣はでてこないの?