11月10日
いま医療的ケアの必要な方に当面必要なもの:移動支援とコミュニケーション支援についての考え方と課題
いま当面の自立支援事業のはざまで認知し、拡大しなければならない支援が二つあります。
一つは、学校の通学保障とも関連した「移動支援」であり、もう一つは、病院に入院した時の見守りを可能とする「コミュニケーション支援」です。
どちらも地域支援事業のひとつですから、各市町村単位で認可できるものです。ただし、正面切っては、どこでも申請すれば可能というものではありません。すでに利用しているところは増えてきています。しかし、このまま普遍化、平準化するとは思えません。
どちらもにたような「狭間」にあります。移動支援は教育委員会と市福祉課、コミュニケーション支援は医療保険と市福祉課、ということだと思います。
まず移動支援から、1979年以来すべての子どもに教育保障をする名の下に現在の文科省は動いてきました。医療的ケアの子どもたちだけでなく、常時薬を飲んだり、てんかん発作のある子どもたちは、なんとか親の付き添いで通学から学習時間までを保障することで始まって行きました。(通学が教育委員会の責任下なのかどうかを討論する気はありません)養護学校における医療的ケアの歴史はまさにこの運動でした。これまで医療的ケアの必要な人に対して誰が実施者になるか、が一つのバリアーになり、文句なしに通学保障できない、ということでした。ところが昨年から三号研修(法制化時には特定関係下の研修とよばれていた)を受け、個別な研修もクリアすれば移動支援の状態であっても法的に可能になりました。となると移動支援を受ける事業者があるかないか、だけが問題となり、市当局が「不可能」という理屈がありません。同じ市の教育委員会と福祉課のやり取りで解決すべきです。ただ、移動支援を受ける事業者がおそらく地域支援事業(日中支援など)を受けているところになると思われます。
はたして三号研修など一連の研修が各市で実施できているかの方が問題になると思われます。学校は教育委員会で三号研修しているところが増えてきていますが。
僕の意見としては、交渉次第で事業者さえあれば気管内吸引など移動支援で非医療職でも可能と思います。が、そのリスクを背負う事業者の問題と児童生徒の病態の難しさ(重さ)にも関連しますから、やはり主治医が関与すべきと思います。もし、市町村の地域支援事業ではできない、というのであれば、厚労省担当局に市当局から問い合わせてもらうといいと思います。法的に「違法」なのか?と。
もう一つ、コミュニケーション支援の問題です。重症児者が病院に入院した時、いつものヘルパーが見守りにつくこと、そしてそれを一部の市町村では「コミュニケーション支援」として事業として認めている。ただし不十分な条件ではあります。まず入院先の病院の了解が一番難しい。つぎに一人についての時間数がそれぞれ決められています。必要な分だけ、という障がい者の側の考え方ではありません。病院の了解の難しさの理由は二つあります。一つは障がい者の保険診療での支払い(子どもの1/3)が低い。障がい者を診察したことない医師が夜間等の当直にはいる。今地域の中小病院は生き残り策で必死です。リスクを抱え込まないことが必須なのです。この理由と、もう一つは大きな日本の医療の課題です。看護師を7:1で入院費を医療保険で取りながら、自立支援の福祉費用でコミュニケーション支援をとることの二重取りになることです。いまこのコミュニケーション支援が拡大し、平準化しないのは法的な問題があるのです。限定的なものであれば「おめこぼし」なのでしょう。ところが、日本の重症児医療と福祉の歴史は「重症心身障害児入所施設」でこれを法的に可能にしていました。親たちの運動です。すなわち、いま、重症児入所では医療費と福祉費のダブルスタンダードが可能なのです。これは世界に誇る制度です。しかし、「限定的な施設」(重症児入所施設)のみ可能になった歴史なのです。これは余談ですが、昨年からの吸引の法制化によって「その入所施設では医療職以外は吸引などに関わってはいけない」という但し書きがつきました。施設では逆行です。これまで、重症児が成人になり、いまや高齢化をむかえることができたのは、このダブルスタンダードのおかげなのです。我が国の誇りなのです。それを「市場化原理」かどうかわかりませんが、いまさら否定する方向の動きはおかしいですね。むしろ病院に緊急入院した医療的ケアの必要な重症児者には、入所者と同様にとはいわなくても、「見守りヘルパー」がついてもおかしくないではないですか。そうすれば、もっと地域で重症児者を支援していくことができるはずです。
以上、二つの地域支援事業についての意見を書きました。学校での医療的ケアの歴史、重症心身障害児の歴史の積み重ねで、そして地域で重い障がいをもっていても、公的な支援(公助)で安心、安全な生活保障をしていこうとする今、当面課題になっている二つの事業をとりまく課題について述べました。
4月1日 こぶしの花、交通事故被害者
スギケンは残念ながら「元気に」年をとっています。診療ではインフルエンザもほぼ終わりになっています。診療所運営もなんとか低いレベル(金銭的な面)ですが、「自立」できる程度になってきています。
5年前に考えた「予想図」から3年遅れの状態です。見通しがいつも甘いのですね。
いま、桜の花は六甲山表側では満開でしょうが、裏六甲山から篠山はまだ半分くらいでしょうか。
このごろ高速道路を走っていると、いつもの春の山との違いに気付きます。「白いこぶしの花」です。今年は例年以上に目立ちます。気象条件の違いなのかもしれませんが、とにかくびっくりするような春の山風景が展開されています。六甲の裏側の山々はすでに山桜は散っていますが、真っ白い花が
谷を中心に「いっぱい」咲いています。こんな風景はこれまでみたことないのです。たくさん咲いています。 気持ちがそうおもわせているのでしょうか、年齢が冥土に近づいたからでしょうか、毎年と同じですか・・・
3月という月は、1985年以来、ずっとずっと12か月のうちで一番「重い想い」の月でした。やっとおわりました。決してわすれてはならない出来事をずっと復習する月で、まさに「感覚的」に五感から
復習します。いまだにあの時は「こうしていたらよかった」と回顧します。それ以降の人生は
それ以前とは全く別のものだったのです。いまのように田舎の診療所で診察をすることすら、なかった
別の人生を歩んでいたことでしょう。
いま、また1985年来の被害者意識の真っただ中にいます。2月に家族が運転していた車に、反対側の車列から(二車線、追い越し禁止)居眠り運転の車が、突撃してきました。右は車列、左は歩道と逃げどころなくそのまま車(軽自動車)をとめて、進んでくる車(普通車)を迎え撃つ運転手の「恐怖」。あっという間の結果、風船が開いていのちはたすかりましたが、軽自動車はボンネットの真ん中にナイフで切りこんだように押しつぶされ「全壊」状態でした。運転手はその当日から「助かった」という想いだけで、あとからむちうち状態が出現し、何も手に付かない日が続きました。
何を書きたいか?・・・それはT保険屋(日本の大手)との交渉経過です。事故そのものも100%相手に責任あることは明白です。全壊の車の損害賠償は当然として、被害者への人的損害賠償の基準をたてに相方は、謝罪ではなくビジネスとして「示談交渉」をしてきます。しかもふいうちの電話のみ。明らかに相手は加害者。もうすこしあたりどころがずれていたら運転手のいのちも危険にさらされたと思う事故。居眠り運転で相手車線に飛び込んできて、逃げどころなく静止した軽自動車にノーブレーキ
でぶつけておいて、それでなにもかも大手保険屋まかせ。 交渉にあたった二人(同時ではない)の保険社員は二人の間ですら十分な引き継ぎもなく、慇懃無礼な電話交渉で、当方が何度も怒鳴りつける。もともと僕は電話が大嫌いで、相手の顔もみえないところで自分たちの都合を押しつける道具だからです。とにかく自宅へ謝罪にこいよ、そして面と向かって話をしよう、といっても応じません。僕の姿勢をお金のつり上げ交渉のクレマン(モンスターペアレントをいまは「モンペレ」と呼ぶそうです。そう呼ばれている人に教えてもらいました、だからクレマーマンの略)と思われたのか、それともぼくのクレーマー的な言動をかわすためなのか、当方の意向に耳を傾けてくれません。「これまでの例では」「わが社では・・・」のくりかえし。自動車産業が完全に社会構造にはまり込み、さらにそこに保険業界がしっかりくいついて、示談は感情や誠意を抜きにした対・保険屋とのみの交渉になっている現状に気付くのは、交渉のあとの方になります。本来は当事者同士が話あうものと思うのですが。とくに今回のように加害者が100%悪いことははっきりしているとき、「保険屋さんよろしく」はないでしょう。
加害者が被害者に大変な恐怖を与えたこと、居眠り運転で反対車線をたまたま通過していた当方の車がなければ歩道へ、そして人家へ突っ込んだはずなのだということを認知することがまずは出発点である。このことを、繰り返し訴えるのですが、相方は「いくらいるのですか」では、話になりません。「ごめんなさい」はどうしたのや。そしてその賠償計算式は、何回病院を受診したかの日当計算。その計算方法が許せない。受診したときだけ「病気」で、ほかの日の症状は認めないのか。最低限、治癒までの日当を連続で加算してほしい、それが筋だろう、と主張し続ける当方。「保険屋の常識」を認めるわけにいかない。
・・・ということでいま大手保険屋と交渉、そして今度はお抱えの弁護士が担当になるそうな。
これまでたくさんの弁護士さんに世話になったし、医療裁判で世話もしてきた、でも今度はどんな弁護士がでてくるのか。どんな論法(あまりかわりはないでしょうが)で示談にもちこんでくるのか。楽しみにしているところもあります。というよりも、弁護士登場の意味は、今回の加害者の人権を守るのであれば、その先に、被害者の人権があることを認知し、なんの罪もない被害者を突然恐怖のそこに陥れた権利侵害をまずみとめないとお話の筋・基本が成り立ちません。「お金で済む」のではなく「基本に生活侵害、人権侵害がある」という社会的な関係性をベースにしかないと討論になりません。
「すみません、ごめんなさい」と、事故直後に加害者はいったそうな。それだけで、あとは保険屋弁護士まかせ。仕事で疲れ(業務上の過失か、わが身の病気のため(?)に「居眠り運転」をしてしまった、と。社会的責任はないのか。どんな罰則をうけるのか。・・・なにもない。保険の等級があがるだけ、・・・馬鹿にするなよ。
1985年当時、長男の事故のあと、保険屋(これも大手)登場し、不快な不快な不快な示談。
当時その話合い中に警察は不起訴をきめました。その後加害者の会社や運転手の謝罪は一切なし。
いまだに悔いています。なんで生き残った者・僕が裁判に持ち込んで、被害者側の想いを
ぶつける裁判をしなかったのか。ずーと、ずーと悔いて生きてきました。そのとき知った
保険屋体質とこの米国的示談システムの不快さをいま思い起こしています。
「いいかげんは許せない」「お金の額ではない」。是ぞクレーマー! と相方代理人保険屋は思っていると、想像しても、交渉に共感的話し合いなくして、イエスといえるか。4:6や7:3などという事故ではなく、居眠り運転で100%加害者が悪ということですぞ。 交渉は 「もう、いいや」とはいいません。
2012年9月2日 額田先生との出会い
あくまで63歳の記憶をもとに書いたものです。取り違えなどある可能性は否定しません。
お許しください。という弁解で始めます。
脳死・臓器移植の課題でお知り合いになって、その後お互いが催すシンポジウムなどに協力しあった数少ない医師のお一人です。明瞭な筋立てで、しかも大きな声ではっきりと話される姿をもうみることはできないのは、残念で悔しいです。どこかでもう一度一緒に仕事ができないか、と思っていました。額田先生は神戸市西区の病院、僕はいま神戸市北区に在住しています。
たしか、東京大学1990年の五月祭「脳死者からの臓器移植を考える」という公開討論会での壇上での出会いが始まりと思います。当時の東大は脳死反対の本田勝紀医師をはじめ社民党の阿部とも子氏(僕と同世代で小児神経科医でしたから、よく知っていますし、いまでも後援会員の一人です)などがいるなかで、東大医学部4年の50人が「脳死論争を考える会」をつくって、シンポを開いたのです。内容は筑摩ライブラリー53「解剖・日本の脳死」(1991)にでています。20年以上前ですが当時の論客のなかに光石氏とともに額田氏がおられました。
当時、ぼくは息子の死から5年で「脳死状態は時間をかければ、医療の素人でもノーリターンであることは理解できる。だから病棟でも枕頭看護ができる条件を整えるべき」という話が柱であったと思います。
額田先生は一貫して「脳死は社会的合意のなかにない」とその後も発言されてきました。
医療不信などがあるなかで、患者の権利が拡大されない現状では、とても合意という段階ではない、と主張されました。弱者,死に逝く側の人権が守られない脳死移植は認められない、ということだったと理解しています。その後神戸倫理委員会主催のシンポジウムや小児科学会倫理委員会が取り組んだシンポジウムなどで交流を深めました。
個人的にも僕が大学病院をやめてびわこ学園に赴任してのちも、京都の地で酒を飲みながら夜を語り合ったことをつい最近のように覚えています。その場に1990年東大医学生代表(実行委員長)の村田先生もいました。彼こそは医師になっても額田先生とぴったり行動をともにした医師の一人だと思います。
阪神大震災でのご活躍もあり、終末期の医療の在り方などにも一言ありました。本当に近いうちにご連絡させていただこう、と思っていた矢先に訃報がきてしまいました。お別れ会にいくことができませんでしたが、同じ神戸の地で先生の遺志をついで、気合をいれてまだまだ発言していかねばならない立場であることを思いました。
いま、新法は自己決定の意思に基づく臓器提供から後退しました。無理な説得や一時の混乱に入り込むような臓器提供への誘いに対して、しっかり検証していかなければなりません。1990年代からこの視点ではほとんど弱者側からみると大きな進歩はありません。
このごろ何人かから小児脳死臓器移植についてインタビューを受けました。一から話していくうちに、まだまだ課題が山積していることを自ら悟るという経験をしました。この課題は研究や仕事というものでなく、僕の人生そのもの、亡くなった剛亮との共同作業であることを常に意識しながら、いのち絶えるまで発信し続ける覚悟になっています。
2012年5月20日 高齢者と障害者:わが身振り返り
ある雑誌への寄稿のために最近のことと自分の人生を少し振り返りました。
しかし、予定枚数超えたため以下の部分の寄稿を断念しました。ここに不定期日記として掲載します。
老両親のこと
両親は田舎医者であった。父は教育委員会推薦の叙勲を目前にしてそのストレスもあったのか脳卒中で倒れ、半年後に右半身麻痺ながら蘇った。しかし開業医は廃業した。いま二回目の大腿骨折で入院中の93歳である。母92歳も医者であった。いまでいう在宅専門医であろうか、往診を専門として父と診療を続けていたが、父が倒れ自分も廃業した。筆者は4年前に社会福祉法人びわこ学園をやめ、父の田舎医者を継いだ。父母廃業後10年経っていた。小規模多機能施設を作るつもりが、いまもできず普通の小児科、小児神経内科の診療所を続けている。人口45000人、年出生数300人弱の田舎では一日の外来患者は20人程度である。借金を返して、食べていくのがやっとの毎日である。とても新しい事業展開に踏み込めない。何故故郷へ帰ったかは、老両親がいたから、そして娘医者に働く場所を提供したかったという個人的理由でしかない。
自分のことはさておき、親と子どもを通して今に迫る。高齢者問題と障害者問題の接点である「医療的ケア」に触れる。障害児者を論ずるとき、これまで高齢者問題は討論外であった。難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)者の自立生活などもいわば「別世界」であった。それが「医療的ケア一部法制化」の討論過程で見事に結びついてきた。いや、今回、政策として結び付けられた。
父は大学と名のつく病院に入院しているが、若い看護師に「ぼろくそ」に指図されながら、しかも大便をしくじったまま、それが乾ききる状態まで放置される状況で、何一つ文句言うことなく「賢い」患者でいる。90日入院のリミットがまもなくやってくるが、次の入院先がみつからない。息子としては父への看護師の扱い方に強い怒りを覚えながら、次に気をもんでいる。
こんなこともあった。骨折する直前にすこし食欲低下し体重が減った。栄養管理や体重増加と歩行との関係の評価もなしに、やってきた訪問看護師(週2回)は家族にむかって「栄養がたりてないようなので、エンシュアリキッドを主治医に処方してもらいましょう」と言った。本人は看護師が帰ったのち「イラン」と一言吐き捨てた。息子も同意した。
母は認知症がでている。介護度2で週に一回認知ディ・サービスに通っていた。しかし認知についてはしっかりしていた父が入院して二人の老いの生活は崩れた。母は大きな田舎家で一人では暮らせない。ケア・マネージャーに相談したところ、いつものディ・サービスにグループホーム(GH)があり、その入所者のたまの入院あき部屋が利用できるという。あわてて緊急短期入所した。そしてある日、家族が知らぬうちに、入院していた部屋主が帰ってきたということで、GHの部屋を追い出され、ディの片隅に移されていた。高齢者ではこういうことが本人や家族の了解もなく平気で行われることを知った。抗議する気も失せた。びわこ学園で責任職にあるとき、当事者の安心、安全な短期入所のために苦情や長期入所のベッド変更などは特に慎重にも慎重を期していた。いまは土地をかえて少し都市部の認知症GHで楽しく生活している。進んでいた認知症が若干もどりつつあることに驚いている。しかし、入所時にはしっかりと確認が行われた。「終末期治療はどうしますか」「自然死」にしますか、と。
高齢者と障害者
医療的ケア一部法制化の討論を経て、高齢者の課題をつきつけられていたが、同じ時期に私的にそれを現実のものとして体験することとなった。如何に誇り高いそれまでの人生であっても、高齢になり自立できない生活になると、周りへの遠慮も加味して自分の思い通りに生きることが保障されないことを確認することになった。もちろん田舎家を離れて別の生活をしている息子(筆者)や娘は田舎家で一日二回の介護支援をいれて、介護保険を大幅にオーバーする自費を加算しても、なんとか自宅支援しようとした。認知症があるので24時間つきっきりは不可能だし、田舎ゆえか、休日のヘルプは家族がやらねばならないことから、1か月も実行できなかった。高齢者の在宅支援も後に述べる障害者の支援と同様、24時間自宅での公的支援での生活は現状では不可能と納得した。
1980年代から筆者は当時の大阪府の養護学校で医療的ケアの必要な子どもたちを受け入れる教師を支援してきた。丁寧に一人ひとり医療的ケアの校内実施を、養護教諭を中心に内科校医としても作ってきた自負がある。最初は口腔内吸引、そして鼻腔栄養チューブ。20数年前のことである。気管切開、人工呼吸器稼働や胃ロウ形成術後はこの10年で急増した。
今回の法制化討論で高齢者は「不特定関係」下での医療行為=医療的ケアは介護福祉士等にゆだねられた。障害者支援をしてきた歴史からはパーソナル・アシストとしての特定関係以外考えられないことであったが、ALS患者や筋ジストロフィー症患者の介護職支援による自立生活の歴史を知るとともに、高齢者への、失礼ながら「雑駁な」支援の現状をしることができた。
時を同じくして、くすぶっていた尊厳死法制化の動きが顕在化してきた。小泉内閣時代に一気に法制化へ進むかと思われたが、その後の「生の尊厳」派の反撃で一旦鎮静化していた。ところが新臓器移植法が2010年に動き出して、医療から福祉への流し込みの市場化が企図されるなかでまた騒がしくなった。まさに「社会保障と税の一体改革」という名のもとに、民主党の選挙公約をすべて無にして君臨する素人政府と官僚の引いた路線が実行されようとしている。
「終末医療」と脳死
高齢者の「終末」医療の短縮と重症者・脳死に近い状態といわれる瀕死患者の治療放棄は医療費削減策の中心になる。この二つの流れが、重症心身障害児者の安心・安全・快適なマイペースの人生に大きな影となって押し寄せてきている。前者の二つを食い止めねば、少数派の重症児者は一気にその波に飲み込まれる。
医療的ケアが学校で模索され始めた1985年春の昼間に筆者の長男が自衛隊除隊直後の若者の運転にはねとばされた。親は息子の最後の声を聞くことはできなかった。6歳の息子は悔しい想いであったろう。警察に抗議するも運転手は控訴されず「不服なら裁判しろ」という警察の言葉。息子は意識ないまま3日間枕頭看護をした。そして親の勝手な想い・親の悲しさを癒す目的で呼吸器を止めて腎臓移植をした。その後ずっと亡くなった長男と二人三脚で脳死と移植を追いかけてきた。子どもの意見表明権の尊重と親の代理決定の間で我が気持ちは揺れ動いた。1996年から1年間カナダ・トロントに住んで北欧・北米を一人で歩いた。小児の救急医療や障害児者医療と福祉をこの目で、耳で確認して歩いた。帰国後には医学的研究英文レポートを書くことの「熱意」と「趣味」は放棄され、学生時代の社会医学思考に戻った。子どもにも、重い障害児者にも自己決定をまず尊重しなければならない、という原則にたどり着いた。
医療的ケア児、すなわち超重症児支援と子どもの脳死移植への考え方の視点が一致した。脳死・移植は日本小児科学会倫理委員会で、医療的ケア、超重症児支援は日本小児神経学会で、学術団体の一員としてこの二つの課題についてリーダーシップをとるようになっていた。そのベースは1980年〜90年代の100篇を超える医学的論文に支えられていた。学生時代に全障研サークルを指導してくれた下半身麻痺で車いす生活の薬学者故高野哲夫氏と高谷清氏の教えであった。高野氏は「医者になったらその分野で認められる医学的論文を英語で発表しろ、それからあとに社会的発言をしろ」と。蛇足であるが、同様の視点で多くの若者に語りかけたいと思い、これまでいくつかの大学教官にアプライしたが、結果はご覧の通り老いてしまった田舎医者でいる。
11月20日 介護保険法「改正」と障害者を含む医療的ケア一部法制化の関係
障害者関係で働くわれわれはあまりにも高齢者の介護保険を知らなさすぎた。今回の障害者を含む介護保険法の「改正」の目的はどこにあるのか。たしかに障害者関連では「医療的ケアの一部法制化」だけかもしれない。しかし、介護保険は「利用者本意」の「自立支援」という2000年直前の主テーマとはかけ離れたものになっていこうとしている。
今回、高齢者介護現場で肌に感じている変化と予想を聞く機会を得た。僕は団塊世代で、今度の介護保険「改正」のプランにはこの団塊世代が後期高齢者の75歳以上になる大多数の高齢者社会を想定している。現在ですら2000年開始から3倍の400万人という介護保険利用者数である。
話のなかで、2012年からの介護保険にはいくつかの問題点が指摘された。そのなかの一つが「医療的ケアの介護職一部法制化」である。発端は・・・と語られた「それはALSの方々がヘルパーに堂々と医療的ケア支援をしてほしい」という想いから始まった、と。
むしろこの言い方だと、高齢者の介護のなかに成人難病の課題が引きずりこまれ、困っている、という解釈になる。果たしてそうだろうか?うまく引用された感がある。
昨日のシンポでは一切語られなかったが、僕は高齢者の医療的ケアの主である胃ロウが大きな課題になっていると推察する。これまでは「違法性の阻却」論でも語られなかった介護職の経管栄養を介護職の「業」とするのである。医療行為の位置づけのまま。
高齢者の胃ロウはいくつかの問題を含んでいる。障害者との比較で簡単にまとめる。
? まず本人の了解という基本が取れたうえでの手技か。患者自身の想いか。
? 胃ロウ形成術が病院、老健、特養、在宅と変化するなかで容易に介護するための手段になっていないか。誤嚥性肺炎を防止するという「医学的目的」のもと。障害者の場合はあくまで安全・快適な長期的な生活支援でプロセスが異なる。
? PEG(内視鏡的胃ロウ形成術)は10分ほどで処置室にて完了する比較的容易な手術。これに医療保険が10万円近くつく。障害者の胃ロウは複雑でかつ一様でなく胃の位置がろっ骨下や後部へまわるため開腹になる。障害者の場合は小児外科などの専門家(全国でも限られている)の手による手術が必須。
? いまや60万人の高齢者胃ロウ(ほとんどPEGによる)で毎年10万人が増え続ける。僕ら団塊世代がPEG時代になると簡単に100万人を超えそうな勢いである。僕らの小児科学会のアンケート調査では経管栄養(鼻チューブを含む)は20歳未満7500人(7割が在宅)、成人障害者、難病、中途障害者をいれてもせいぜい3万人以下であろう。そしてほとんどが在宅である。
? 高齢者の日常生活支援は介護保険である。障害者は少なくとも65歳までは自立支援法である。前者は約30万・月の天井があるが、自立支援法は十分ではないが重症児の自立支援のための支援費用は介護保険を上回る。医療行為である胃ロウをもった高齢者60万人のいきどころがない。特養の待ちは42万人。
? これがいちばんおそろしい推測であるが、市場原理や「大震災で国に金がない」、TPPなど経費抑制策のなかで、高齢者への医療が「尊厳ある生と死」の一見美名のもとに、減衰していこうとする動きを僕は肌で感じる。発生源から減衰させるということは、病院での医療行為の「差し控え」が今後現実の討論としてでてくるであろう。高齢者の人工呼吸器はもとより、経管栄養すら「差し控える」医療である。高齢者においては、福祉トップといわれる北欧は、以前から北米同等か、それ以上に「わりきり」が早いデータがある。北欧に続け・・・
ということで、高齢者、介護保険の流れが障害者の支援の歴史を踏みつぶすのではないかという懸念を僕は感じる。本来の流れは逆のはずである。障害者の丁寧で安心・安楽な自立にむけた支援こそ、不十分であれ、高齢者の方にその哲学は引き継がれるべきであろう。もちろん高齢者自身の「生きざま」への想いにそって。一様に法制度や官僚、医療側が決めることとは違う。この辺の討論は完全に抜け落ちている。
「新」介護保険と障害者で関連する他の部分を拾い上げる。
? 保険者判断による予防給付と生活支援サービスの総合化:たとえ介護保険で認定されても今度からはじまる「総合事業」という新事業で要支援者が給付をうけられなくなる。
? 地域包括支援センターは市管轄で、すべて市にまかされ、不十分でも罰則はない。公民館やシルバー人材センター、無資格ヘルパー(ボランティア)など安価なもので対応しようとする。もとより「総合事業」の財源はない(わずか)。もう少し話を展開すると、都市部は高度経済成長時あつめられた僕ら団塊世代の集合体である。この団塊高齢者集団のなかに地域での互助・共助という文化があるであろうか。「分断化された世代と家族」のこの国の文化・幸せ度世界一の国王が語った「日本には大切な互助、共助文化がある」という主旨の内容からすれば逆方向への歩みであり、作りなおす討論の必要がある。田舎も同様であろう。
? ケアプランで一回訪問が短くなり(60分が45分)、ヘルパーが利用者によりそうプロであるはずが、洗濯や掃除を時間切り詰めての部分的な「掃除屋」でいいといわんばかりの短縮化になる。この大義名分はヘルパーが全然現場で足りないからだという。「時間減らせばたくさんまわれるでしょう?」。あるヘルパーステーションでは主力になるパートヘルパーの6割以上が60歳以上の高齢ヘルパーだと聞いた。都市部の話である。今後介護保険も「老老介護」の時代を迎えるであろう。若い人たちに魅力がない介護分野ではいずれ破たんする。そこへ海外から微笑みを絶やさない若い介護者がたくさんはいってくるのだろうか。それは誘導なのか、結果なのか?
? 医療的ケアとの関連での追加。いまケア・マネという職種が危機に陥っている。これが医療を取り込むケア・プランを立てるときに、これまでもそうであるように、福祉職出身者(80%)が病院や医者とより一層渡り合うことができなくなる。すなわち重いハンディをもつ高齢者ほど地域でのプランができにくくなり、結果施設入所依存が増える。
? つぎは厚労省老健局の目玉である24時間定期巡回・随時対応型サービスである。これは介護と看護が一体となって重度高齢者を地域で支えようという「画期的な2階建て方式」(厚労省老健局)である。この絵はおそらく今後障害者施策にも影響を及ぼすことは必至。
たくさんの問題点があるので指摘しきれないが、結論だけからいうと、各自治体は「使えない」絵に描いた餅と推測している。福祉が進んだ横浜市でも2012年度の24時間定期巡回予想が160件に対して、訪問介護が約4万件、訪問看護が約1万件という数字であり、2013年、2014年でも1000件に満たない推測である。データとしてもう一つ、最近の特養の調査で、単身の重度高齢者の生活で、1日あたりのサービスの提供は17~28回という結果に対して、この24時間モデルでは1日4~7回の訪問という設定になっている。なによりも「2階建て」が重症児施設のように福祉(介護)+医療(病院)という足し算ではなく、天井が決められた中での介護と看護の分け合いの意味である。施設入所並みのサービスすら受けられない。これではとても重度高齢者を地域でみることはできない。サービス付き高齢者住宅と介護保険の連携という絵がある。診療所・訪問看護ステーション・介護ステーション・デイケアセンターを中央にして住みなれた環境で定期巡回・随時対応サービスを24時間体制で受けることと描かれている。これは僕らも障害者地域支援で描いてきた絵である。絵に描かれたように必要な時に必要なだけの医療と介護の支援が質的・量的に保障されねばならない。しかし今回の介護保険案では絵に描いた餅になるであろう。
一番気になる検討会の方針は、2025年には地域包括ケアの役割分担として明記されているところにある。医師は在宅医療開始時の指導のみ,急変時の対応や指示、看取りはいま(おそらく現状はご存知でしょう)と同じ。ところが看護師が療養上の世話や診察の補助から、病状観察し看取りもできるようにする。もちろん25年には介護福祉士は以前の「准看護師」同様の行為を「業」とすることを前提にしている。市場原理で出来るだけ安価なところに依拠しようとする方向と見受ける。
まだまだ書きたいことがあるが、またの機会にします。すくなくとも大切なところは書きました。医療的ケアの一部法制化は、あくまで「介護保険」内の「改正」に基づいた変更であり、決して自立支援法や医療保険(底ではつながっていはいるが)発信ではない。特定関係下での医療的ケアとして老健局とは別に社会援護局障害福祉課内で討論されるようになったことは大きな前進ではあるが、所詮は3万人対60万人の世界。
今後4月までに(多くは12月末、介護保険は1月末に決定)障害者分野でさらに詳細な取り決めに意見を述べていくべきであり、できれば障害者だけでなく、高齢者をふくめた大きな視野で福祉と医療の真の,新しい連携を模索し続けることが必要である。
昨日の介護保険のシンポで「私が高齢者になったら早く死ぬこと(人に迷惑かけないでピンコロリと)」とつぶやいた介護のプロがいました。重い障害をもつ高齢者の肩身の狭さはますます増幅するのだろうか。高齢者と障害者は同じ目線、同じいのち。
9月11日 信州行・「神様のカルテ」松本平と安曇野
いまアフラックのCMで宮崎あおいちゃんと桜井翔君がなかよくピアノをひいています。
これは夏川草介の「神様のカルテ」(小学館文庫)のイメージ映像でしょう。映画はまだみていませんが、原作を読んだ限り、この本は今の医療へのいろいろなメッセージを放っています。その点でCMがながれるたびに「違和感」が生じます。雰囲気で思想を植え付けないでほしい。しかも医療・生命保険のCMではないか。なにかほかの意図を感じてしまうは団塊世代の過敏さ・過激さなのか。
信州の医療はこれまで故若月俊一氏の佐久総合病院と八ヶ岳をはさんだ諏訪中央病院の鎌田實氏のイメージがあり、この二つは微妙に異なる思想と思いますが、現代医療では無視できない流れです。どちらも時代は違えど東大の学生運動の流れをくんだ病院です。しかしこれらがジャパンワイドに広がっています。特に鎌田氏はいまNHKといっしょになって「いのち」の講演会を全国で展開し、当HPの移植のほうの書き込みにもありましたように、チェルノブイリとの関連して原発含めひとつのオピニオンリーダーでもあります。もちろん佐久病院にも複数の文学者医師がいると思いますが。
そして今度は信州の東側とは違って、松本平のど真ん中のA病院を中心にした物語が今度の「神様のカルテ」です。あくまで杉本個人の印象であり、捉え方ですが、この物語をかいた夏川草介氏(大阪から信州大学を経て医師になった30歳すぎか)の抒情的なフィクションの文学的価値はわかりませんが、現代医療へのいくつかのメッセージが込められています。ご本人がそれを強く意図して書いたのか、単に題材として用いたのかは不明ですが、いまその思想が独り歩きしています。その極端が先程のCM。
1)安曇さん(映画では加賀まり子、70歳すぎの設定)のガン末期の治療選択。大学病院で治療放棄され、A病院の主人公に看取られる。ただその病院は松本市内の救急病院のようで、少数の医師で多忙な夜間などの医療に奮闘している設定で、その市中病院でなにもしないで最後を暖かいスタッフの支援でむかえる。一つの「終末」のありかたを描いている。しかし、常に高機能病院(おそらくは信州大学病院を想定)との対比のなかで語られる。よく働く「優秀な」若手医師と理解ある看護師長、かわいい若手看護師さんらに支えられながら死をむかえるという設定。病院機能の点でもフィクション部分があるように聞く。
これ以外に選択はなかったのだろう。地域や在宅での看取りではなく、あくまで市中の病院(しかも24時間救急病院)での設定。どんな公的支援があり、その間安曇さんにどうかかわったのか。そこで安曇さんがどう選択したのか、ではなく、あくまで若手医師の手中で話が運んで行く。そこにはもちろん医師と患者の信頼関係も育つ。
話としてはいいが、物語のメッセージが「利用」されている感がある。特に先程指摘したアフラック医療保険とイメージを重ねてみると市場原理の思想がある。特別な医療なし、なにもしない安曇さんの生きざま・死の迎え方を肯定する選択を重ねている。保険と。そして、映画化もこの時期になぜ? という思いがふっきれない。
2)救急病院で必死に働く若くて優秀な医師、そしてかわいい彼女。これを肯定として反対に大学病院での医療をおく。いま医師研修制度で若手医師が一部の都市部の大病院に集中して、従来の大学医局制度もくずれかかり、研究者もすくなく、過疎地への赴任者も激減している。大学で働くことが患者目線を否定するかのような表現になっている。いまの医療制度の混乱はそのような対局像にはない。現に夏川草介氏もいま信州大学に戻っていると聞く。文学としてはいいとして、これを利用しようとする動きが気になって仕方がない。是非大学の経験などをもとにさらに次作を期待したい。医師としてはまだまだこれからやないか、といいたいのは加齢者のせいか。
3)補足1:台風時、安曇野に行きました。そこでの講演内容で上記のこと思いっきり指摘しました。安曇総合病院で、そこは厚生連系列(簡単にいえば農協のような連合体)で佐久総合病院と同じでした。管理職の医師、看護師さんとお話すると、1970年代前半の佐久病院の話がよみがえりました。どなたも佐久病院で働いた経験がありました。僕の医学生専門部の4年間は、毎夏佐久病院にいました。檸檬(レモン)というスナック名を再認識、各地から来ていた医学生と大討論をしました。若月先生と球磨焼酎をのんで吐きまくった話、お世話になった当時の外科部長I先生のお名前、討論した若手研究者のAさんなどの名前をきいて、懐かしいことばかりでした。倫理委員会の招きの講演でしたが、その委員長が精神科部長のかっこいい女性医師で、いま読んでいる「認知症と長寿社会」信濃毎日新聞取材班にも登場しています。90床の精神科病棟をもち、震災直後も副院長自ら宮城へ入ったという話、就労支援や震災時の入所施設の混乱などの話も勉強になりました。
4)補足2:安曇(もともとこの言葉が源流で、最近になって呼称が安曇「野」(あずみの)になったとのこと)はいろいろな記念館や博物館があります。そのなかにいわさきちひろ記念館があります。朝の講演前に立ち寄りました。その川べりに当日現地でおこなわれている「ツーディ・ウオーク」という催しの中間点らしきものがありました。ラベンダー畑をぶらぶらしながら、歩いてくる人たちをなんとなくみていました。みんなゼッケンのうしろに自分の(参加)テーマを記入していました。一番に到着した初老の男性の背中には「ぴんぴんころりできるように」という主旨が書かれていました。さすが長野です。千曲川沿いには姥捨て山があったり、この長野の地は歴史的にも高齢者を主として健康面でいろいろ話題がでてきます。個人的な意見としては「ぴんころり」運動はどうも受け入れにくい想いをもちます。寝たきりにならずにコロンと死ぬ、という意味ですね。長患いや寝たきり状態、今で言うなら「胃ロウして」ということを地域医療として否定的にとらえているように思います。運動としてやるのではなく、一人一人の生き方、生きざまの問題だと思います。「こうしなくてはいけない」ときめつけていくのはよくないと思います。
5)蛇足:いわさきちひろ館で孫へのお土産に「ちひろTシャツ」を買ってきました。よろこんでくれるかな、と思いました。いつもハイカラな服をきている女の子です。
数日後「寝るときにきているの」と。 そうか、時代はかわっている
2011年3月1日 「チームS計画の解散」 その1
掲示板に予告して少し愚痴を書こうかと思っていました。でもそこは老いたのでしょうか、自分勝手な姿勢をいろいろなところから指摘され、多少なりとも自重しようと思っています。このごろ自分の老いを弁解として頻用しています。よくないです。
そして、今回の一番の報告は、自分の生き方への姿勢と弁解です。
ここまで僕は考えていたのだが、環境要因(僕のせいでない)がそろわなかったので、ギブアップする、という弁解がましい内容になります。この半年間でも色々なところで講演さしてもらいました。鳥取から北海道まで。そして夜の懇親会(あまりこういう集まりで飲んだり食べたりは好きでないのですが、僕を招待しての集まりということであれば欠席できません)にも出席しいろいろな話をしました。そのメインは、チームS計画です。Sは篠山であったり、杉本であったり・・・の意味ですが、その内容については、2月20日に篠山市長選挙投票日があり酒井市長が無投票のような格好で再選されました。それまでは、はっきりとかきにくいところがありましたので延期していました。
チームSはコーディネータの医学博士、重症児者対応できる看護師二名の4人で組んだチーム(ここは実名だせない企業秘密)で、兵庫医大篠山病院に寄付講座を作ってもらうことでした。もちろん僕が責任者になります。少し前に熊本大学医学部で障害児に関する寄付講座が国単独事業費で開始されました。狙いは少しちがったのですが、同じ重症心身障害児者研究の講座です。今回のわれわれのは医療的ケア研究講座で、1)医療的ケア対応型医療施設のショートスティ:京阪神地域から田舎の篠山市まで1時間の距離です。ショートスティがなぜ難しいか、ショーとの間にわれわれチームが責任持って看護や介護の研修も行おうとするものです。大学病院でショートを受け持ち、その問題点も研究しようというものでした。2)このショートで都市部から田舎篠山への流れを作って、篠山市長が唱える「ふるさと(篠山)へ帰る,住もう」という掛け声でなく、都市部と田舎の機能分担(風光明美なのんびりした地域で当事者や家族がレスパイトする意味もこめ、そして篠山にいつくことも考える)でもありました。都市と田舎の循環型スティ構想です。3)全国から医療的ケアについての研修を常時受け入れて、全国の医療的ケア支援のレベルアップアップを図ることもありました。4)上記は3年計画で、4年目からは篠山地区にケアホームやショートの単独型多機能施設を作ることでした。現在のすぎもとボーン・クリニークの横の土地を考えていました。予算としてはできれば一部を有床診療所にして入院もできるものとも構想していました。5〜6000万は最低必要かと見積もっていました。
とにかく診療所横の事業展開の前に全国区で、しかも大学病院の研究としてアドバルーンをあげてから地域へ収束させていく計画でした。全国のモデルとしての展開をしたかったのです。年間2000万円位で3年間、どこかだしてくれないか?兵庫県、抗てんかん薬の会社、そして兵庫医大理事長へお願いしました。
結果として、兵庫県は23年度予算でショートスティ関連施設建設のための1年内の2000万予算を出してくださいました。われわれが申請すれば可能性がある予算でしたが、次のイメージ図にある通り、シークエンスの最後、3〜4年後の建設費をいただいても、事業倒れになること間違いないし、現在でも診療所の借金が3700万あるので、とても自前で、いまつくることはできません。2月上旬に頂いた兵庫医大理事長先生のお手紙では、西宮の小児科教授やささやま医療センター院長と相談したが財政も苦しいので、今回は「お断り」ということでした。ここでチームSは解散です。シークエンスの出だしが不可能ならしかたがないです。
「故郷へ帰る、そして住む」人口45000人で減少中、年間300人弱の出生数。この篠山市だけで完結する事業ではありません。ちなみ平成21年度篠山市支出では兵庫医大建築関係16億7000円で、医師対策費が゙9000万円と篠山市250億円の歳出の1割近くを占める兵庫医大ささやま医療センターの存続は酒井篠山市長の中心の仕事でしたし、今回の「マニフェスト」の中心でした。これからこの地域で兵庫医大がどう生き残っていくのか?今でもどれくらいの赤字を蓄積しているのか?僕たちのチームSは赤字を生むような提案はしていませんでした。兵庫医大がこの丹波篠山という「特異的」な文化が育つなかで、どう生き残るのか、心配をしています。
僕らのチームSは撤退します。現診療所をどうするか?はゆっくり、次の仕掛けを考えます。
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6月29日 いろいろ切れています。3つの話題。約5000字あります。
もう半年も不定期日記ご無沙汰しています。なにも書く題材がない、のではなくて書くにはそれ相当の覚悟をして書いてきたので、その覚悟がなくなったということなのかもしれません。いつも弁解から始まります。しかし、最近はまた若さ取り戻し「やる気」「書く気」が出てきています。6月締めの3つの原稿依頼を書き上げて、気持ちがさっぱりしています。ここでで一気に書き進めます。
その一「守る会」の守っていくもの・私論
6月27日の重症児を守る会が岡山であり、その会場でも複数の方に「日記更新」を指摘されました。その「守る会」からはじめましょう。なぜ杉本を呼ぶのか?という話があったと聞きます。特に関東方面では「得体のしれないつっこみ初老の男」だったのかもしれません。でも関西地方では少なくとも親や当事者の目線にたてる医者との評価を頂いているようです。どこかの大学の教授であればそれだけで「信用」?されるのかもしれませんが、「ボーン・クリニーク」って開業医で一体なにしているのや、という声もあったように聞こえました。厚労省や文科省という登録商標のある紳士に混じって、助言者として前に並んだ時、なんでこのような男がでてきたのか?という声や目線は不快というより心地よい刺激でした。僕は自分の信念を語るときは全然あがらないのです。全然違った切り口なのか?一部で最後まで理解できない方もあったようにも感じましたが、多くの出席者は重症児を守る会が当たり前に思ってきた医療と福祉の「二階建」支援が、在宅や重症児施設以外では福祉という「平屋」であり、病院も医療保険という「平屋」であることをあらためて認知しなおしてもらったことそのものが、守る会の歴史的成果であり、こらからも守るべきものであることを再確認してもらったと思います。すなわち、医療的ケアの必要な重症児(多くが超重症児者)は二階建支援があるから安全で快適な生活の支援ができるのでしょう。長期入所の人たちと同様の状態にある人に在宅で安全で快適な生活を保障しようとするなら、同様の支援、すなわち医療と福祉の両面が必要だという単純な理屈です。重症児施設の重症化だけでなく、福祉の「平屋」の療護施設、知的入所、そして高齢者の特養でも重症化が進み、医療からの支援も必要になっているのです。むしろ重症児施設で既得権として守り育ててきた重症児療育の中身を地域にも、他の福祉施設の重症化した人にも広げていくという単純な理屈がでてきます。この理屈にはなにも異論はないでしょう。これらのことは重症児入所施設びわこ学園4年で学習したことです。おそらく病院勤めの医師や「平屋」構造の福祉施設で働く人たちには知識としてなかったことかもしれません。
個人的には「守る会」はこれまでの成果を守るのではなく、むしろ地域や医療(病院)に拡大していくことを運動とすべきかと、勝手に思っています。病院の中に福祉職を、地域の通園には医療職のしっかりしたバックアップを、福祉だけで運営している施設や短期入所に医療側(医療保険)からの支援をしていく運動が必要と思います。
その二「脳死=死」ではなくて「終末医療?」どこまでケアするか
「終末医療」論議ですが、7月から新臓器移植法が始まります。子どもの臓器を両親の許可で取り出せます。但し脳死=死は、法定脳死判定後、移植をする場合にのみ「死」となります。臨床的脳死診断や一般的脳死診断で医者が「脳死=死」として治療放棄はできません。この討論のなかで、ALSや重症児者の治療をどこまで治療側がするのか?という討論がささやきから大きな声にかわって怒鳴られてきています。つまりノーリターンとほぼわかる場合、治療をやめたり、減衰していく考え方です。人は自己決定で死の選択といっても、意識がなくなったり、意思表示の手段をもちえない状況になったっとき、元気だったときの言動が変わらない保障はなにもありません。意思表示できない人はある国では差別を受けます。まわりの医療関係者が患者をみて「これ以上意味がない治療」と決めつけるのは絶対に間違いです。法的に脳死=死でもありません。上記のように限定的なものです。しかしメディアはいまなお「脳死=死」と決まったといって、7月をまえに僕と所にも取材がきます。テレビや新聞社です。「もっと勉強しろ」といってすべて断っています。
スギケンのHP掲示板のびわこ学園の公開講座の「選択医療」の討論もその一つです。重症児施設が地域にひらかれていないためか、重い障害の人が朝おきてパジャマ着替えて活動して夜定刻に寝るという快適な生活を送っていることはあまり知られていません。人工呼吸器などが稼働している部屋に見学者を案内したとき、みんな驚きます。ゆったりとした時間が流れ、温和な顔つきをし、支援者との信頼関係の中で吸引などを受けている姿には苦痛という文字はありません。「どうしてこのような状態の人がこんなにたくさん生活できるのか?しかもかなり加齢して」という疑問からはじまるのです。まだ充分な調査ができていませんが、高度の医療的ケアでの生存率の統計を是非とりたいと思っています。北米のアメリカやカナダと北欧のデンマークやスウェーデンとの比較です。きっとはっきりした有意差で日本は長生きしている事実が浮かび上がると思います。今の僕の疑問は北欧と北米で有意さがでるか?ここが一番興味あります。想像するに「ない」のではないかと推測しています。なぜでしょうか? この辺を現地含めてしっかり研究したいと思っています。余談ですが、そのために各地の日本の大学に就職活動をしています。まだ誰も呼んでくれませんが。
ここには日本での脳死論争が世界各国とは違った時間をかけてやってきた文化があるし、なによりも重症児を守る会をはじめとする1960年代からの前記「二階建て」によるいのちの保障文化がこの日本にはあります。この二階建て構造は北欧や北米にはありません。わが国独自に生み出し育ててきた歴史であり文化なのです。僕は施設を守れとはいっていません。施設も大切な「いのちの尊厳をまもる」砦なのです。施設から「命の選択」なんてことばを発することは危険極まりない思想で、いのちの「仕分け」ではないですか。この討論はこのご時世絶対に外向いて施設側から発する言葉ではないのです。これまで育んできた重度の人達の支援のノウハウを地域の利用してもらい、施設側も地域にケアホーム等作って、行き来する時代なのです。しかも児童福祉法にとらわれなくて、重い障害はどの年齢でも、どの疾患でも同じです。要は「楽しく安全に生きる」にはどうするか、が権利保障の大前提になります。しかも自分の好きなところで、生活したいところで、固定的ではなく、僕らが住み処を年齢や体調やこころの状態によってかえるように、できるかぎり自由に「選択」(ここで選択という文字を使います)するのです。パーソナルアシスタントもそうです。地域でも入所でも安心してケアや支援を任せられる当事者意見が権利として保障されねばなりません。相性の悪い人に支援してもらうほど気分の悪いことはないでしょう。健常ではっきりものいう人だったら、「あんた明日からこんといて」といえますが、重い障害を持つ人や家族はわが国の状況ではとてもそうはいえません。この点では北欧は優れています。
この項の最後に、25年後61歳になり、息子の臓器提供を勝手に決めた父親の気持ちですが、「勝手な親の想いだけの臓器のとりだしは間違っていました」が結論です。なんとかこの重い想いを脱ぎ捨てて新たな残りの人生を歩みたいという気持ちもこれも親の身勝手でしょうね。でも弁解ですが、医者が勝手に脳死と決めて、勝手に薬や点滴を減らしていく様は患者家族としていまでも許せない仕業と憎んでいます。まさかそんなことをするわけがない、と思っていました。25年前は。治療・ケアが、心臓がとまるしかないところへ追い込んでいったのです。「何でそんな勝手なことできるのや、いいかげんな診断のくせに、なら移植や!」という親としてあらためて息子の死に様は親がイニシアティブをとるという気持ちもありました。今からおもえば思考に飛躍があります。殆ど寝ないベッドサイドで考えた稚拙な親の判断でした。
勝手に医療側が死に方を押しつけてはいけません。そんな専権的事項は医師にも病院にもありません。
その三 母校の子ども落下事故への私見
ここ数日熊発見のファクスが回ってきます。裏の畑は数日前に至る所にイノシシがほった穴に水がたまっています。昨夜も帰宅した軽自動車の前にバンビがたちはだかり、ライトのパッシングをしてもなかなか動きません。今朝は4時頃から屋根裏でカリカリと天井をかきむしる動物が出現、すごいところです。ちょうど鳩山首相辞任と重なってご存じない方もおられるかもしれません。6月2日夕方わが母校篠山市立古市小学校の図書室から小学校一年生のかわいい後輩が落下し亡くなりました。「学校安全管理」「預かり中」の事故と最新の篠山市報には述べられています。
「違うやろ」といいたい。学級懇談とは学校行事でしょう。地元紙によると20分の大人みまもりの空白があったという。このことは討論にもならない次元の低さ。それ以上になんで小学一年生を三階にあげるのや、ということ。高い所にあがることの危険性がどれだけ認知できる年齢なのか。根本的に間違っていると思う。窓側に本箱があったり、窓があいていたり、そこにカーテンがしめられていた?などということは論外として、教育の一部ではないか。しかも発達的にみてもなんで3階なの?一時にしても。事件後3日に校長会、4日に教育委員会安全点検をしたという形はいいとして、地元紙によると、4日の夜に新任の教諭歓迎会が市内で行われ、それが組合主催だったとのこと。通常組合というのは自分たちの権利擁護だけでなく子どもたちの教育的視点なくしてなりたつのだろうか?
どうして宴会が中止できなかったのか。当事者の学校のみ必死で討論するなか、「うちでなかってよかったね」ではないと思うにしても、宴会はないやろう。母校の出来事だけに、そして別の市内小学校や養護学校の校医や園医であるために、それこそ個人的発言は控えねばとも思うが、あまりにも愚作だし反省の弁も視点がおかしい。教育長はかねてから障害教育畑育ちで就学指導委員会委員長としても僕のきつーい発言にもきっちり答えられ人として尊敬していました。事なかれ主義がまかりとおる中で起こったアクシデントにどう対応するかで実力もおしはかれよう。校長のおわびとしても「預かり中」であり「安全管理・指導」に問題があった、と書かれている。ちがうやろ。もっともっとこどもたちのいのちをまもることが一番根っこやろ。その視点はどうやねん。
まもなく一ヶ月になるが、教育委員会としての校医、園医への説明文章や会議すらもたれることはない。学校保健の点でもいのちを奪う事故がおこっているのだから、当然関係者を集め意見を聞き説明もすべきではないか。母校は一学年1学級で全校生徒数も100人程度の少数教育。そのなかでいのちをまもれなかったことは、まだまだ討論をひろげていかないといけないと思っている。
この地域なにかと注目をあびる。平成の大合併の最初の篠山市、行政関係ならみんな見学にきたとおっしゃる。そのとき作った「つくりもの」が今の市財政を圧迫している。最新の話題は昨日から高速道路無料化実験のその中心場所となる。京都へ出るにも無料、大阪にむかうにも途中まで無料、日本海舞鶴まで40分無料高速道路の位置にあります。
いろいろな講演に出向くたびに聞かれます。
「しのやまし」はどのへんですか?「なんでそこに貴方は住んでいるのですか」?
いやいや先祖の墓の「改築」を墓守として達成するまで、そして「親孝行」(うそやろう)でよりそい、見送るまで・・・とはいえませんね。
12月6日 さあ、書くぞ
3か月ぶりの日記書き込みです。何を書くかは、頭に浮かんできたことをただただうちこむだけで、何を書くかは、自分でもわかりません。いつもの芋焼酎のお湯割りをコップ一杯飲んでますから、頭の回転はスムースです。このごろ少し体調がいいのです。なぜか?なぜでしょうか?胃ガンで切り取った残胃にピロリがいっぱいいました。これを田舎に帰ってきてから仲良くしてもらっているダイナミクス(電子カルテ)の先輩で、医師友達と相談し、胃ガン後定期検査してからクスリで撃退しました。なんと食欲がでてきたのです。それと友人から薦められたグルコサミンだとか、カルシウムとか、CoQ10(これは昔ミトコンドリア病の子どもたちに使ったお薬です)とかのサプリをのんでいるからでしょうか。たぶん両方だとおもいます。もつべきものは友達ですね。おもしろいもので、パワーが出てきたのです。これまで「老い」を弁解にし、周りの年寄り扱いに一種の快感ももちながらよりかかっていた所があります。ところが最近は違います。還暦から年齢が折り返し以上の若返りで、40歳台のおわりにカナダに渡った時のような気分で、新しいことを始めたいという気分になっています。
さて、一昨夜大阪での講演の時から始めますか。このごろの講演ははじめに作ったスライド構成とはまったく異なった内容になってしまいます。また、一昨夜は、質問時間でも質問者の意図にうまくはまって、いわなくてもいいことまで、いいっぱなしになってしまい、帰途は深く反省しながらとぼとぼとふらふらと最寄り駅へ向かいました。話の流れです。違う方向へ内容が向いていきます。いつもの鞄をゴロゴロひっぱり、「今日の話はだめだったな〜」と暗くなった歩道を歩いていました。すると突然、自転車がキューブレーキです。いまにも吹っ飛ばされそうになりました。しかもその運転手は僕をにらめつけるのです。「じじー、なにしてるんや」みたいな顔です。まともにあたっていたらいのちも危なかったかも、ちょうど病院のまででしたが。そして驚いたことに、その顔は若いかわいい女の子(20代前半か?)ではないですか。おっさんや中高年の女性ならけんかうっていたでしょうが、女の子でした。黙って「ごめん」、なんで僕があやまるねん。
講演の話でした。90分で30枚ほどのスライドとしても、最初の数枚で約一時間を費やしました。このごろのパターンです。一昨夜の話題は民主党です。厚労省です。長妻さんです。木曜日のNHK夜7時(僕は田舎へ帰ってからちゃんとNHKの受信料払っています)のニュースでした。いつものメインキャスターで、たった一度のお知り合いのキャスター(例の脳死ディベートの司会でした)がでていました。彼は録画中べらんめいちょうのイケメンと思っていましたが、ディベート終わってから丁寧なお手紙をちょうだいしました。これでいっぺんにファンになりました。また横道ですね。 その長妻さんが東京女子医大のNICUに入っていました。話をしている相手は火曜日に激論した一人の教授でした。厚労省のNICU後を地域でどう受け止めるか、という研究班でのことでした。関東圏の新生児関係の教授二人(ところがテレビに映っていた教授は会議中の携帯呼び出しで中座、あ〜これやったんや)を相手の激論でした。その激論の中身は研究班の方針に背く形になりますから、ここに明記できませんが、要するにNICU卒業後の重症児の親レスパイトのバックアップを医療でやるのか、福祉でやるのか、その両方でやるのか、という激論でした。僕はこの年になって、田舎に引っ込んでいるのを大いに悔いることになりました。関東圏のどこかの教育職にいたら、正面切って自分の意見も国会た霞ヶ関にむけって吠えることができたのに・・・。
そんな情緒的な面を話しすると、話している方も、たぶん聞いている方もおもしろいのでしょう。どんどんエスカレートします。長妻さんが動くまでにどんな人がどんな動きをしたか、など憶測を話すのです。駄目ですね。でもさほど事実とは違っていないと思っています。
余分な話はいっぱいしました。でも感動したことがあります。そこは大阪でも重症者が通う通所施設でした。そこのナースがびわこ学園野洲に同じ時に「入社」したナースでした。施設長曰く、「本当によく働いてくださる、得難い看護師」と。なんかとてもうれしくなりました。重症児者の通う通所施設での看護師の働きは大変難しいのです。
もう一つ、書いてもいいでしょう、おかあさん。いまはマンションの「ケアホーム」で自活している28歳になる脳性麻痺のおにいさんが、新生児期のそれこそNICUでしょうか、僕が診察していたのです。そして、お母さんから聞くまでまったく覚えていませんでしたが、入院したとき僕は「大丈夫ですよ」といったそうです。そして退院のときでしょうか、「おかあさん、ごめんなさい。脳障害がのこりました。僕の初期の診断は違っていました。ごめんなさい」と頭を下げたというのです。それを一昨日に生き生きとして息子の自活(ヘルプに支えられながら)を話して下さいました。驚きました。昔からあんまり変わってないな、とここでまた猛省しました。と同時に僕が重症児者の地域支援の分野に足を踏み入れてなかったら、こんな話はきけていなかったでしょうから、ちょっとうれしくなりました。
でも講演の質問では、重症児入所施設の経営状態や施設の評価などに赤裸々につっこんだ質問でした。もうよしましょう。これからはもっと高潔な会話をするようにこころがけよう、と決意しています(いつもそう思ってはじめるのですが)。
ここまで一気に書きました。ちょっと田舎の悪口を書きます。篠山の市街はいま観光客がいっぱいです。黒豆の時期ほどではないですが、土曜、日曜になると近畿圏からどっと?お客がきます。先日、土曜昼間に客として市街のそばやに友人とはいりました。そこへ車椅子の方と支援者(家族かもしれない)4人が入ってきました。まずはじめの会話が少し聞こえました。駐車場の場所です。店の駐車場が別にあるそうですが、その一人がこういいました。「車椅子マーク」だからいいやん、おいとこ。いいのですよ。それでいいのですが、店の人が反対側に「うちの駐車場がありますから」といったにもかかわらず、別の店の前にドーンとおきました。それはいいでしょう、つぎに。ちいさなそばやです。席は車椅子がは入りやすい位置にいたお客さんがさっと譲りました。そこまではまあいい風景でした。そこに座るなり、支援してきたかわいい若い女性二人がたばこを吸い出しました。こっちはいい気分でそば食べています。そこに紫煙がもうもうとくるではありませんか。車椅子の人を支援し、観光にくるのはすごくいいことなのですが、普通のマナーを守ってくださいよ。よほど怒鳴ってやろうかと思いました。いっしょに食べている友人も障害児者支援に関係するひとでしたが、目つきが怒っていてその紫煙にむかっていました。ここで車椅子の人をかこんだ集団を糾弾しても、けんかになり、店に迷惑かけるだろうと思いました。ぐっとこらえて、そそくさと店をでました。これが診療所をかまえる篠山の市街でなければ、たぶん怒鳴りつけていたでしょう。「普通に暮らす、ハンディをハンディとならないようにする社会」はそれと違うやろう。共感する社会をぶちこわすようなことを障害支援者側にいるものからそるなよ。そういえば、福祉関係のひとたちはストレスが多いのでしょうか、酒を飲むとかならず、その場でたばこを吸い始めます。ぼくはこれが大嫌いです。だから昔から歓送迎会など一切でたくないのです。そばやさん、味を売りにするなら、大きな字で「禁煙をおねがいします」と書いてください。
話はかわりますが、篠山の京都側に園部という地域があります。いわずと知れた野中広務氏の出身地です。その野中氏はいまは田舎へかえって福祉法人の理事長だそうですが、彼の生い立ちをかいた本を読みました。未解放部落出身で府会から副知事、自民党幹部への道はともかくとして、3人のこどもさんのうち二人を子どもの時に亡くされています。その長男の死の場面がありました。意識がなくなって、近くの開業医?病院医師?が、「もういいですか」「楽にしてあげましょうか」に対して「うわー、助からないですか」「じゃーおねがいします」とあまりわけわからずも、そのときのながれとして、おやとしてそう言ってしまった。医者は注射をうった、すると死んだ。今から思えば・・・、と。だから臓器移植法案には棄権した、と。今回のA案発起人の一人でもあったのですが、採決数日前から夢にその長男が毎夜でてくる。たとえ脳死といえでもいのちをたってもいいものか。70歳を越えても自分の体験を大切にして最終的に棄権したことを評価するとともに、親としての心情もよくわかりました。思想的には僕の対局にいると思っていた人ですが、なんか時として興味深い発言があった人でした。この本を読んで人生の原体験はず〜と心情として生き続けることを知り共感しました。
いま、脳死掲示板では某有名救命部長との激論で燃え上がっています。医者としてこれまでの体験として、救命部長の発想筋道は一定理解できるのです。医学医療の不確実性を医師の「専門性」にゆだねていいのか?40年以上前に野中氏はわが子への医師の注射で死んだのでは、なぜもっと親としてがんばれなかったのか(とは書いていませんが)。たぶんこの気持ちを持ち続けていきていかれるのでしょう。でも注射した医師はたぶんなにも覚えていないでしょう。
またまだ書きたいことがありました。内藤対亀田のこと、多くの中年が自分の姿を内藤にはめこんで応援したのではないでしょうか。亀田のすごさや石川りょうくんのすごさはたぶん本物なのでしょう。こつこつと努力してつみあげてきた一つの道も本物にかかっては、こっぱみじんですね。でも決してみじめではない、それでいいのだ、と少し思える年齢になったようです。
9月9日 ご無沙汰しています
約半年ぶりの記載になります。
第一疑問として、なぜ不定期日記が書けなくなったのか?
自分の生活パターンの変化なのか、田舎にひっこんで書くエネルギーがなくなったのか?
日記として書く内容がないからか・書きたいと思うほどの出来事がないからか?社会的な接点が無くなった・異なった?ただ、年をとっただけなのか?・・・よく分析できません。
いま夜間診察の時間帯です。午後5時に一人診察し、その直後から打ちこみはじめています。
外は秋風でさわやかです。隣の小学校運動場では朝から運動会の練習で先生のマイクの声が響き渡っていました。子どもたちが運動場いっぱいになって踊りの練習です。走り回るたびに診療所の方へ「黄砂」が団体で流れてきます。おかげで駐車場の車の屋根は真っ白です。ここ数日雨が降っていないですね。
雨といえば、近くの佐用町の大雨は悲劇でした。なんともいいようのない悲しさを感じる出来事でした。これが「温暖化」による自然の変化と思うと、なぜ不公平な仕打ちなのか。わが住み処も裏の谷川が溢れ、雨の降る中必死に土嚢を積み上げました。いま谷川の奥に砂防ダムが建設中と以前に書きましたが、現在大木が伐採されて斜面が裸になっています。そこを泥水が流れます。むかしはせせらぎでした。ですから大雨が去ったあとも今度は台風がくるだろうから、その土嚢を「村道」にはみ出して積み上げていました。それは「村」へのアッピールもこめていました。ところが数日後その土嚢はきれいにかたづけられていました。「誰やねん、勝手なことをして、こっちは雨のなか必死で積んだんだぞ」、かたずけた謎の人へむかって大きな声で独り言「今度来る大雨の夜、とんできて土嚢をつんでくれるのか」と叫んでしまいました。老いた両親はその谷川の石組みの上の壁一枚のところ、しかも谷川の底と同じ高さに寝ています。数日後犯人がわかりました。わが親族でした。「村に迷惑になるから」らしいです。だれも殆ど通らない道です。この冬には山奥に似つかわしくない大きな砂防ダムができるのですからそれまでそのままでもいいのに。
鹿の話、その後です。いま出没する鹿は5匹確認されています。裏庭を荒らされて困るので長いネットを買い込み、必死で杭をうち庭を囲みました。真夏のことです。その後鹿は網のなかには入りませんでした。しかし、イノシシには無力でした。完全に突破されました。
裏庭の一角に池があります。そこには以前から天然記念物のモリアオガエルが生息しているようです。貴重な池であり、貴重なカエルなのですが、数週前から一羽のサギが入り込んでいるのに毎朝遭遇します。たぶんそのカエルをねらっての飛来なのでしょう。サギも生きるために必死なのでしょう。天然記念物を食べるなよ。不快きわまりないと思うのは人間の勝手なのでしょうか。
最近TSUTAYAのメンバーになり何本かの映画を借りました。そのなかで二本が気になりました。一本は「明日への記憶」渡辺謙が主演した若年性アルツハイマー病を経年的に描いたもので、もう一本が「感染列島」でした。
どちらも切実な想いになりました。前者ではもし自分が、(いまも該当する症状は多々ありますが)そうなったらどういう生き方をしたらいいのか。まわりの理解がないなかで支援する施設も不十分なこの国で残りの人生をどう生きるか、自分の問題です。90歳の母は「毎日食べられたらよい」といいますが。神戸市内から嫁いで65年間裏山にさえ登ったことのない人です。
発達障害をもつ子どもたちを診療する機会がどんどん増えています。その視点と同じことです。以前にも書いたと思いますが祖父から孫までの大家族が普通の田舎で、生まれてから中学卒業まではまったく同じ社会であり人間関係です。生き抜くのはしんどいでしょうね。地域で支える、共感するという文化が育つには何が必要なのでしょうか。昔からの「村」での「助け合い」「共同で作業をする」というのは、貧しさ故のなごりなのか、豊臣時代以来の隣組見張り制度のなごりなのか。「ささえあう」という視点が貧しいと感じるこのごろです。これは今後の大きな自分の宿題のような気がします。
同じような意味で最初の話題に戻りますが、いまは運動会練習の時期です。昔から「統一した力」をみせる場=運動会は苦痛だと思います。あの北朝鮮のマスゲーム、一糸乱れぬ同じ動きを「みんなで作り上げる」と称する運動会は子どもの時から僕も大嫌いでした。算数も国語もカットして、ぶち抜いた時間帯で学年を越えた一つの踊りや組み体操はどんな教育的効果を期待しているのでしょうか。もちろん連帯感や達成感も大事ですが。聞きたくなくても聞こえてくる隣の運動場からのマイクを通した叱責的な大声、気合いが入ってくると断言調の言辞になります。運動会が近づけばどんどんトーンアップします。間違って叱責されても意に介さない子どもばかりではありません。大声に耳をふさぎたい子どももいるでしょう。その場はなんとか抜けても家庭で爆発したり、不登校になる子どもたちがいても不思議ではありません。還暦の自分も、よくぞこのような修羅場を抜けてここまで生きてきたな、と思ってしまいます。ただ僕の場合、50m走やリレーは得意でした。いつも一番だし、リレーでは追い抜く快感を味わっていました。走るのは技術的なもの、学ぶものは必要ありませんでした。ただ前へ猛進するだけです。このように一芸に秀でていたから運動会もクリアしてきたのかもしれません。でも一芸がないときは不快以外なにものでもない二学期前半なのでしょう。
感染列島は昨年末に作られたものですが、新型インフルエンザ流行と関連して興味津々の内容でした。次々と感染して死んでいく。医者も看護師も。結局アジアの離れ小島のコウモリが感染源という設定でしたが、真夏に流行するブタ・インフルエンザも不思議なしろものです。感染力が強いといいながら、なぜか家族でもかからない人がいる。たしかに10代20代が感染の中心でも乳児だけがかかったりもする。沖縄の小児科医師が流行のはじめに早くかかっておこうと、マスクもなしでたくさんの子どもたちを診断治療してきたにもかかわらずいっこうに医師(中年)である自分はかからないとメイリングに書いていました。感染列島の主人公医師妻夫木聡は最後まで罹患しませんでした。よくわからない感染性です。政府の対応もよくわかりませんが、どうも印象として簡易テストが陰性になりやすく、呼吸器症状が一時悪化する(肺でウイルスが増えるという報道もありますが)理由などがあるようで、前線の医者としては緊張感があります。
感染源のコウモリといえば、田舎の正面玄関に数日前からコウモリが棲みついて、ぶらぶらぶら回転しながらぶら下がっています。10cm近い大きさです。それを92歳の父親がニコニコしながら毎日楽しく観察しています。
いま、夜の診察が終わりました。お客さんは二人でした。おかげで一気にここまで書き上げました。診療所は、月々の借金返済は別としてインフルエンザの影響でしょうか、トントン生活にはいっています。ただ当診療所ではインフルエンザ簡易テスト陽性者はごく稀な状況ですが、日々変な緊張が続きます。これからどんなことがおこるのでしょうか。政治もなにもかも見通せない日が続きます。
最後に、12月12日、13日の土曜、日曜に大阪市杉本町の大阪市大校舎で第5回NPO医療的ケアネット主催の非医療職対象の研修セミナーを行います。今回は300人規模にさせてもらいます。9月下旬から募集開始します。またこのHPで紹介します。よろしくご参加ください。
2009年1月31日 「アラ還」世代の開業8か月
田舎に帰ってもう1年、新規開業して8か月がすぎました。時の過ぎ去るのはなんと早いのでしょうか。一気に60歳を通り越しました。爺爺の世界ですね。
今読んでいる新聞や週刊誌は「神戸新聞」(90歳の父の愛読誌)「朝日新聞」(勧誘のオッちゃんが気に入った)、「アエラ」(最近は30〜40歳代の働く女性をターゲットにしている?)「丹波新聞」(篠山市、丹波市対象の地方紙ですが、地域の医療システムについて鋭い取材が続きます)、「日本醫亊新報」(唯一の新しい医療一般知識の吸収)です。時に「週刊新潮」(興味本位)を読みます。テレビは「相棒」「おみやさん」「必殺仕事人」「水戸黄門」などです。昔読んでいた「赤旗」、最近読者が増えていると聞きますが、もう長らくよんでいません。
いたって普通のじいさん(孫はまだ一人ですが)で、団塊世代のじじー化したこむづかしい男です。
胃を切ってから、いまだに食べ過ぎるとダンピング症候群がおこって、食後に冷や汗の30分があります。そのため、食への怖さがあり、美味しいものを食べたい、というより、なんとかやりすごそうとする姿勢が食にあります。丹波篠山にはそれなりに「おいしいところ」があるそうですが、診療所でたべるか、○○食堂(チェーン点)という飯やか、マクド、うどんやさんなどですまします。ときに焼き肉屋さんへいきます。ここがおいしい。でもあとがしんどい。
いくつか篠山での経験を書きます。どうしても快適でなく不快なことが書きたくなる性格なので、悪いところばかりではないのですが、篠山を愛する人が読めばきっと不快になりますので、そのことお許しください。文化の違いの一端と理解してください。
毎朝、40年前同様に深い丹波霧がでます。診療所近辺は視界100mくらいでしょうか。
上から太陽光が差せば、地上近辺はまさに雲海の幻想世界です。
クレマー医師、モンスター医師を自認していますが、篠山市当局に対しても、いくつか苦情を入れました。「わが診療所が半年もたつのに、市の公式HPに認知されていない」「公的な予防接種可能医院紹介に我が診療所が各通知に掲載されたのはいいのですが、なんと電話番号がファクス番号で掲載されていた(診察にきたお母さんに指摘されてわかりました)」まだまだありますが・・・。篠山現地の農産物の売り場として気に入っているのが昔でいうJA(農協)マーケットです。黒豆や山芋など買うのにも重宝しますが、ここの職員がひどい。京阪神の店では考えられない口の利き方や対応です。もちろん一部の女性ですが。これが私的な店なら即刻首でしょう。学生時代に卒業旅行ででかけたソビエト時代のシベリア・ハバロフスクの百貨店の店員の対応を思い出しました。「ここはソビエトか?」と思いました。
まだまだあります。田舎の実家の裏山に砂防ダムが造られます。このごろ大雨になると実家裏の谷川(通常は水は涸れています)が溢れて、実家へ大量の水と砂が流れ込みます。この10年来の出来事です。昔はきれいな水がちょろちょろながれ、一時は魚やさわ蟹がすんでいて、こどもの恰好の遊び場でした。山が荒れて、雨がふると水がドカッと流れ出し、山中の谷川の形すらかえてしまいました。それが我が実家にながれこみ、さらに村の川にも大量の砂が流れ込むのです。そのダムを造る村の会議に90歳父親の代理ででました。昔あそんだであろう子どもたちが、みんなおっさんではなく、一気に爺爺になっています。白髪か髪がなくなっているかで、まさに浦島太郎に近い状態で、誰がだれだかほとんど不明。この詳細は省くとして、夜間の約3時間にわたる県土木の説明会が終了したときのことです。出席した村人が一人たばこを吸い始めました。すると説明に来ていた県職員の一部が同様にむんむんとする新築の寄り合い所の部屋でたばこを吸い始めました。これは一体なんなんだ。まだ一部の人を対象に説明が続いているのに、用がなくなったであろう職員がスパスパ煙を出している。いつも慣れた場なら、大声で「あんたら何考えているのや!」と大声で叫ぶのですが、なにせ40年ぶりにやってきた村の集会所でのこと。あー、これも文化か?取り残された未開地か?いやに寂しくなりました。
山の話ですが、別稿で雄鹿が裏庭に出没することを書きました。裏の畑の木の新芽はもちろんのこと、通常なら臭いを嫌がるはずのネギまで根こそぎ食べ尽くします。夜中に車をおりると、動物園の臭いもします。こんなにおいはここではあり得なかったものです。
秋にはいつもまったけ山があり、数日おきに自分のもち山に登るのですが、今年は例年以上に山中の下草がまったく生えていないのです。そのために山中でかがむと遠くまで見通せるのです。こんな経験もこれまでありませんでした。昔は人的に下草や枝はらいをしたものです。しかしこの状況は別の二つの原因があります。一つは大雨です。熱帯雨林のごとくものすごい勢いで斜面を水が流れますので、小さな木や草はすべて流されます。もう一つは鹿です。食べ尽くすのです。それ故、山に降った雨は一気に谷川へ流れ込み、人家のある里までそのまま流れ出すのです。まったけは不作で今年は一本もでませんでした。
なんとか還暦以降の新しい生活に慣れようと努力していますが、掲示板にも書きましたとおり、「動物」にリズムを乱されています。
最後に、もうすでにお読みいただいていると思いますが、ブックレット「重症児者の地域で安全・快適な生活保障を」(通称、ハートマークの赤本)は、びわこ学園のリーダーの著述をもとに、重い障害を持つ人たちの地域での生活保障をするには、何が足らないかを具体的に、かつわかりやすく書いたつもりです。このHPの表紙にも全文をPDFを貼り付けています。ご一読ください。発行日を自分勝手に還暦日にしました。アラ還のこだわりの一つです。しかも赤いバックにでかいハートです。気に入っています。お金は厚労省子ども家庭研究の研究費で作り、全国関係機関にも配布しました。
この赤本が少しでも前向きな施策作りに役立てばうれしいです。
開業4か月後の感想 9月15日敬老の日
敬老の日に89歳になる我が母がつぶやきました。
「小児科がたらん、たらん、というけど、あんたの診療所に患者さんこないというのは、おかしいな?」と。すなわち、わがボーン・クリニークは小児科と小児神経内科で子ども専門診療所なのに、なんで毎日閑古鳥がないているのか?という疑問のようです。
この母親は、その母親(故人)が女医で、東京女子医専卒業で、吉岡弥生氏の直系の弟子だったそうで、昔は誇り高き医師でした。その母と同じく東京女子医大を卒業し、神戸の都会からこのド田舎へ嫁いできて、代々続いていた杉本医院を継承したのです。当時は戦時中で我が父は戦地へいって、杉本地盤は無医村状態だったそうです。のれない自転車を一生懸命練習し、往診鞄を後ろにくくりつけて、村々を走り回ったと言います。もっとも我が父が戦後に戻ってくると、僕が生まれて「英才教育」に必死になった?のかもしれませんが、父の配下になりました。それまでの数年が母にとって医師としての輝かしき時代だったのでしょう。医学校をでてまもなく開業医として赴任(結婚)したのですから、ろくな臨床教育もうけなかったのでしょう。ちなみに僕はその「教育」をすべて拒否し、遊び回りました。高校になるまで「絶対に医者などなるものか」と強く決意して、考古学者を目指していました。当時の開業医は、夜中に電話がかかったり、深夜に表門をどんどん叩かれることが多く、父はぶつぶつ言いながらも、断ることなくスクーター(のちに車)で往診に出かけていました。夜の診察は8時までにおわることはなく、われら子どもは、お手伝いさん(3人いました)の介助でほそぼそと晩飯を食べました。親といっしょに食事することは高校でるころまでほとんど記憶にありません。 「こんな生活の開業医なんか絶対なるものか、絶対に杉本医院は父の代で終わらせてやる」と決意していました。正直申し上げて、いまの勤務医が忙しいと言う程度と比較にならない忙しさでした。結果、税金の長者番付に名前がでて、今から振り返るとそれを誇りにしている「ふし」も伺えました。子ども心にそのことが理解できませんでした。当時の親父のテリトリー地域は広大でした。いまは同じ地域に医師が5,6人開業しています。それを当時は一人で(夫婦で)診ていたのですから、まあ立派だったと褒めてやるべきなのでしょう。
何故かしら?帰ってきて医者を継いでしまいました。そして4か月がすぎました。娘も一緒です。二人の小児科医が一つの診療所を開設したのですが・・・友人の都会の小児科開業医は「今年はここ5,6年で最低の患者数だ。感染症がない(いいことなのですが)。」と。 都会でそうなんだ、田舎はもっと少ないんだ。・・・変に納得しながらも、毎日診察室でパソコンをもちこみ、講演のパワーポイント作成やNPOや厚労省研究班の仕事をしています。夜の診察は、8時まであけておくと、患者さんにも便利と思いました。ところが4ヶ月間で7時以降にこられた患者さんはほんの数人でした。毎夜(月、水、金)ぼんやりしながら、もしかしたら患者さんがこられるかも?と、すこし緊張もありますので食事もとれません。
このままでは自分の体がつぶれる、いえいえ、それ以上に毎月赤字の連続で医業がこわれる寸前まできました。(さきほどから飲めないビールを押し込んで酔っぱらい状態で書いています)それでも自分で選んだ道です。誰の責任でもない、自分の見通しの甘さと、生き方の選択そのものの結果なのです。明日は火曜日です。診療所のスタッフは「所長のでかせぎ」と呼んでいます。その間、診療所は娘がやってくれます。僕は大阪・午前20人、京都・午後20人の計40人の神経外来です。診療所で一週間かけて診察する患者数です。
どうしてたくさんの患者さんが待っている地域で開業しなかったの? と友人はみんないいます。その理由はかつての不定期日記に書きました。でも見通しの甘さと計画の遅れは認めます。自分の力量不足を痛感する毎日です。この調子でいくとおそらく半年、いや一年は診療所から給料はもらえない状態がつづくでしょう。田舎の診療所がボランティア事業で、自分の食い口は、火曜の出稼ぎと、土曜か日曜の講演によるというけったいな日々です。今週は静岡での知的障害施設職員研修大会です。先週は掲示板に書きましたが、岐阜でのてんかんのレクチャーでした。
今日、こうして書いたのは、いましばらくこの田舎・古き文化にまみれて生き抜くすべを模索する覚悟を書いておかないと、冬までに夜逃げするかもしれない自分に「喝」をいれ、公にしめすことで縛りをかけようとしました。情けない話です。
でも、この4か月の患者さん(子どもと親と家族と学校と地域)との交流で、これまで経験したことのない勉強することがいっぱいありました。発達障害をもったこどもたちが午後の外来にやってきます。過疎化、少子化のなかで、篠山市の小学校は二クラスあるのは診療所の隣の小学校だけ。あとは数人から20人前後の一学年の学校ばかりです。そのクラスは生まれてからずーと、ずーとメンバーが変わりません。地域の布陣も不変です。そこに弱点をもつ子どもがいたら、集団は、学校は、地域は、そして家族は(多くが核家族ではない。祖父母が権力をもつ)どうすると思いますか?都会では想像できない展開もあります。同じようないじめのパターンもありますが。
4か月でいくつかの家族には診療所の存在が有意義だったと自負しています。そして、まだまだ役立つことはできそうです。ゆっくりと構えてこの「古き丹波」を見つめてみようという気になってきています。それでやっと不定期日記が書けました。
4月30日 診療所開設直前状況(お祝いはメール・メッセージのみで)
人生3度目の新職場がまもなくオープンします。60歳前のおっさんの苦闘の連続を書いても面白くないとお思いますが、とりあえず開設2週間前のオロオロ状況を報告します。
実は数ヶ月前からの50肩で左手が寝返りを打つだけで激痛が走り目が覚めます。引越しの腰痛はなんとかおさまっているのですが、この左手がどうしようもない痛みです。それに加え、今夜は下腹部に激痛です。どうやらこの間の食事がかたよったのでしょうか?それとも昨日マクドナルドなどをたべたためでしょうか、尿結石のようです。痛いですね。排尿すると痛みで飛び上がります。ということで深夜2時に目が開きましたので、ご無沙汰している不定期日記を書こうという気持ちになりました。
開業は当初考えていたよりずっと大変な作業の連続でした。お金の工面もありますが、なにからなにまで、すみずみまで自分でやらねばならないというしんどさでした。これまでの仕事はいろいろな人たちとの連携、支援があったからこそできたのだということを思い知りました。
今の最大の課題は電子カルテです。お安くあげるためにダイナミクスというたった30万円のソフト代金だけのシステムでした。あとは自分でやると設定まではこれまでの友人に作ってもらいました。うまく動きません。あと二週間しかない。困り果てています。というのも、僕自身がしっかり準備する時間なく、あっちの講演やこっちの学会出席などに走り回って、新診療所のパソコンをじっくりかわいがっていないためのせいなのです
なにせ「晴耕雨読」の診療をしたいと思って始めましたが、176号線わきに少し派手な小さなログハウスが建つと、にわかに周辺がざわざわしてきました。小児科と小児神経内科(これはこの4月改正で名乗れます)を標榜するということで、「期待」が高まり、その雰囲気を肌で感じるようになりました。困った困った、どうしよう。
大阪寝屋川市や京都八幡市、そしてびわこ学園野洲ではまだ診療しています。どうしましょう。週に2回は娘に手伝ってもらってなんとか診察表を作りました。
田舎へ40年ぶりに 「帰った 」のですから、親類縁者はなんとか支援しようとしてくれますが、みんな老いています。「なんか手伝うことないか?」と88歳の母から同じ言葉を何度も何度も弱弱しい言葉でなげかけられると、ついつい「なんもできんのに黙ってて」といっては、「いかん」と反省しています。そうだ僕は今年還暦だ。親子関係だけは高校時代となんにもかわりません。かわったのは田舎です。ものすごく便利になっています。なんでも車で5分以内のところでそろいます。おいしいケーキやお肉なども大都会に負けません。
新大阪駅まで特急でちょうど1時間です。高速道路混んでなければ、京都まで1時間です。このごろの夜はかえるが鳴きます。星空がたいへんきれいです。にもかかわらず診療所の前を通る通勤と思われる若い女性の恰好は心斎橋や三宮となんにもかわりません。そういえば三宮まで高速とトンネルで40分足らずです。大好きな神戸イケアにも1時間以内で店頭にたてます。いやー便利なところです、丹波篠山は。・・・というと篠山も広いからなーという返事が返ってきますが。
たぶん、こんな具合ですが、5月11日日曜日オープンハウスにして12日から診療を始められるでしょう。
さあここでお願いです。もしも 「お祝い 」をなどと考えてくださっているのでしたら、友人、業者関係すべてお断りしています。なにもお気遣いはいりませんので。もしくださるのでしたら、物ではなくて、Eメール、HPへの書き込み、手紙などでの支援、激励をいただけたら、なによりもうれしいです。なにとぞよろしくご理解のほどお願いします。
さあ、目標とする在宅医療まで進めるでしょうか?4月の小児科学会シンポでも小児の在宅医療の貧しさが浮かび上がるとともに、会場には前向きに考えようとする小児科医で埋まりました。
果たして、杉本は有言実行するだろうか?と思っている人は多いことでしょう。プレッシャーを背中に感じながらゆっくりスタートします。よろしくご支援のほどお願いします。
ボクの診察は月、水、金、土曜の午前(8時半受付 ・予約なし)と、月曜、金曜の午後1時半受付の神経予約外来(電話予約)、そして月、水、金の夜6時から8時の夜の診察(予約なし)です。火曜と木曜午前は娘・千尋が診察してくれます。(予防接種は火曜午後に予約で千尋がやります)診療所電話は079−506−3753、ファクスは079−506−3754、診療所メールはsugimotosbarnklinik@gaia.eonet.ne.jpです。個人メールはそのままです。診療所住所:〒669−2214 兵庫県篠山市味間新64番4
すぎもとボーン・クリニーク (小児科・小児神経内科)(ボーンはこども)
2月14日 最近、スギケンは何している?
ご無沙汰です。フリーター生活に入って1か月半が過ぎました。
人生二度目の「制約」のない「自由?」な日々です。
一度目は50歳を前にした1年間のトロント生活、二度目が今回です。もっとも胃がん手術後の二か月がありますが、このときは精神的には厳しいものがありましたが、びわこ学園の病気休職でした。
ということで、何を考えて日々暮らしているかを不定期日記に書こうにも、課題がいろいろで、頭がまとまらないのが正直な所です。自分の日々確認する課題メモには「不定期日記記載」が常にアップされていますが、毎日これが消されずに残っていきます。これがまたプレッシャーになります。思い切っていまこれから書くことにしました。何を書くか?不明ですが、思いつくままパソコンタッチを続けます。時間のない方はこの辺で読むのをおやめください。
トロント生活のはじめの2か月はきつかった。「定年後生活」の先駆けを体験しているかのように、毎日何をしたらよいかわからず、気持ちだけ焦る日々でした。積極的に動こうにも、言語の壁があり、悔しい想いの連続で、その度にストレスが溜まりました。自分の想いを相手に伝えられないもどかしさとともに、相手の姿勢が「お前まともに英語しゃべれないのか?」という蔑んだ気持ちが顔に表れるほど、「くそったれ」という暴れたくなる気分を繰り返しました。
でも50歳を前にした「おっさん」ですからその気持ちを抑えるしかありませんでした。ここから抜け出せたのは、一つに自分で決めた仕事に走り始めたことと、二つ目にトロント生活をエンジョイするという気持ちに切り替えたことで落ち着きました。仕事は毎日、トロント小児病院地下のカルテ室へ通うことでした。早口の英語を話すおばさんが管理していましたが、慣れたらなんとかなるもので、気持ちがお互い通じるころにはお友達気分になりました。エンジョイはモール巡りの買い物と大自然に身をおくことでした。
なんとかなるものですね。へたくそな英語も自分の限界をしればその範囲で結構通じるようになりました。たかが1年でうまくしゃべれるはずがありません。英語は5年、10年の年期がいることを身を以て感じました。
さて、二回目の今回ですが、診療所開設という目標があります。この準備に奔走していることで日々が過ぎ去っています。滋賀の琵琶湖畔を事務所がわりにして、診療所予定地近くの篠山の実家を往復しています。実家の屋根裏に布団をしいたままにして夜に転がり込むという生活です。実家には電話がありますが、老夫婦ともに受話器をとりますが、残念ながらまともな応対ができません。携帯電話が唯一の交信手段です。電子メールは実家にはまだ光回線が入っていませんので(待機中)、PHSで交信しています。そして実家はこの交信エリア外なのです。実家に滞在中は一日2、3回篠山口周辺のPHSアンテナエリアへでかけて車中でパソコンを開くという状況にあります。そのため返信が遅れることが多くご迷惑をかけています。3月には実家にも光が入る予定です。
診療所開設は「きつい勤務医生活をさけてのんびり開業医へ」というパターンではありません。その想いは前回の不定期日記に書きました。ただ身一つで開業できるわけはなく、先立つものがいります。60歳を前にした起業にはどこも「あぶなくて」金を貸してくれません。それでもやっと数千万円の借金をすることができました。
いま、JR篠山口、舞鶴若狭道丹南篠山インター近くに、小さな診療所を建てています。もう外観はできました。こだわりのプランです。キーワードは「スウェーデン」です。スウェーデンハウスで診療所を作っています。一見ログハウス風です。正面には待合室からつらなるデッキも作ります。中の家具は「イケア」(スウェーデン家具)でそろえるつもりです。外にはメタセコイヤを植えて、車はボルボです。イケアはトロント生活で慣れ親しんだ大家具ショップです。この春に神戸にもできるそうですが、いまは新横浜で買い求めるしかありませんが。ここへいけばなぜか心がウキウキします。小さな小屋ですが、こだわった診療所です。3月下旬にはでき上がります。どうぞ来てください。176号線沿いで信号機の横ですから、みんなが篠山には珍しい「けったいな」家たててと覗いています。いつも運転手と目線が窓越しに合います。そうそう名前は「すぎもとボーン・クリニーク」です。スウェーデン語で子ども診療所です。果たして保健所が認めてくださるかな?
篠山エリアは以前の不定期日記にも書きましたが、恐竜発掘で有名になった丹波市と黒豆の篠山市合わせた10万人人口です。小児医療のあり方でもいまや有名になっています。母親らがつくる小児医療を守る会が厚労省舛添さんの目にもとまり、いろいろなメデアで紹介されているところです。そこの渦中に落下傘降下のごとく飛び降ります。果たして僕に何ができるかわかりません。全く予想もつきません。
ただ、びわこ学園でやろうとしていた重症児者の地域での生活モデル作りの仕事も残っています。厚労省訪問でも滋賀県でそのモデルを作る努力をすることを約束しました。全国区の仕事もあります。NPOではじめた医療的ケアネットも今年も12月に神奈川のネットと合同で京都開催の研修セミナーも計画しています。
篠山での地域医療を担っていく仕事も増えると思います。診療所は娘(小児科医)にも手伝ってもらいます。最初はお手伝いというより、まともな小児科医になってくれるように僕の仕事スタイル・背中をみせながらいっしょにやり、できれば(これは僕だけの想い)診療所は娘に引き継いで、僕は次の仕事を起業したいのです。どこまで診療所に貼付けるか?やってみないとわかりません。でも常に全国的視野の中で自分の仕事を意識してやっていくつもりです。
ということで、果たして60歳前の胃がん切除後の体重47kgのひ弱な体でどこまでやれるかわかりません。もちろん一人でやるつもりはありません。近くでは娘であり、親族の支援者もいて、そしてこれからきっと連携していけるはずの地域の人たちや行政の人たちとの出会いを待ちわびながら日々準備に奔走しています。また、これまで診療してきた多くの子どもたち(もう多くが成人ですが)とご家族のみなさまにもできるだけご迷惑がかからないよう、これまでのつながりを維持できるよう心がけて予定を組んでいるつもりです。
ご意見、ご希望、ご質問はどうぞ掲示板か、直接メール(HPの表紙下方に入り口あり)で入ってきてください。
(一気にここまで書き上げました。いつもの乱文をお許しください)雪の残る琵琶湖畔にて
11月3日 団塊世代・一勤務医の夢 小児科診療 エッセイ 70巻11号2154ペ-ジ
若い医師に伝えたいことはいっぱいある。でも僕たち団塊世代の若いときは年寄りのたわごとが一番嫌だった。新しいことに取り組むためにみんなの目がぎらぎらしていた時代である。むしろ、いまは「お前がどう生きてきて、これから老いてどう生きるのか」を背中から見つめられている。小児科医として残された人生を「こう生きてやる」と宣言するために以下のメッセージを書く。
まず学生時代を思い起こす。医学生後半の4年間の夏は信州・佐久総合病院に入り浸っていた。農村医学をやる。はだしの医者になる。無医村へ行く。そして大学最終学年になって二人の恩師の影響で障害児医学に興味をもった。一人は自らが下半身麻痺で薬害研究者だった故高野哲夫氏であり、もう一人は前第一びわこ学園園長の高谷清氏であった。卒後は小児神経学を志し、当時関西医大小児科助教授であった坂本吉正氏の関西医大最後の弟子としてハンマーのたたき方から教わった。大学での臨床や研究はおもしろかった。学生時代はろくに授業もでなかったのに必死に論文を読み、論文を書いた。医師になって11年目、猪突猛進のおかげで研究が起動に乗ったとき、息子が交通事故死した。三日間枕頭看護をした。患者家族の目線を意識し、わが家族にも目線を戻した。
20年目、医学生を教えたい、若い医者を育てたい想いで、ある小児科教授選挙にでた。もちろん惨敗であった。そのときの面接官が語った、「あなたは留学を一度もしていないのですか」と質問され、「留学しなくても英語論文含め、きちんと仕事はしてきました」と答えたものの、失笑されたように感じた。これまでの人生は挑戦と敗北の連続であった。そして次の課題を得て進んできた。「いまからでもいい、海外をみてみよう」と48歳にしてトロント小児病院へ「留学」した。北米と北欧をつたない英語で一人旅をした。小児医療や障害児医療・福祉の見聞であった。多くのスタッフとじかに交流した。学生時代から強く持ち続けていた「反米」感情は瓦解した。気持ちがバリアー・フリーになった。同時に思考は学生時代に強く志向していた「社会医学」的視点に戻った。息子の看取りからの経験と贖罪感がからみあって生命倫理学にも足を踏み入れた。キーワードは障害児医療であった。当時、超重症児の医療的ケアが課題であり、子どもの脳死・移植も課題であった。
まっすぐな筋論で思考し、発言が直裁的になればなるほど大学の枠からはみ出した。2004年、母校関西医大を去り、障害児者支援のメッカである重症心身障害児施設・びわこ学園に移った。これまで病院の外来診療や入院医療の場でしか垣間見ることができなかった重い脳障害をもつ人たちの生きる姿に日常的に接するようになった。障害がどんなに重くても安楽に生活する姿、そして日々の時間がゆっくりとすぎていく安穏の世界を体験した。
本来の医師の仕事から離れ、びわこ学園の運営・経営の3年間であったが、最近は別個の課題として考えてきた「障害児者医療」と「脳死・移植、終末医療」が見事に重なってきた。おりしも障害者福祉の現場には「障害者自立支援法」が始まっていた。「障害がどんなに重くても地域で安全に生活できる世の中」をつくるための法律であったはずだが現状はそれとは程遠い施策である。
まもなく、認めたくない「還暦」がやってくる。いつまでも社会を「批判」するだけではおとなげない。この国を「美しい日本」にするのではなく「心暖かな文化を持つ日本」にするために自らが具体的に行動することが求められている。
直近の課題は、5月から日本小児科学会倫理委員会でおこなう超(準)重症児の実態調査である。全国8つの府県の小児科地方会の協力を得て実施し全国的数字を推計する。急性期症状は沈静したが、障害が重く常時医療が必要なために、医療的支援が整備されていない自宅に帰れない子どもたちの実態を具体的に明かにして、小児科学会として厚生労働省に具申することである。 学齢期を迎えながら病院のすみっこで生まれながらベッド上生活している子ども、年老いてがんばりがきかなくなっている親の支援で在宅生活を続ける子ども、「もう退院してもいいよ(でも地域支援ないので帰れない)」となかば退院を強制されている子ども、重症心身障害児施設に入りたいが満員で入所できない子ども、などの実態を明らかにして、何が足らない、どんな風にかえれば不可能が可能になるかを提言できる資料を集めることである。(間もなく発表できます)
いま、びわこ学園でも討論中である。入所(病院)施設が地域の障害児にどう役立つか、入所施設と自宅や街中のケアホームなどを子どもたちや家族の希望で循環できるシステムが作れないか、訪問診療や訪問看護、訪問リハビリ、訪問介護などが縦横無尽に必要なだけ利用できるようなケアホームができないか、を検討している。
還暦を前にして、それらを自分で実行できないかを模索中している。半分は夢物語になるかもしれない。まずは90歳にならんとする両親の老老介護を兼ね、父が脳梗塞で倒れたために休診中の診療所を4代目として再開する。地元の行政や障害者やお年寄りの支援団体との交流をもとに、3年から5年を目処として小規模多機能施設を診療所横に開設する。重い障害を持つ人からお年寄りまでが集える集会所である。上階にはケアホームやショートステイ可能な居住空間を備えたい。横浜の朋診療所と富山の「このゆびとーまれ」の合体した上に夜間支援を含めたような小規模施設である。土地は小学校と幼稚園の間にある。そして、10年目までにはいま雑草生い茂る田舎の広大な田んぼの跡地に特別養護老人ホームのようなケア付きホームを作り、そこを運営し自分も入所するようなイメージを描いている。果たしてどこまでできるか不明である。また胃がんによる胃切除でどこまで生きられるかも不明であるが、ここに書くことで自らを律しながら事を進めていきたいと思う。
格差社会の「格差」は「いのち」にまで及んでいる。寝たきりでも、言葉がなくても、自分で食べられなくても、呼吸できなくても、みんな「いのち」は同じ価値だとみんなが真底思える社会を作らねばならない。そのために少しでも働きたいという想いである。
9月3日「あきれた倫理感覚だ」と朝日新聞社説
9月2日の朝日新聞の社説に厚労省前局長と社会福祉法人理事長とのやりとりがかかれています。高級車3台、家の改築、10万円のおこずかい、娘の就職などでるわでるわ。
どうして今なのでしょうか?出来事は昨日のことではないですね。そして局長が辞職直後に暴露されました。「妻のいとこ」という弁解が理屈になるのでしょうか?ご本人どうしがいとこなら「日本的」にまだ少しは理解できないこともないかもしれません。それでもおかしいかな?おかしい。何かが麻痺している。高齢者や障害者を対象にした社会福祉法人が高齢者や障害者を守るために、高級車や改築資金を厚労省役人に貢いだのでしょうか。
時はすでに社会保険庁問題で大揺れの厚労省。部門は違えど同じ厚労省ということで「なんだまたか」と反応する。果たして本当に職員のたががゆるんでいるのだろうか?一生懸命に夜遅くまで前向きに討論をする厚労省職員もいると信じたい。真に高齢者や障害者の弱者への施策を作るために。
社説はこう結んでいる。「青息吐息のはずなのに。前理事長はどうして相撲のタニマチのような大盤振る舞いができたのだろうか。厚労省にはこんな疑問にも答えてもらいたい」と。
悔しいです。むちゃくちゃ悔しいです。「社会福祉法人のあり方」論にまで議論が「およんでいます。いまびわこ学園はまさに「青息吐息」です。多くの重症心身障害児者施設に関係した人たちは同じような色眼鏡でみられているように思ってしまいます。
いま重症児施設は利用者、利用者家族、職員、サポーターが一丸となってこの究極を乗り切ろうとあらゆる努力をしています。この問題から「あり方論」を展開されて、援助を切り詰められると一般の中小病院のように重症児施設(病院でもある)もつぶれていくことになります。その前に、わが国が世界に誇る40年の歴史で獲得した利用者:支援者=1:1の原則がくずれて、医療支援や介護支援の質が落ちていくことになります。社説にもあった「厳しい改革」は容赦なく、医療保険の削減と重層化して、どこもかも厳しい運営になっています。なんでこんなときに、こんな話題やねんや!!
いま児童福祉法も「改正」論議、ヒアリングが行われているようです。「改革」の結果、児童と成人のサービスや条件に差が生じることがないように祈るばかりです。
なにも入所施設だけを守ってほしいといっているのではありません。入所している人たちの安楽に過ごすサービスを地域、在宅でも同様のサービスが保障されるようなシステムを作らねばならないときです。医療的ケアが常時必要な重症児者のケアホームやどんな重度障害でもいつでも安心して預かってもらえるショートステイの保障などいっぱい課題があります。重症児施設が地域に果たす役割を具体化する時期にきています。
おねがいですから、こんなときになぜ社説のような討論、話題になるのでしょうか?
悔しくて悔しくて眠れません。
利用者とともに歩むわれわれはまともな倫理感覚だと確信しています。
6月17日 医師不足?看護師不足? 両方だ
不定期日記お久しぶりです。まとまった時間がとれず、あれやこれや書きたいことがあってもパスしていました。父の日、いやじーじの日の今日は久しぶりにゆっくり過ごせました。前々週は札幌、前週は松本と講演などがあり、頭の中は整理つかずイライラの連続でした。
さて、まず最初に昨日土曜日午後の話しから始めます。午前中の関西医大男山病院の神経外来予約20名の診察を終わるやいなや、田舎へ向けてマイカー・ボルボを走らせました。目的は「病院は生き残れるか」丹波新聞社地域医療フォーラムへの参加でした。突然こんな話題をすると丹波市(旧氷上郡)、篠山市(旧多紀郡)方面以外の方々には訳がわからないでしょう。
簡単に紹介します。日本全国、厚労省のまずい施策のお陰で医療体制が大混乱に陥っています。都市部以外(田舎とします)で産婦人科、小児科はもとより、他科の医師が減り続け病院そのものの診療体制すらとれないところが続出しています。わがふるさと篠山市、丹波市あわせた11万人の医療圏域でも同じことが起こっています。基幹病院は3つ、県立柏原(かいばら)病院(許可ベッド数303に対して稼働ベッド260床)、兵庫医大篠山病院(許可数200に稼働174床)、柏原赤十字病院(許可167床で稼働55床)でした。ところがまず柏原日赤から小児科医がいなくなり、最盛期13人の医師がいたにもかかわらず7月からは2人になります。すぐ近くのもっとも大きな公的病院である県立柏原ですら医師数が46人から26人に減少し、特に小児科医、内科医が不足するという事態になっています。昨年度のこの病院の分娩数は275人で内43%が小児科受診し、帝王切開が約20%ありました。小児科医の常勤医師が一人になり産科の診療すら危ぶまれる状況が起こっています。おまけに内科医も半減し専門分野化した内科診療では診療できない疾患もでてくるようになっています。
それに対して、住民側は「県立柏原病院の小児科を守る会」を結成し53000人の署名を集めました。ちなみに丹波市2007年人口69537人、篠山市2006年46865人でした。多くが丹波市で集められたものであれば驚異的な署名数になります。その要求が医師の待遇改善であったり、夜間診療をコンビニ化させないようにしようという画期的なものです。これまでの通常の行政への要求運動が「権利闘争」であり、「行政責任で医師をつれてこい」というだけではらちがあかないのは全国の情勢を見ても明らかです。小児科医の立場からすれば、昼間の通常診療でも診察できた場合や、親の仕事の都合で、仕事が終わってから診察へいこうというパターンや救急外来なら通常の外来より早く診察してもらえるという輩がいることは、本来の救急患者のみを救命していく立場の夜間救急などの診療からすれば仕事量からしても大きな障害になっています。これらの運動の方針は正しいと思います。働く医療者と連帯しないで今の苦境は解決しません。おっ取り刀の行政マンにまかせていたら何も解決しないのです。もとよりがんじがらめの行政の「しきたり」がありますし、厚労省行政が混乱しているからです。このことはシンポジストの伊関友伸氏が強調していました。
「医師はなぜ、立ち去るのか- 地域医療再生のために」と。僕も全く同感です。もう一人のシンポジスト上田康夫氏は県立柏原病院の副院長で産婦人科部長です。「患者を守りたい・医療を、医師を守りたい」がタイトルです。今置かれている過酷な医師の診療状況と医療そのものの「不確実さ」への共感(これは、そのとおりなのだが、説明がすこしわかりにくかった)、そして厚労省の失策を見事に指摘していました。二人の講演は過激であり刺激的であり僕の大好きなパターンでした(僕の家系の旧姓は上田です。上田医師は親戚にあたります)。
イヤー実にさわやかでおもしろい講演でした。そしてふるさとが実に深刻な医療情勢にあることも理解できました。
ちかいうちに地元篠山市に帰郷し、しょうがい&訪問診療所、ついで小規模多機能施設や10年後には自分が運営し、入所者にもなる特別養護老人ホームを立ち上げようと画策中である身にとって、価値ある情報提供であり、熱気に包まれた1000人を軽く超す満員の入場者の中に身をおけたことを幸せに感じました。
さて、上記の討論はすべて「医師不足」がキーワードでした。なんと一度も「看護師不足」が出てきませんでした。田舎は看護師がたりているのでしょうか?あの厚労省の失策(病院つぶしの本音の策)の一つである看護師7:1の影響はないのでしょうか? いやーそれ以前に病院に医師がいなくなると、収入がなくなる(医師の診療によってレセプト請求ができる)から、まずは病院存続のための医師雇用なのでしょうが、都市部では医師は一定充足していても、看護師がたりないために、病棟閉鎖したり、病院の運営ができなくなるという事態が生じています。何処の病院も二年ごとに来る医療費抑制策への対応に苦慮しています。そこにでてきたのが、従来の2:1とよんでいた体制、これを10:1という。これに対して1ベッドあたり一日3000円ほどのアップになる7:1(患者7人に看護師一人という意味、昼夜があるので計算は難しいが)体制を作るために大学病院、大病院が看護師獲得の大部隊を編成し全国を駆けめぐったのです。おかげで結果、中小病院や高齢者、そしてわが重心施設(病院ですよ)もそのあおりを食いました。
その対策として医療法で最大解釈した1病棟60人という病棟運営にせざるを得ない「施策誘導」が起こっています。一病棟になることで必要看護師数が相対的に減少する上に、病棟の基準を落として経営しなくても良くなるからです。いま旧国立療養所病棟再編で最大規模病棟が実施されてきています。こうなると何が問題かというと、看護の質が低下すると思われます。いまでも走り回って患者さんの声を十分聞き取れない勤務態勢に拍車がかかるのです。
しかしこれも病院が病院として生き残るための一策なのです。しわよせは患者側にきます。根本的な矛盾、それはなぜ医療費抑制策をとらないといけないのか!世界のOECD諸国と比べいまでも医療費は少ないのに、なぜまだ減らし続けるのか!この考え方、施策が許せない。
ということで、わが社会福祉法人びわこ学園も看護師不足で危機的状況に陥っています。なんとか身のまわりで、重症心身障害児者の支援をし、みずからも彼らの生き方から学びたいと思う看護師さんを紹介下さい。たとえ二三年でも結構です。急性期病棟の看護とはひと味違った良い経験ができると思います。
年齢は問いません。老いも若きも来てください。よろしくお願いします。
こどもの日=医療的ケア+医療的ケアの研修+医療的ケアの必要な重症児+施策
1. 医療的ケアの考え方
医療的ケアの必要な人たちが地域で生活するにはあまりにも支援システムがなさすぎることは繰り返してここで述べるまでもありません。本来、医療的ケアはわが国ではイコール医療行為と捉えられてきました。そして医療行為はライセンスをもった、医師、看護師以外は実施できないとされてきました。ただし「例外として」家族は可能(目をつぶる)とみなして法的な問題にはなりませんでした。そうしないと医療機関から退院できないからです。なにもかも家族に押しつけてきた歴史があります。そして、いま医療費削減策のもと急速に急性病院からの慢性疾患追い出しが施策的にすすめられてきています。
一方、自宅で安全に家族といっしょに生活したいという本人や家族の想いはもちろんあります。
医療的ケアと一口にいっても、技術レベルはピンからキリまであります。胃ろうからの経管栄養を流すことから、気管切開部の管理や人工呼吸器の管理まで色々です。間欠的導尿もあります。なんと言っても難しいのが鼻腔チューブの挿入とその先の確認です。そして一人ひとりそのやり方が微妙に異なるのです。技術だけでなく障害児者の病態生理が十人十色です。身長、体格、感受性、性格などなにからなにまで異なっています。「安全で快適な生活」のための医療的ケアを保障するには多くの課題をクリアしなければなりません。
2. 研修の意味
医療的ケアの必要な人たちへの支援が必要だと云う状況はわかりますが、今度の医ケアネットNPOが果たしてどのような考え方で研修をしていこうとしているのかが問われています。
全国津々浦々の地域での安楽な生活を保障するためには、医療的ケアの技術的な質と、十分な人数的な量を保障しなければなりません。そして利用者の個別性をしっかり理解し受け止める知識と仕組みもかかせません。さらに免許あるなしにかかわらず利用者と支援者の信頼関係をどう作るか。これは一番基本的なことです。支援者のモチベーションを如何に創造しそれを保つかも大切です。人の「いのち」への考え方も大切です。それは関わっていると利用者から教えられることが多いとは思いますが、基本的に人生へのまじめな姿勢がないといけません。
医療的ケア研修の背景には単に技術獲得という課題だけでなく上記のような基本的に押さえておかなくてはならない課題がたくさんあります。
医療的ケアの具体的な作業は、医療的ケアの高度なものは看護師さん、口腔内吸引や胃ろうからの経管栄養など比較的やさしいものは看護師や医師の指導下での非医療職の実施という場合もあります。しかし、非医療職であっても高度の医療的ケアを理解することは無意味ではありません。理解することと「研修イコール実施できる」というものでもありません。利用者の全体を理解するためには自分が実施しない高度のケアも理解することは必要と思います。それ以前に体の成り立ち、人間の解剖、生理、病理を理解しなければなりません。
最近日本小児神経学会社会活動委員会で出版しました「医療的ケア研修テキスト」はその点ではすこし難しいかもしれません。この本は研修を担当する医師や看護師といった医療職向きです。医師であっても専門分野が異なれば知らないことは多くあります。看護師も同様です。免許があるからすべて知っていて、できる訳ではありません。できる人の方が少ないことは事実です。しかし、医学への基礎知識があれば研修をうければ容易に行うことができるでしょう。
家族、特にお母さんたちは、ずぶの素人から、好む、好まないにかかわらずわが子の医療的ケアについてのプロになります。ある人は積極的に学ぶかもしれませんが多くの母はわが子のため、(しかたなく)必死に学ぶのです。
母は医療的ケアを学び実施することが人生ではないはずです。でも大半の時間がそこに費やされます。「私の人生はそれでいい」と思う人もいるでしょう。
常時医ケアを必要とするような重い障害をもつことがはたして個人責任なのか、はたまたその親が背負うべきものなのでしょうか。そうではありません。基本的には人間社会が担いきるべき責務を負っているものです。
また、支援そのものもすばらしいのですが、その中から生きることを学ぶことも多いと思います。
上記したように我が国の医療的ケアをとりまく法体系は現在もなお整備されていません。また行政をメインにしたしっかり支援を取り組むシステムもほとんどできていません。医療的ケアの技術以前にそれをとりまく種々の知識の認識も不十分です。もちろん研修システムもできていません。NPOでおこなう研修が決して行政の至らぬところを補完するために登場したのではありません。また免許皆伝者をつくるためのものでもありません。地域で医療的ケアを受けようとするとき、訪問看護ステーションからの医療保険による看護は極めて不十分です。訪問診療とて障害児者にはまだまだ普及していません。昨年からはじまった自立支援法には医療的ケアの必要な障害者が地域で過ごすための施策はありません。自立支援医療もこれまでの3つの公費負担制度をあつめ、さらに自己責任・応益負担の原則にのっとり自己負担が増えただけにすぎません。
いま、わが国では信頼関係下で、特定関係下で、その人の医療的ケアを十分理解し、技術的にも医療職に指導を受けた後には「違法性」は問われません。軽微なケアが養護学校内で一定の条件下で可能になっています。地域でも非医療職が上記の関係性と条件の下で軽微な医療的ケアを実施していかないと、自宅での家族介護・家族的医療的ケアや家族付き添いから離脱できませんし、入院している障害児もいつまでたっても退院できない状況が打開できません。
NPO医療的ケアネットは医療的ケアがあっても地域で安楽な生活をしようとする人たちをトータルに支援できるシステムを構築するために理解を進め、システム作りを提案し、そして専門職による研修も行おうというものです。
3.医療的ケアの必要とする障害児は全国にどれくらいいるのか、そしていまどこに(病院/自宅など)いるのか、どんな課題があるのか
正確な数はつかめていません。医療的ケアを常時必要とする障害児の実態把握のために、日本小児科学会倫理委員会はこの5月に全国の8府県で20歳未満の超重症児、準超重症児の悉皆調査を実施します。
この調査によって、全国の医療的ケアが必要な超(準)重症児が何人、いまどこで生活しているかが明確になります。そこから発展していろいろな施策課題が具体的数字で見えてきます。来年度の日本小児科学会の施策要望課題の一つとして地域で安楽にすごすことのできるシステム作りを提案したいと思っています。
医療的ケアと生命倫理と終末医療、そして脳死状態(脳不全状態)がすべてつながったものとして浮かび上がってきます。
アンケート調査結果は以下のシンポジウムの席で第一弾として発表する予定です。公開フォーラムですから関東方面の方々、多数のご来場をお待ちしています。
第5回 小児科学会倫理委員会公開フォーラム
(日本小児科学会主催・第43回日本周産期・新生児医学会共催)
「病気の子供達の命の重さを如何に伝えるか−新生児から子供まで−」開催について
日本小児科学会倫理委員会
本フォーラムは、平成9年7月臓器移植法が成立後、小児への臓器移植の枠を広げることが、改訂の焦点とされており、検討されていることをきっかけに開始され、平成13年5月5日、「臓器移植はいかにあるべきか」のタイトルで第1回フォーラムを開催しました。第2回は、「小児の脳死臓器移植」の是非を論じる前に、この問題に関して現在の日本における小児の置かれている状況を理解する必要があるところから企画され、「こどもの死を考える」というタイトルで、また第3回は、虐待、非行、凶悪犯罪、いじめ、自殺などこどもを取り巻く事件は増加し、その原因は、「いのちの本当の大切さ」を大人からこどもに伝達できていないことにあると考え「こどもの人権を守るために−いまこども達へ伝えること−いのちの本当の大切さ」のタイトルで開催しました。第4回は「こども達は何を求めているのか」、として“病気のとき”に焦点をあてて、医療従事者とは違う立場から病児たちと長年過ごしていた方々を通して、病気のこどもたちの求めるものを考えました。
これらの経過をうけた今回は、小児の脳死臓器移植法の改正議論が進行している状況を踏まえて、新生児から小児までの重い病気の子供達が生きることの大切さを如何に社会に伝えるか?を一般市民の皆様とともに考え、医療者として市民としてなすべきことを考えたいと思います。
多くの方々の参加を呼びかけたいと思います。
日時 平成19年7月7日(土) 14:00−16:00
場所 赤坂プリンスホテル
座長 聖路加病院 小児科 細谷亮太先生
埼玉医科大学総合医療センター小児科 田村正徳
演者・シンポジスト
「“重篤な疾患を持った新生児医療を巡る両親と医療スタッフの話合いのガイドライン“への関係者からの評価」
埼玉医科大学総合医療センター小児科 山口文佳
「“電池が切れるまで“-娘の伝えたかったこと」
宮越由貴奈ちゃんのお母さん
「重度障害を持ち医療的ケアを受けている子どもたちの現状と課題」
第二びわこ学園 杉本 健郎
3月1日 神戸での映画と講演の感想
春ですね。ご無沙汰しています。
住処の近くにさいている菜の花は1か月以上なお黄色の花が満開状態です。一昨夜の「春の嵐」で比良山系の蓬莱山(ビワコバレー)は真っ白です。今朝も真っ青な空、白い雪、黄色い菜の花のコントラストが見事でした。
2月24日神戸市の社会福祉法人「かがやき神戸」で第二びわこ学園を描いた「わたしの季節」(小林茂監督)の映画上映と僕の講演「保険・医療・教育・福祉ネットワーク作り」をする機会を頂きました。会場はびっしり満員で200人ほどおられたでしょうか。第10回「地域とのふれあいまつり」の一貫で「学ぶ」をキーワードにした取り組みでした。
この福祉施設の成り立ちなどは後に記述するとして、半日で感じたことを記します。
これまで「わたしの季節」は何度か上映する場に居合わせることがありました。この映画をごらんになっていない方には理解しがたい面もあるかと思いますが、旧第二びわこ学園施設(今は取り壊して姿はない・新築移転しています)での130人(主には障害内容が異なった3人の追跡映像)それぞれの日々の生活を4年かけてカメラが追いかけています。語りはありません。時に利用者のヒストリーを文字で示すだけで「かえろかなー」というヒーリング・テーマ曲が流れるだけです。この映画、正直申し上げてはじめはたしかに冗長な印象を受けました。でも見るたびに新しく気付くこと・発見があります。なぜか見るたびに新鮮なのです。不思議な魅力をもった映画です。それは登場する一人ひとりが演技をせず、そのままの日常生活の中での表情をみせて、それを焦ることなく、やらせでもなく、レンズでじっくり追っかけているからでしょう。
さて、会場の反応です。
「重症児者の行動から何かを学び取ろう」と構えて鑑賞する姿勢がこれまでの会場にはありました。障害者の支援に関わる人たち鑑賞はこのような印象をもちます。また、発達障害の子どもたちの親御さんを主にした鑑賞場面には、なんか表現しがたい緊張感がありました。
今回は、まず会場の雰囲気がリラックスしているのです。始まる前もあちこちで大きな声の私語が聞こえます。なんとなくざわざわしていました。その雰囲気が始まるやいなやシーンとなるのですが、「新聞紙を切り裂いて埋まるところ」から大きな笑い声や「埋まっているやん」とか、思いついた感情を言葉に出して、その言葉に他の人も共感するという雰囲気にかわりました。そして終始そのムードが最後まで続きました。途中トイレへいく人があってもウロウロする人は一人もいませんでした。
「粘土まみれの顔」、「食事中におちゃわんをきれいになめる」、「スーパーでの買い物の仕方」、「兄と弟のコーヒーでの乾杯の場面」「足ではさんでふりまわす阪神タイガース球団旗」「バケツ闘争」などなど、会場で素直な共感の笑いと共感の内言が言葉になって会場に響くのです。そして、終わったら拍手です。
会場にはいろいろな人がいました。重心児者、精神障害、知的障害、精神と知的障害を併せ持った方など、そしてそのご家族、さらに地域自治会の住民の方々で占められ、施設の障害支援スタッフは多くはありませんでした。
一番後ろから映画場面と会場の反応を見比べながらの鑑賞でした。最後の拍手の時には、感動の涙が出てしまいました。
「かがやき神戸」という地域福祉の拠点は、いろいろ語ってもらわなくてもこの映画上映中に、その力量と到達点を推測することができました。
神戸市北区の新興住宅地(3自治会6500世帯、約15000人)で24年前に子育てサークルから始まり、神戸の大震災をきっかけに無認可小規模作業所から、「いのちを守り、地域に支えられた力強い施設」を目指して、あらゆる障害をも受け入れる社会福祉法人かがやき神戸が1999年に生まれました。
現在、約80人の利用者がおられます。19歳から57歳までの広い年齢層で、知的障害、発達障害、精神障害、重度身体障害、そしてそれらを併せ持つ重複障害の利用者です。
地域によってはこのような施設を作ることに反対運動がおきるようなこともある中で、なによりも地域自治会の支援に支えられて、地域住民とともに成長してきたこの「かがやき神戸」に頭が下がりました。
僕の講演はワンパターンですが、話しの途中に素直な質問が飛び込んだのも僕にとっては新鮮なものでした。一生懸命カタカナを使わないように、早口の独善的流れにならないように、映画への感情がつぶれないように、ゆっくり話したつもりでした。
良い経験をさせて頂きました。ありがとうございました。
できれば僕も元気なうちに、このような地域に、運動に、ニーズに、支えられた小さな施設を作りたいなーと思いました。
1月27日 表紙の写真きれいでしょう・おそい年頭所感
昨年暮れから本拠地を滋賀の地にうつし、琵琶湖畔に隠棲しています。琵琶湖畔はもとよりリゾート地なのですが、表紙の写真のような風景を毎日見ることができます。朝霧が湖面近くにたちこめて独特の世界を作り上げます。白い霧、菜の花の黄色と比良山系の雪と青い空とのバランスが何とも言えません。
とにかく寒いところです。比良山系からの吹き下ろしの風が琵琶湖湖上をすりぬけてまともに部屋の窓に吹き付けます。昨夜も一晩中風がうなりをあげ、その音で何度も目を覚ましました。昔、びわこバレースキー場のてっぺんで琵琶湖から吹き上がってくる猛烈な風を体が覚えていました。同じ風なのでしょう。
昨夜、ちょうど水上勉氏の「飢餓海峡」を何十年ぶりかで読み返して、読了しました。風がふきすさぶ冷たい津軽海峡を一人小さな舟でこぎわたった犯人・樽見京一郎の必死の想いがいやに印象に残り、夢の中で現実の風の音と海峡を渡る彼の姿がだぶりました。
滋賀へ引っ越しパソコン環境が変わりました。HPの改変も思うようにできない状態がまだ続いています。ご迷惑をかけています。このように滞ってくるとアクセス数もぐんと減ります。掲示板の書き込みも同様です。なんとか管理者としてしっかり運営していくつもりです。しかし頭の回路がだんだん減ってきて、昔できていたことが今できないという状態が常態化しています。そういえば、学園へ頂いた年賀状にこんなのがありました。
表紙「指導力がまったくない幼稚おじさんへ(僕のこと)、あなたの痴呆症(認知症)を心配している職員・・・より」
裏面「さぼったらあかんよ!!税金が泣くよ。今年はまじめに仕事してください。ハイ。・・・・」最後にきわめつけで「園長→エライとカンちがいしたらアカン。やる気ないなら退職金ナシでやめなさい!!入所者と職員のめいわくだ!!この大バカ者!!」
人生でこれだけの忠告をうけたことはありません。でもたぶん同じようなことを思っている人もこれまでたくさんいたのでしょう。文字通り受け取ると第二びわこ学園の若い職員が送ったものかと思って、最初ずいぶん落ち込みました。でも全文を読み返すと矛盾することがたくさんみつかり、どうも書いた相手が「外部の高齢者」と推測されました。それにしても暇な人もいるものです。一体何が目的なのか?
おかげさまで、ご忠告通り、住居も近くになったこともあり、気合いをいれて新年から爆走しています。今年は昨年以上にさらにまじめに働きます。しかし、気合いを入れすぎると、周りが不快に感じたり、衝突したりすることも事実です。この辺の加減を覚えないといけません。60歳前にしての課題です。細木数子によりますと、僕は金星プラスで、大殺界はびわこ学園へ来た年から始まり、いまは登り調子とのこと。これは古いお友達(患者さん)の指摘でした。
指導力のない幼稚なおじさん高齢者が書きました新年の「園長だより」です。
ご批判ください。以下はそのまま貼り付けました。
*園長だより新年号*
園長として、混乱の2006年からさらなる激動の2007年を迎え、しっかりと舵取りをして、荒波に立ち向かうとともに、一歩前進の1年にする気概をもっています。よろしくご支援・ご理解をお願いします。
2007年1月5日
以下に2006年の事業を総括(抜粋)するとともに2007年の展望を概略します。
1 新しい制度環境に向けた経営戦略の構築
(1)入所利用者のサービスを確保し、職員のモチベーションをさらに高める視点から、積極的に新しい制度の採用を見通した上での運営を検討しています。また、新しい制度でサービス低下が予想される内外の利用者については、情報公開の下、関係者と充分な話し合いの下,制度上考え得るベストの選択を目指しています。
2006年10月以降、入所利用者は、ほとんどの方が後見人制度のもと契約を行い、児童福祉法による「措置」児以外、自立支援法に基づきすべて契約を終了しました。施策新事業開始の10月以降も「重症心身障害児者施設」として事業を継続しています。また、2007年度も同事業を継続します。
(2)第一びわこ学園、第二びわこ学園あわせた6つの病棟での運営体制を目指しています
一つのびわこ学園の視点にたって第二びわこ学園として積極的に関係者の話し合いに応じ、対
応をしてきました。2006年10月1日に第一びわこ学園から二人の利用者を迎えました。
(3)地域に重症児者の医療,介護の拠点作りに努力します。
すでにある訪問看護ステーション「ちょこれーと。」の看護師スタッフの質量をともに充実させるとともに、リハビリテーションスタッフおよび介護系スタッフとの連携強化をはかり、まずは湖南,湖東圏域での重症児者の地域のニーズに応えられる事業展開を目指しています。この拠点は、近い将来、学園内外の重症児者が利用する「街中の住まいや日中活動」の拠点作りの導線、ネットワークのキーステーションとして位置づけています。
野洲市市街地域に訪問看護ステーションを核とした小規模多機能施設を立ち上げるための立案を当園で討論終了し、市当局、市関係団体に呼びかけを始めています。訪問看護ステーションでは、二人看護師常勤勤務にしました。さらに訪問リハビリテーションのニーズが高く、週3回理学療法士がその任にあたっています。2007年4月以降、訪問リハビリの常勤化、訪問介護を行います。
A型通園での保護者だけでなく、びわこ学園通園すべてを対象に訪問看護ステーションや自立支援法の勉強会を開き、職員と保護者の共通認識を高めました。勉強会は引き続き継続していきます。身体障害者ディサービスは10月1日以降、野洲市を中心とする経過的ディサービス事業に移行し、従来同様のサービス提供を実施していますが、2007年4月以降の体制については現在行政を協議中です。
2 厳しい経営収支の見通しを踏まえた合理的な財政運営
事業収入と直結する部門の機能的な統合を図っています。ケースワーカー、医事係を中心に外来診療、長期入所や短期入所の出納管理を月々まとめ、各会議にも開示し運営状態を共通認識にしています。この間に機能統合、合理化策の一貫として不備のあった医事委託を中止し、2006年9月から自前で運営を始めました。とりわけ4月以降の診療報酬改定でリハビリテーションの収入減にともない、訪問系への出向を増やしています。来年度のハード、ソフトの両面からの態勢はびわこ学園が一つの考えの下、第一びわこ学園との協議を進めています。
3 学園の各種情報の積極的な開示と、経営の透明性と信頼性の確保
(1) 法人の経営状況についての第二びわこ学園内および家族への情報提供は積極的に実施します。
(2)施設利用者の事故、利用者等からの苦情、年金管理、第三者評価などの情報を積極的に開示します。法人の経営状況、情報などは運営会議、全課長会議を通して、プライバシー,個人情報保護法に触れないものについてはすべて公開していきます。
事故については基本的に現場責任で即座に対応し、即座に最終責任者への報告を行うとともに、被害者(本人及び後見人・家族)には迅速かつ確実に謝罪するようにします。事故経過,教訓、最終報告は事故対策委員会を通して討論後、関係者に情報公開しています。また、別に発足し機能しているリスクマネジメント委員会でも現場視点で事故予防や解析を行い、運営会議へ直接提言するシステムにしています。リスクマネージャーは施設責任体制とは別の視点で内外の利用者の安全なサービス利用と職員の事故予防の環境作りのためのプロフェッショナルとの自覚のもと発言し、プロとしての研鑽にも努めています。
職員は内外の利用者のどんな些細な苦情にも耳を傾ける姿勢を持ちます。原則は本人または家族からの苦情ですが、必要な場合現場職員から苦情処理のための情報を出すこととし、適切で納得できる解決に努めます。大まかな事故情報は家族会の場や家族会役員会には報告しています。現在、リスクマネージメント委員会を通じて各病棟職員への月別の事故報告や当委員会への家族会代表の参加を検討しています。
4 地域生活支援機能の充実強化
既に別項で述べておりますが、重症児者の地域生活支援の場作りと実際の事業展開を本年度はさらに具体的させるように努力します。自立支援法施行後、地域の安楽な支援が極めて難しくなる状況が予想され、また、在宅で医療的ケアや重介護でがんばってきた家族の疲労と高齢化が目立ってきています。自立支援法の厳しさが比較的遅れてやってくる入所施設であるびわこ学園へ地域からの入所希望が激増する可能性があり、その予兆は既に現れています。現在入所している利用者へは、なるべくサービスを落とさないで自己決定を実現させる立場を貫きながら、出来る限り新たな入所希望者への対応を各行政機関とともにびわこ学園の再編の中で考えて行きます。この討論内容は随時関係各位へ情報提供します。前述した通り訪問看護ステーションを核とし介護、リハビリを付加しより利用者のニーズに応えられるものにします。次にこのステーションをも含めた医療のある小規模多機能施設の立ち上げを目論んでいます。これが全国に先駆けての「野洲モデル」として登場すれば、全国への障害児者支援そのものになります。
5地域との交流の活性化など
地域の中で第二びわこ学園が社会資源として機能を発揮するため、また利用者(入所、通所)の地域住民としての位置づけをより明確にするため、様々な形での地域交流をより活性化し、また第二びわこ学園としての情報を発信してきました。2006年上半期に実施した地域交流等には、以下のものがあります。
(1)幼稚園との交流:入所利用者(就学前の超重症児含む)と4・5歳クラスの交流を7回実施(遠足で第二びわこ学園に。幼稚園の運動会等)。(2)地域小中学校等との交流:3校の小学校と入所利用者との活動交流を計6回実施。2校の中学校からの就労体験受け止め。高校の学園祭に参加。(3)スプリングスクール、サマースクール:野洲市在住の障害を持つ小中学生、高校生の余暇支援として、春・夏休みにそれぞれ10日間、20日間実施。今夏は、47名の利用申し込みがあり、延べ519名が利用。学園職員、アルバイト、ボランティア(教師、市・社協職員含む)の参加者延べ数は延べ約700名。
(この「園長だより」は2006年11月びわこ学園理事会報告に若干の加筆をして、主な部分の抜粋で掲載しました。びわこ学園HPにも年頭所感として掲載中)
12月25日パソコン恐怖症
クリスマスです。カナダに住んでいた時を思い出します。たしか積雪のあるクリスマスでした。たった一回の経験なのですが、一斉に街の店はお休みの日、午後から開店するところもちらほら。生活習慣の違いは頭にずっと残っています。そして、いまその一年で経験した「自立」生活が大いに役立っています。
このところ、掲示板の騒ぎが続いています。9月、一時は英語の書き込みで占領されました。あれは自動的に無差別に攻撃しているだけなので、運営サイドで対応してもらいました。その次は「書き込み」です。あることないこと、プライバシーにかかわることの一連の書き込みでした。このときはアクセスが殺到しました。びっくりするスピードでアクセス数がのびました。最初はおおらかに「まあ、勝手に書いたらいいやろう」と放置していましたが、引き続く書き込みに「このままではあかん」と思いました。管理者として消すことにしました。そして、最終的に「不定期日記ご意見コーナー」を閉じることとしました。
書き込みする場合、正直にご自分のアドレスを書き込んでから、書き始める方と、アドレスをパスして書く人、そして絶対に書き込む側が誰かわからないようにして、苦心して書き込む人。発信先の数字とアルファベットで後二者の振り分けと、どういう立場の人かが推測されます。10月上旬から中旬にかけての「びわこ学園」云々のやりとりも11月にはいってから、だいたいのところが掴めました。そして落ち着いたかな?と思いきや、今度は掲示板の書き込み済みがどんどん消去されていくではないですか?管理者のボクが大掃除したわけではないのです。一見9月のアルファベット書き込みと似ていますが、単に似せているだけで、どうも10月の怨念を引きずる人の仕業ではないかと思っています。よほどボクに恨みがあるのでしょう。「表へでてこい」正面から話し会おうと思うのですが、相変わらず覆面です(自分は覆面のつもりなのですが透けて見えていますが)。HPの指導者は、「よくあること」と無差別攻撃の一つとして受け止めていますが、受け身の本人としては個人的に運営妨害されているとしか思えません。
水上勉氏が「植木鉢」で、E-MAILやHPでいろいろな出会いがあったが、途中から良い出会いだけでなくなり、だんだんパソコンを通しての情報や通信から遠ざかった、という意味のことを書いていました。
いま同じような感情を持ちます。アクセスするのは必ずしも善意だけではないのです。しかも覆面でアクセスできるのですから、場合によっては卑怯きわまりないのです。
どんなことでも「筋がとおらない」ことが大嫌いな性格。58年の人生、これでたくさん「損」してきました。今更変えられません。
いま、正直な気持ち、パソコン恐怖症でもあるのです。
なにせボクの公式アドレスメールの送受信を数ヶ月にわたって、すべて複数の他人に傍受されていたことをひょんなことから知ることになりました。失礼な人たちです。そのことをわびることなく、まだ見続けているのかもしれません。刑法上の犯罪だと思いますが。しかもその「のぞき」が、もしかしたら「正義の味方」を名乗る方々なら、より許せません。絶対に許せないのです。不快でたまりません。これは思想信条をこえた人間性の問題なのでしょうか。
そんなことで、より一層このHPの運営を続けるべきか?悩んでいます。この年末、一人でゆっくり考えることにします。
11月19日日曜日 神戸セミナーとびわこの夢と田舎の夢
11日、12日の神戸での医療的ケア実践セミナーを語りたいのですが、それはあとにして、まずこの二日間で読んだ内田康夫の新作「還らざる道」(祥伝社1785円)の感想を書きたいのです。
この間森村誠一氏の推理小説を何冊か読み、頭がボケてきていることを痛感していました。ずっと昔にこのコーナーに書いたと思いますが、森村誠一氏の小説は「ボケ防止」になるとタクシー運転手さんが云っていましたことを。まさに彼の小説は、謎解きにからむ登場人物が多いこと。電車やトイレ中や寝る前などぶち切れ状態で読み進めていくと、誰がだれやら分からなくなります。それを、じーとこれまでの筋道を反芻しながら、先のページに挑戦するのです。でもいつも中途半端な感動で終ってしまいます。あーーボケてきた。
それを払拭してくれたのが、この「還らざる道」です。50年前の消された歴史をある男がずーと心の隅に持ち続けて生きてきた。そして年老いて「戻ることのない道」へ父のえん罪や自らの贖罪を払拭すべく動く。そして殺される。それを浅見さんが、いつものように気が強くてかわいい娘といっしょに謎解きをしていく。いつのまにか本の中に取り込まれてしまう自分と、4、50年前の自らの少年や青年時代を思い出す自分に、はたと気付くことが何度もありました。イヤー おもしろい。特に団塊世代の読者には一定の共感があるかもしれません。浅見シリーズは単に謎解きだけに終始しないところがいいのです。ハードカバーで割高ですが、内容はここまでにして、ご一読をおすすめします。
神戸での医療的ケア実践セミナーは主催者代表という責任者であったため、果たして自分も楽しめるのか?ストレスだけに終らないだろうか?と自問自答しながらの準備でした。 そして、楽しめました。
いたって感情的で不十分な記載になると思います。
前回の網野の場合は現地事務局や一部行政も含めての協力があり、しかも温泉地であること等からセミナーそのものが「旅気分」の要素がありました。今回はあれから2年がたって、地域での医療的ケアのニーズもさらに高まり、しかも場所は福祉と慢性医療のメッカ「しあわせの村」開催でした。前回よりも組織だった、しかも内容的にグレードアップしたもの、さらにこれから全国展開する上での「モデル」を示す目的もありました。
第一日目の準備をするときに、大ホールの演壇真ん前の横長のタイトルが実にきれいに印刷された専門的な横断幕であったことに感激。それと参加者全員の名前の書いた首掛けネームカードが用意されていることで、「これは成功した」と変な直感が働きました。すべてクリエイツかもがわのメンバーによる夜なべ仕事だったのでしょうが。それに「スタッフ」と云う黄色い腕章。二日間、天候がもう一つでしたが、会場周辺がエキゾチックで開放的な雰囲気でした。まあ、そこに「学ぼう、交流しよう」という同じ想いを持った人が200人あつまるのですから、盛り上がって当然のセミナーでした。
高田先生の話では、神戸教育委員会としてのこれまでの取り組みのことや、もう一つ勉強になったことは、医療保険による在宅医療費のほとんどは指示文書料だということなど。名古屋から応援の三浦先生の呼吸障害の話は丁寧におだやかに語りかけて誰でもわかるように。佐藤先生は昔男山病院で同僚でした。胃ロウを主に外科医の本音の話をおもしろおかしく。今回若手の代表中野先生は、小児耳鼻科の臨床医としての気管切開例の多くの経験をもとに改善の可能性と治療の限界も理解できる興味深い話でした。
交流会は京都シサムの篠原氏の司会で終始和やかに快適な時間でした。急遽ボランテア出演をお願いしたSさんは、ピアノ演奏から始まり障害児者の耳元でのフルート演奏をしてくださいました。生の音のひびきは障害児者ご本人にとっても快い音色だったようです。
夜の二次会では、アルコール片手に無礼講でした。「来年は愛知県でやろうよ」と盛り上がりました。酒を飲んでもまじめ一徹の三浦先生も「うん」と云わなければならない雰囲気にさせていました。来年開催は、決して強制ではなく願望にすぎませんが。もちろんNPO医療的ケアネットとして最大支援します。
二日目の午前は4グループに分けた研修でした。始めての試みで無理をいって医療的ケアのモデル人形を4体お借りしての実践研修でした。4人のドクターと支援のナースによるスモールグループの実践講義で、呼吸・吸引と消化器系・経管栄養を半分ずつ交互に学ぶ形式でした。
途中、療育掲示板1539番にも書き込んで頂いた五味さんファミリーがそれぞれの講義に飛び入り出演して頂き、さらに実践的「管理」をご教授頂きました。
午後の最後の記念講演は朋診療所の宍倉先生でした。正直、二日目の午後なので多少は帰宅する人もでるのではないかと主催者として心配もありましたが、なんと会場はびっしりうまっていました。話は決してどこかの「美談」ではなく、まさに苦難の「実践」報告でした。同じ国内でできているのだから、他の地域でもできるはずという想いを伝えてもらいました。今回のセミナーには横浜から5人を超える朋(訪問の家)関係者も受講して頂きました。外で聞く朋の宍倉ドクターの話を結構新鮮に聞かれたのではないでしょうか。
まさに朋に続け! 朋を越えろ! 横浜だからできたというのではない。日浦先生や宍倉先生をはじめ、たくさんの支援者が集うからできた。力強い親がいて、そしてわが子がいた。それならびわこでも他でもできる。
いま、第二びわこ学園でも訪問看護ステーションを骨格においた小規模多機能施設を街の中に作ろうと地元のあらゆる関連団体に呼びかけています。その輪は確実に広がっています。新しい文化が形成されていく様を肌で感じます。障害の重い人から軽い人、若い人、歳を重ねた人みんながいっしょに住まう拠点作りが「びわこの夢」なのです。
そして、いまもう一つ、昨日の1499番のしらさぎさんの書き込みで「第二びわこをやめる?」という噂にお答えしなければなりません。
さかのぼること学生時代約35年前です。ボクは障害児医療をとるか、農村医学・無医村医療をとるか悩みました。そして前者を目指してここまで来ました。58歳です。あと働けるとして癌の再発なければ15年は生きることが出来るとして、生まれ育った農村?篠山市へ帰ることです。老夫婦が介護保険を利用して細々と生きています。すなわち、老老介護をしながら診療所をやろうかと思い始めています。現地では「杉本医院」(今は閉院)としては4代目頭領です。田舎には我が土地があります。それこそ小学校の校門前に土地があります。高速道路丹南篠山口で出口から3分かかりません。JR篠山口駅から車で3分、歩いて10分です。ここに「朋診療所に似た『びわこの夢』」をたてて、のんびり?診療しようかと夢を描いています。「朋の夢診療所」みたいな名前をつけて、小規模多機能にして、上階のケアホームに老夫婦を住まわせることもありかと考えています。この夢をいろいろな人に語りかけています。それが噂の原因です。ボクが火の種でした。このように考えだすと、いてもたってもいられない性格なのです。我が死から逆算すると時間がないので、焦ります。蓄えたお金が全くないので、これが一番やっかいです。「びわこの夢」と「田舎の夢」、どうしようか?というところで結論が出ていません。ただ、はっきりしていることは、第二びわこには火種さえつければ、優秀なスタッフがたくさんいます。ボクがやらなくともみんなが進めてくれるでしょう。このごろ本当に信頼できるスタッフがごろごろいる職場に満足し、かつ甘えている所もあります。でも田舎はボクがやらないとできません。さあ、ここが考えどころなのです。これが噂の根源です。
なお、もし、もし仮に田舎へ移っても週に二回は大阪、京都方面での診療には出てくるつもりです。体調が許す限り。もちろんNPO医療的ケアネット理事長もやめません。
また、いろいろご意見をください。何事も一人ではできません。いろいろな支援者あっての事業です。
9月23日 知的障害福祉連盟講演:われ一歩前進
ひさしぶりに緊張感のある講演でした。いつもは「流す」というのではなく自分の庭のような気持ちで自分の側に聴衆を引き込んでの話方で、気持ちは高揚しますが「興奮」することはありません。ですが、今日はいやに興奮しました。固有名詞を書くわけにはいきませんが、最近まで某県で知事をされていた同じ団塊世代の勝ち組の方(現在は東京の有名私立の政治学の教授)がボクの前に「施設解体」と叫ばれました。後に続く演者が、医学部教員としての「勇気ある」負け組(こんな風にはおもっていませんが)で重心施設の施設長であることを十分知った上での発言だったのか?あまりほかの話し手には興味がむかないのが本音だったのかもしれませんが。「ボクは手強いよ、僕は後だしジャンケンだ(話でも先にこの事は指摘しました)」と叫んでやりたかった。話をおもしろく聞かせるのはいいのですが、内容が断片的で起承転結になっていない。ボクは講演のスタイルとして漫談風のおもしろさをもとめるのはよくないと考えます。「福祉制度の行方」を話すはずが、自立支援法の中身には全くふれない講演には少々幻滅しました。読まれる事はないでしょうが、教授、どうぞ「反論」ください。 ここまでは新幹線の中の記述です。講演後、終了清涼感で、いつものように東京駅大丸でうなぎ弁当を買い、久しぶりにビールなども買い求め、胃が1/3しかないのもきづかずガツガツとたべたおかげで、気分が悪くなりましたので、中止しました。きっと人の悪口を書いたのでそのたたりなのでしょう。
さて、ここからは一夜あけて、頭のなかは10月8日の「子どもの脳死」講演レジメ作成モードになっています。それをきりかえて--っと。昨日のもう一つの出会いです。
それは悪口でないので実名で書きます。お許しください。上記教授の講演の時、朋の日浦先生の話があり、「今日も会場におられる」と。実はこれも話す前のプレッシャーでした。尊敬する(勝手にそう思っている)日浦先生の話は10年ほど前に神戸のなにかの集まりで涙を流しながら聞かせてもらいました。名乗りもあげた事はないのですが、それ以来の出会いなのです。
僕の講演内容は「医療・介護制度の行方」で3パートに分けて1)障害者自立支援法と医療、2)医療制度の「改正」の方向、3)「いのち」の多様性の保障を話しました。話しているときから、前から5番目くらいのところで「相づち」をうたれる僕と同世代の婦人がいます。日浦先生でした。それに気付いて以降、ぼくの話す内容にどのような反応をされるかを話しながら確認する講演になりました。「うん、これはうけている」と確信しました。通常、講演する時、話が受けているかいなかははなしている途中からはっきりとわかります。これは学生講義でも同様でした。漫談風のおもしろさではなく、話の中身のおもしろさをあくまで追求しながらまえもってスライドを並べます。「さあ、ここで一気に元気づけて」なんて思いながら準備します。
ということで時間通りすべて話終わり、話し手側としては結構満足できる出来映えでした。僕の後にもう一つ講演が続きましたので、最後まで聞いて、終わりと同時に主催者への挨拶もせずに会場をさっと抜け出しました。(有名、多忙な方は自分の話のところだけ来て、さっと帰ります。僕は自慢ですが、朝一番から最後まで聞きました。暇なのでしょう)
会場のビルを出た所でうしろから呼び止められました。なんと朋の方でした。半分おせじとおもうのですが(ごめんなさい)、「今日は杉本の話を聞きにきた」と5人の朋関係者が集まられました。その中に上気した日浦先生がおられました。一瞬にしてエネルギーの高い方だと思いました。
いろいろと立ち話をしたのですが、一番はこれから第二びわこで提案しようとしている「(訪問)診療所、訪問看護(リハビリ,介護)付きの小規模多機能施設」構想についてでした。この半月、第二びわこではこの構想についてすべての課長レベルまで今後の実現可能な夢として前向きに討論してきました。まだまだ実現には至りませんが、その構想の一部をスライドにして、「重心施設のノウハウをもって地域にも出る」構想を話しました。時同じくして,朋でも横浜市で殆ど同様の構想を練っておられたとのことです。狙いは同じなのです。重心施設の老舗(自負しています)と地域で重症児者通園の先駆けである朋が全く同様の想いを持っていたことに痛く感動しました。日浦先生も同様の想いだったようです。いま第二びわこがとっている方針に間違いはない事も確信しました。施設解体ではなく、日本の障害者歴史が作り上げ、育ててきた重症心身障害入所施設はこれからの時代、もっともっと重要な位置を占めることになると思います。これまでの施設を守るのではなく、さらに時代に許容され、理解され、支援される入所施設に発展させねばなりません。もう40年入所しておられる入所者もいろいろな想いがあるでしょう。外で友達と支援受けながら街中でいっしょに住みたい想いも大切にしたいし、地域で一生懸命がんばってきた両親が老いて疲れたときにしっかり生活を受け止められる施設も必要なのです。そこには「施設解体」を叫んだ社会防衛的「障害者閉じ込め施策」ではなく、大きな施設も小さな施設も,自宅もうまく循環する暖かい共感のある社会構造が作られねばなりません。親がとことん負担する生活を「在宅」と云う名の下に強いることはやめましょう。いろいろな選択があっていいのです。時間も場所も組み合わせもなにもかも。そんなことを痛烈に感じた東京講演でした。講演することはいつも自分の考えをまとめ一歩進めてくれるのです。
なにはともあれ、結論として、障害は個人的なものでなし、公的負担であるべし、その点では障害者自立支援法の自己負担は最低だということです。もっと大きな視野で税配分の検討をしなければ我が国は殺伐たる米国により近づくことになります。
(「知的障害福祉連盟」はこの9月に「発達障害福祉連盟」になったそうです)
8月31日 苦情処理
なかなか書く気になりませんでした。暑すぎて根気がなかったのでしょうか。でも書く気になったのは、いつもの「怒り」でした。
毎日e-mailでは、数十のエロメールが届きます。多くが「迷惑メール」で開封前に却下されるのですが、時に友人からのメールが混入します。申し訳ないような、憎たらしいような。ところが、職場に来るダイレクト・メールは逃げようがありません。男山病院時代よりはグンと減りましたが、それでも何処で調べたのかダイレクト・メールが届きます。
数日前に住所が合っているのですが、なんと職場の病院名が「自衛隊病院 杉本健郎 宛」となっているではないですか。無茶苦茶腹がたちました。どんな間違いが起こったのか知らないが、僕の職場が自衛隊病院とは、自らの誇りを土足で踏みにじられた想いでした。かつて大学時代の自治会委員長であった時に、防衛医大が設置されることに反対して、高さが二階まで届く大看板(たてかん)を一人で一晩かかって書き上げたことを思い出しました。
即座に電話をかけて抗議しました。なんでこんな馬鹿げたことがおこるのか?一体何処で名簿を手に入れたのか?相方はいたって冷静な声で「すみません」と繰り返すのみ。要は手に入れた名簿を打ち出すときに所属と名前が一段ずれたというクールな説明。「苦情処理へまわせ」と叫んでも相手は電話の先。なんと2000人の小児科医に一段ずれた所属名を送ったとか(住所と名前は合っている)。「必ず謝罪の手紙を送るように」を約束し電話をおいた。
この1か月で自らの苦情申し立てをあげてみると、1)名神高速道路の事故(先日このコーナーで書きました)後のチューリッヒ自動車保険への苦情。最初の女性担当者が「あなたの事故はまあ3:7が常識的な責任分担」とクールな電話。「アホたれ。普通に走っているときに、突然ウインカーもなく真横からひっついてきた車やないか、なんで僕が責任あるのや」「そんな業界の常識は、非常識や」「責任者に代れ」のやり取り。次に出てきた男性担当者は苦情担当なのか、ソフトな声で、さらに言葉使いが実にうまい。それでも最後まで0:10を主張したが、結局1:9になりました。
2)久しぶりに会う友人(男性です)と京都駅南口にあるセントノームホテル一階奥の和食の店へ行きました。料理の鉄人で賞をもらった?ということだったので期待して行く。料理を持ってくるバイト?の若い着物をきた女性が、お皿を「どん」、「どん」と音をたててお膳におく。対面の恰好で話をしている二人の間に「失礼」ともいわずに、ぎゅーと肩まで割り込んで反対側にお皿をおく。味もなにもあったものでなし。あとでHPに苦情を書き込むも、店から全くなしのつぶて。サービス業なので一人一人の客の苦情にもっと敏感に対応しないとつぶれるで。二度と行くまいと決意。
追記)友人の医師の情報:深夜の小児救急外来に来る若い父親の苦情。診察終ってお金を支払う時、「子どもが熱出して診察にきてるのに、まだ熱が下がらへん。医者は治療してなんぼやろ。熱が下がってないから支払わへん」と苦情を申し立てる輩が多いとか。これはとても小児救急なんぞ普通の感覚でやってられない。医者の方の心が病んでしまいます。小児救急の不備を追求するのもいいが、この非常識な文化の波及をなんとかせんと。
この国の首相が8月15日に靖国へ参拝し、「個人の自由だ」「他の日に参拝しても抗議されるから同じや。だから終戦の日に参拝した」とぬけぬけと論理のすり替えをマイクに向かって話す。この5年でこの国はどんなに悪くなったか。障害者自立支援法一つとっても改悪がわかる。どうしてあのような馬鹿げた論理をしゃべる首相が支持されるのか。まさに国のトップへの苦情である。怒りを通り越して無力感に襲われる今日このごろである。
いかん、いかん。
追伸:施設長として、苦情を受ける立場では、苦情はしっかり受け止めて改善していきます。
7月30日 行動障害、第2回医療的ケア研修セミナー in Kobe
このところ10月自立支援法の本格施行を前にして、自立支援法の障害程度区分の医師意見書を書く(書かされる)機会がものすごく増えています。そして、なお増え続けています。医師の診療・治療とは関係ない仕事に診療時間を割かれます。ぐったりです。医療的ケアのある重度脳障害をもった障害者の方は多分一次調査でも相当の高い区分になっているでしょうし、医師意見書も記入が容易です。ところが知的障害とてんかん(あまり難治性でない、ときどき発作がある程度)の障害を持つ方の診断書は難しい。医学的な部分をどのように表現し、短い審査時間であっても審査委員に現状を理解してもらうように書くか。責任を感じながらも、要求される記述は実に迷いを生じるものになっています。あまり書きすぎるといけない部分もあるかと思いますが、一つだけ、最終設問の「周りの人に犯罪的行為をしたり、不安を与えるような行動をする」「その頻度」を問われます。最上ランクは「毎日」です。ここで、はたとペンが止まります。あまりにも設問の仕方が「社会防衛的」であり、「地域で障害ある人を受け入れよう」とする姿勢が見られない設問です。行動障害の基本は環境的因子から引き起こされることが殆どです。見方をかえれば、環境をよくすれば快適に暮らせることになります。行動障害をもつ障害者の想いをどこまで理解できるか、そしてその想いに共感し寄り添える支援が何処まで出来るか、が本来の障害者支援だと思います。今の社会の「一般的常識」から理解できない仕草や行動を「異常」ととる限り、行動障害はなくならないでしょう。
残念ながら、現在の「支援」内容は鍵のかかる部屋や抑制帯(ご本人の安全を確保するための介護という)などや意欲を押さえる薬物で活動性を低めるという発想になります。本来は1対1で力量をもった波長の合う支援者が介護者として寄り添うなら殆どの行動障害は鎮静するでしょう。しかし、在宅では多くの場合、母親が長年よりそうのですが、まわりの支援制度の貧弱から日々疲れきっているのが現実です。近所への遠慮も大きな心配事です。障害児から障害者になって年金を受け取る頃になると、体力差は母親の遥か及ばないところになっています。
母親自身にも人生があります。家族にもそれぞれ歩む人生があります。なによりも障害者本人がこの世に生をうけて、快適に人生を過ごす権利があるはずです。障害は個人責任ではありません。人間社会がともに支えあうものです。
それにしては、今回の自立支援法はあまりにも貧弱、貧弱すぎます。障害とは何か?の根底から間違っています。
8月1日から受付します、神戸での医療的ケア研修セミナーの概略を以下に貼付けます。申し込み書は後日掲載します。よろしくお願いします。
医療的ケア実践セミナー2006in神戸 開催要項
【名称】
医療・教育・福祉をネットワークで支える
医療的ケア実践セミナー2006in神戸
(略称:神戸セミナー2006)
【テーマ】
「医療的ケアが支える命・暮らし・未来 障害が重くても地域で快適に暮らせるために」
【日時】
2006年11月11日(土)AM10:00〜PM 4:30
11月12日(日)AM 9:00〜PM 3:30
【場所】
神戸・しあわせの村 〒651-1102 兵庫県神戸市北区山田町下谷上字中一里山14‐1
【よびかけ】
「障害者自立支援法福祉」の成立によって、障害者の生活は一変しようとしています。
このような福祉や医療の進歩によって、障害をもつ人々の生存権や快適に暮らす権利を保障していこうとする社会の流れに逆行するかのような流れもある中で、重度、重複化した障害児者をとりまく情勢も大きく動きつつあります。
教育の分野では、重度障害児教育の専門化とともに、超重度児といわれる医療的なケアを必要とされる学童・生徒の通学権の保障は大きな課題です。そして超重度児が高等部を卒業後、地域で快適に暮らすための体制・福祉への医療の取り組みは、まだまだ遅れたままです。
2006年4月から始まった養護学校への看護師導入。自立支援法による利用者への一部負担の押しつけなど、障害児・者をめぐる教育・福祉は大きな転換期を迎えています。
すべての立場の人が一同に会して討論し、連携をすすめる目的で、2002年春に「保健・医療・教育・福祉ネットワーク」が大阪で、秋には「医療・福祉・保健・教育のネットワ−ク京都」が生まれ、それぞれの活動を集約し、発展的解消をして2004年5月に「医ケアネットワーク近畿(保健・教育・医療・福祉)」として再スタートしました。その後例会(学習会)を繰り返し、情報交換しながら医療的ケアを必要としている人たちの生活が、保健・教育・医療・福祉のすべてを通して、より豊かで安全なものとなるよう意見・情報・技術・制度の交流を行ってきました。
このたびの神戸セミナーは、2002年の網野セミナーの内容を発展させただけでなく、消化器系と呼吸器系のケアの実践的研修を、臨床の現場で活躍する講師陣のご協力を得て行い、実技研修を含んだ、より実践的なケアを学び、身につけることを目的としたものです。
本セミナーの目的をご理解の上、ご支援・ご参加をよろしくお願いします。
【主催】
医療的ケアネットワーク近畿(NPO法人申請準備中)
代表 杉本健郎(第二びわこ学園園長)(日本小児神経学会社会活動委員会副委員長・事務局長)
協力:神戸大学保健学科地域連携センター(代表 高田哲・神戸大学医学部教授)
【主管】
医療的ケア実践セミナー実行委員会
(委員長 高田哲・神戸大学医学部教授)
【後援】神戸市教育委員会など(予定)
【参加費】8,000円(2日間通し)*食事は別途申し込みが必要です。
【定員】予定160人
【セミナー目的】
1)「障害者自立支援法」・「特別支援教育」時代の障害児者・家族支援の「保健・医療・教育・福祉のネットワーク」づくり
2)「医療的ケア」に関する講習と実技研修
【日程】(敬称略)
第1日目11月11日(土曜日)
10:00〜11:00 総論講義1(60分) 高田哲(神戸大学医学部教授)「医療的ケアと学校」(仮題)
11:00〜12:00 総論講義2(60分) 杉本健郎(ネットワーク代表)「わが国の医療と福祉の変質」
12:00〜13:00 休憩(弁当1000円)
13:00〜14:00 各論講義1:呼吸器系 三浦清邦(愛知コロニー小児神経科)
14:15〜15:15 各論講義2:消化器系 佐藤正人(北野病院小児外科)
15:30〜16:30 各論講義3:気管切開:気管喉頭分離術 中野友明(大阪市総合医療センター耳鼻科)
18:00〜20:00 交流会(本館ホール)参加費5000円(要申込)
第2日目 11月12日(日曜日)
09:00〜12:00 実技研修
◆4グループに分かれて呼吸と消化器を1時間ずつ受講していただきます。
(1)第二研修室(呼吸器)荒木敦(関西医大滝井病院小児科)
(2)第三研修室(呼吸器)岩見美香(滋賀大学障害児医療)
(3)たんぽぽ研修室1(消化器)佐藤正人(北野病院小児外科)
(4)たんぽぽ研修室2(消化器)出島直(民医連中央病院小児科)
*実習に参加されない方、その他の方のために並行して研修ホールで『わたしの季節』(第二びわこ学園利用者の姿)を上映します。
12:00〜13:00 休憩
13:00〜14:00 記念講演 :宍倉啓子(横浜・朋診療所所長)
「自立支援法下の横浜での医療的ケア」(仮題)60分
14:00〜15:00 総括と質疑 司会・杉本健郎(医療的ケアネットワーク近畿代表)
(研修終了)
休憩
15:10〜16:00 「NPO法人 医療的ケアネットワーク近畿」設立総会
◎セミナー事務局
クリエイツかもがわ
(株)クリエイツかもがわ
〒601-8382 京都市南区吉祥院石原上川原町21番地
電話 075-661-5741 FAX 075-693-6605
担当/田島英二・石沢春彦
【付属情報】
セミナー開催中 保育室を用意します。(要申込)
*医療バックアップ体制はしあわせの村内「にこにこハウス」(重心施設)にご協力いただきます。
【申し込み要領】
別紙の用紙(添付の表)に記入して、FAXまたはメールでセミナー事務局までお送り下さい。
7月2日 社会活動とぴんころり運動
1か月以上何も書かないで、失礼しました。あまりにもたくさんのことがありすぎて、ゆっくりとパソコンに向かって文章を作る余裕がなかったのです。
5月下旬から毎週のようにあっちやこっちへウロウロしていました。
まず5月下旬には日本小児神経学会がデズニーランド前の東急ホテルでありました。20世紀の後半までは、この学会は演題をだしてプレゼンテーションし、会場の反応を見る中で、自分の力量の到達点をはかるものでした。ところが2001年の大阪での阪大小児科名誉教授である岡田伸太郎先生が会長された学会からは、学会としての社会活動の年間の結節点として位置づけるようになりました。2002年には学会理事の当選し、委員会も立ち上げました。学会運営や学会の社会的役割については10年前くらいから、評議員会や自主的な会合等で声をからして必要性を訴えてきたのですが、当初は「総会屋」か「ごろつき」医師のような見方・扱いをされたようにも思いました。当時は医療的ケアの「黎明期」でもあり、主治医である集団のこの学会でも社会的にも無視できない状況に「社会的活動の訴え」がうまく沿う形になり、多くの若い医師の支援(いまはみんな中堅医師)をうけて「大きな流れ」になりました。そして2002年理事(3300人の会員で評議員は約200人、理事は20人)になりました。その後4年、社会活動を主に思いつく限りの活動を展開してきました。自慢ではないですが、むしろこのことをあからさまに批判する人もいますが、通常の(これまでの)医学的論文は一編も書きませんでした。2002年以降、いえトロントから帰国後、心境の変化がありました。社会医学も立派な医学である。小児神経学でも医療的ケアの中身や体制、法律的問題、意識障害の慢性化・脳死についての検討も大切な医学的研究であり、社会医学的研究であると確信したからです。
あたらしい治療方法をみつけたり、珍しいケースを報告したり、遺伝子的研究をするのも大切なことですが、すべて患者あっての医学です。自分の業績のために論文を書いたり、発表したりするのではなくて、社会への還元、人間の快適な生活への還元が最終目標のはずですから、
ここ数年取り組んできた僕の仕事を「医学的」でないとするのは、批判する側の不勉強を自ら暴露することになります。また大学をピラミッドの頂点とする古来の考え方が医学の分野でも崩れてきていることも確かです。重箱の隅をつっついたような「研究」で論文を書いて、どのように臨床(患者さんへ)に役立つのかわからないことを積み重ね、「えらい」教授になったところで自己満足に過ぎないでしょう。偏差値で有名大学医学部に入り、そのなかのごくごく一部が教授と云うトップに躍り出ることで、教授になった一部の医師は勘違いをしています。自分は勝者、勝ち組で優秀な人間と「自覚」してしまうのでしょう。昔の学会はそうした人たちの集まりだったのではないでしょうか。自己満足で自らが「織田信長や豊臣秀吉」と誤解している教授がいることは確かです。そして、医学部の場合、臨床系教授は人事権をも掌握し、大学周辺の病院への医師派遣権を私的に行使することも20世紀の後半では常識でした。このような大学医局制度に裏付けられたうえでの学術学会のリーダシップもありました。
今年の小児神経学会理事選挙で再選されました。これは社会活動を支援する多くの評議員票に支えられたものと理解しています。決して名誉職ではありません。任期は4年間です。この間にやらなければならないことが山積みです。重い障害を持つ人たちやその家族が地域で快適に暮らせるような日本にするためには、医療制度や福祉制度は今のところ1960年代へ逆もどりしています。我々小児神経の専門家は病気の診断をしたり、薬を出すだけではなく、社会で快適に暮らしていく支援もしなければなりません。治らない病気もたくさんあります。厚生行政に対して専門家集団の学会として指摘しなければいけない現場の視点があります。単に反対と声明を出すだけでなく、具体的な成果を引き出せるような社会活動を展開していきたいと思っています。
6月に入っての一週目は信州大学の玉井先生によばれての講義でした。昨年度も行く予定でしたが、例の胃がん手術で直前にキャンセルすることになり,本当に申し訳ないことをしました。
今年はそれが実行できて、それだけで自分的には満足でした。昨年8月に、なんとかうつ状態から脱する目的で諏訪中央病院などを訪問しました。表紙の写真はそのときのものですが、諏訪からの帰り道、塩尻で考えました。玉井先生におわびに行こうかと松本方面へ一度は向かいました。でも当時は足下もおぼつかない病み上がりで、途中で引き返しました。申し訳なさを持ち続けていたのですが、今年の正月に玉井先生から「今年こそ来てくれませんか?」とメールを頂いたときはうれしかったです。そして、それを実行できた。宿題を片付けたときの喜びでした。
前日の食事のときの話題ですが、いま信州の街や村で「ぴんぴん ころり」という踊りと歌が普及していると聞きました。簡単に言えば、年老いてもぴんぴん元気に生活し、死ぬときはころりと死のうという踊りだそうです。たしかに、死ぬときは周りに迷惑かけたくない、ねたきりになりたくない、という想いはあるでしょう。僕も個人的には死ぬ時は家族に迷惑かけたくないと思っています。直前まで元気にしていて、そしてころりと死にたいと思います。でもこれは我が国の公的な介護システムの貧弱さの裏返しでもあります。もう一つ、尊厳死を支持するような運動でもあります。
このままの施策状況が進むと、この「ぴんぴん ころり」運動は全国制覇するのではないでしょうか? 後ろの言葉「ころり」は不要。ただ歌の全文を知りません。ご存知の方はよろしくご教示ください。
5月27日 Love Love Love
雨かとおもいましたが、気持ちのよいさわやかな一日でした。
昼前から神戸のしあわせの村へ行きました。あまり名前が好きでなかったので、期待はしていませんでしたが、いやーびっくり。天気も見方したのでしょうが、広大な土地、みどりいっぱいの地で、ちっぽけな日本にいる感覚が吹っ飛びました。かつて見た、テキサス・ヒューストンやトロントの若葉の季節を彷彿させる気持ちになりました。
来る11月11日と12日、ここで医療的ケアネットワーク近畿の医療的ケア実践セミナーを行います。その下見でした。大略は明日のネットワーク例会の運営委員会で決めてこのHPにもお知らせします。
今日の日記の主題は室井佑月とブログの仲間たちに掲載された「ラブレター」の一つを紹介します。
タイトル:最後の修行<ラストページ> ヨウヘイ へ ウルトラヤース/45歳 から
お前とは、結局、話すことは叶わなかったね。
誰もが持つ微かな希望も,毎日の繰り返しの中で擦り切れ、いつの間にか1%の希望も消え去っていた。
生まれたときから、見ることも話すこともなく、今まで来ました。お前の刹那の笑顔に一喜一憂したものです。それすら、先生からは条件反射だと切り捨てられました。
毎年のように生死の境をさまよい、決まって年末年始に入院する。まるで恒例行事のように。
いつのまにか体中チューブだらけになったね。頭の水分をお腹に逃がすため体内を這うシャント・チューブ。誤飲で肺炎を起こすことが多いため、その対策として胃に直に入れられた胃ロウ・チューブ。時々増えるのが、痰を吸うための吸引チューブ、酸素を吸うための吸入チューブ。俺なら、どれもこれも払いのけたくなる。
必ずそこにいることが日常じゃない恐怖。むせたらオロオロし、泣いたらオロオロし,オシッコやウンチがでないとオロオロする。
「障害児を抱えているのに明るい」と感心交じりに言われることも度々ある。
暗くしてないといけないかのように言われる。同情の押し売りをされている。
明るくしてないと押しつぶされるよ。家族旅行なんて夢のまた夢になってる。
お姉ちゃんもお兄ちゃんも、そんなことに不満も言わずにお前を見てくれる。
それどころかお兄ちゃんは、お前を治すことを夢見てる。
普通なら、親が先に逝くことは自然で、喜ばしいことでもある。でもお前を残して逝くことは辛い。逆になるのも辛い。なすがまましかない。
それでも、他の親にはない密かな喜びもある。それは高校生の息子に嫌がられることなくキスできること。どーだ、いいだろう!
最後に、これをお前が話きかされているとすると、俺はお前の「最後の修行」のラストまで付き合えなかったということだね。
必ず生まれ変わって、また続きをやろう。
今度こそラストに向けて。
(ソフトバンククリエイティブ・東京、2006、172〜173ページから)
ときどきこのHPにも書き込みくださるウルトラヤースさんです。ヨウヘイ君は前向きで愉快なとうさんとかわいいかあさんと兄姉にかこまれてチューブをいっぱいつけて「日常」を生きています。重い障害をもつ児の父の生き方、考え方が素直に表現されています。厳しい現状に「あきらめない父ちゃんの姿」に感動しています。
このごろ落ち込んでいました自分を恥じています。ウルトラヤースさん、元気をありがとう。
5月14日 年のせい?
もう年齢のせいだと思いますが、物忘れがはげしいです。車に乗っていたときもふっと思い出した大切なことはすぐさまメモにしないと完全に闇に消えてしまいます。信号で停車した時に急いでメモにしますが、走り書きになります。紙に書いたことで安心するのですが、あとでその紙を見た時、字が読めないのです。自分で書いたメモ内容が自分で解読できないのです。こんな憎らしいことはありません。
夕方、少し時間があったので草引きをしました。そのときはたしか眼鏡をかけていたと思います。でないと細かな草の根っこが見極められませんので。でも夜、かけていたはずの眼鏡がみあたりません。思いつくところ3度探しましたがありません。きっとおもいがけない場所にあるのでしょう。情けない話です。
こんなことが続くので、このごろ「僕は聞いていない」「そんなこと聞くのはじめてや」「どうして話してくれなかった」などという相手を叱責するような言葉は極力使わないようにしようと決めています。何処まで聞いたかを判断する能力が既に失われていることを自覚するようになったからです。同様のことは、以前にお会いした人にも「はじめまして」と云ったり、お名前を殆ど覚えていないのは当然として、いえ顔すら覚えていないのです。
文章が下手なことは自覚しています。下手なくせに推敲もしないで公のための文章を一気に書ききってしまいます。ぼくがしゃべるときは「気持ち」で話しますので、なんとなく「気持ち」が伝わります。主語、述語がバラバラでも意味は通じます。でも書いた文字は駄目です。おまけにやたらカタカナを使う。人に理解してもらおうとするときは、出来る限り丁寧に、優しく書かないと意思が伝わらないことを今日もあらためて認識しました。
このことを書いておかないと、また同じ過ちを繰り返すのです。
これまで書いてきた内容と同じような不定期日記をいつか書いたことがあるようにも思います。記憶のよい方は「また同じことを書いている」と思われるでしょう。でも本人ははじめて書いたように思っています。自信はありませんが。
目の前にぶら下がっている課題をその日暮らしで消化していくだけの毎日で、余裕がありません。このHPの亢進もいつのまにか1か月触らないままになっているようです。毎日アクセスして書き込み内容は確認していますが、あくまでビジターです。 あっと、またカタカナを使いました。
新しい週が始まります。先週は宇都宮での全国施設長会議で、この週末は日直と家族会でした。期限が迫っている原稿や返答しなければならない宿題が重なっています。一つ一つ消化しないといけないと思いますが、なかなか進みません。
つまらないいつもの愚痴でした。
これも老いなのでしょうか。それとも病気なのでしょうか。
4月16日 臓器移植法の討論
いよいよ国会で臓器移植法「改正」案論議がはじまります。この法案については、ご存知の通り2001年のバレンタインデーに大阪府立大学森岡教授と共同提案しています。あれから5年経ちました。日本小児科学会でも子どもの目線でこの問題に取り組みました。今国会で下記のA案を多数決で可決しようとしています。18日国会議員会館での与党勉強会で発言の機会を与えられました。その発言に先立ち基本的な考え方を以下にまとめました。この問題は、単に子どもの移植の是非だけを問うのではない。一つに日本の医療制度の透明性、情報開示が問われ、関連した様々な基盤整備が求められています。もう一点は「いのちの多様性」「いのちの尊厳」についての国民的討論が問われています。
「子どものいのちと死、そして親の想い」 第二びわこ学園 杉本健郎 2006.4.18
わが国の臓器移植法は、世界でまれに見るドナーカードを基にした「自己決定」の承諾方法をとった。現法は本人と家族の両者の承諾が必要だが、A案は、基本的にヒトは脳死下の移植に合意していると考え、本人の拒否表示がない限り家族だけの了解でよいという。私は自己決定、自分の意見表明を基本とした現法の延長線上で、子どもの脳死からの臓器提供を考えるべきと思う。具体的には2001年2月、森岡・杉本改正案としてすでに公表している。B案はそれに合意するものであり、私はB案を支持する。
日本小児科学会は2003年、(1)小児の自己決定を尊重するために、(2)被虐待児脳死例を排除するために、(3)小児脳死判定基準の検証、の3つの提言をした。2003年11月から小児脳死臓器移植基盤整備ワーキング委員会で検討を始めた。結果、1999年以降2004年春までのアンケート調査では、15歳未満の小児脳死例は年間40~50例と推測される。1994年日本も国会で子どもの権利条約を批准した。権利条約は子どもの自由な意見表明や社会参加をうたった。条約は憲法に次ぐ拘束力を持つ。今問われている子どもの脳死・臓器移植でもこの条約の精神を討論すべきである。子どもは親の従属物ではない。年齢相応の表現力を無視しないでそれを受け取る方法を考えるべきである。ドナーだけでなく、子どものレシピエントの立場も同じ。手術の内容やわが身の生と死についても、子どもにあからさまに話していく努力が必要である。これに関しては、講演でわが子のドナー経験と小児脳死心移植第一例の術後新たに知的障害を持ったことを指摘した。子どもは意見を述べる「力」がない、聞く耳がない、権利がない、と討論する前から切り捨てるのは危険である。かたや、同上アンケートでの子どもへの虐待数は1452例もあった。被虐待児の生きる権利を守る必要性はここに述べるまでもない。
小児の脳蘇生学は未知のことが山積みである。小児の脳死状態を正確に診断するための基準作りは不可能である。1985年の脳死診断基準作りの中心になった武下浩は、基準の根拠を以下の通り述べている。1)脳の反応性が不可逆的に消失し、数日から数週で心停止に至る状態を記述する、2)広汎かつ重篤な脳の壊死を正確に予測する、3)脳機能の間接的評価である平坦脳波、脳血流の消失をみる、の3点である。竹内基準はこれを経験的に組み合わせたものである。基準の一貫した考えは、脳死状態は臨床的存在であり、診断は臨床診断で、脳死判定の中核は、脳幹機能の指標としての脳幹反射検査と無呼吸テストであると明記している。2000年小児基準では脳波記録や無呼吸テストの方法に詳細な条件が加わったが、基本的には竹内基準と同内容であった。私は上記3点に医学的に問題があると考える。1)については、長期脳死があり、2)については、1985年診断基準を満たした小児例で身長が伸びることが説明不能になり、3)の平坦脳波に関しては、頭皮上脳波が脳深部の機能まで記録できる検査法ではなく、平坦脳波は必ずしも全脳死を裏付けるものでない、という問題である。
次の問題は、今回のアンケート調査でも明らかになった病棟での多くの脳死診断方法にある。厳密に2000年診断法によらない「臓器移植をともなわない一般的脳死診断」であるという事実である。小児科管理的立場の医師の80%が脳死は死と考えている。医師の考え方はわが国の医療現場では治療方針に影響を与える。一般的脳死診断では、武下のいう脳死判定の中核の一つである無呼吸テストを実施するか否かは小児科医の裁量に任される。さらに武下は、「一般的脳死判定では、医師(医師団)が脳死と判定すればそれで問題はない。移植とは全く無関係な脳死状態の患者について、人工呼吸器をはずす、昇圧薬を中止するなどの対応が必要となるときも、竹内基準に沿った診断が望ましいが、治療停止の場合と法的脳死判定とは本質的に別問題である。医師の裁量で判定できる」と述べている。脳死診断基準を満たすことが死であると認知されていないときに、不十分な医師の診断のもとに、果たして医師の裁量で治療を中止することができるのか否かは広く問われる問題である。今回の富山での人工呼吸器中止事例もこの同一線上にある。
心移植で生き延びたいと切望する患児や親の気持ちも理解できる。小児の脳死診断基準を確実に実施することと、その基準を満たすことが死であるという社会的認知、「線引き」が必要になる。小児脳死現場での対応は様々である。病状を含めた二次アンケート調査では、脳死例の24%が脳死状態で1か月以上心停止がこないで小児病棟で治療している現状がある。
脳死について米国などの移植「先進国」の考え方は一週間であろうと20年であろうと、自発呼吸が戻ったわけではない。脳死はあくまで死へ一方向の非可逆的な(ノー・リターン)状態である。その間の意識状態は強く障害されているのだから、「人間として」意味のない、価値がない、時間と位置づけ、それ以上に治療を続けることは人間の尊厳を傷つけるものだという哲学に裏付けられ、1980年代の討論はそのままになっている。すなわち現在の問題は、終末医療のあり方と移植医療の推進の討論が混じり込んで、本来の科学的脳死論議とはかけはなれたところにある。私は正確な言葉の意味を理解した上で「脳死は果たして死なのか」や「終末医療のあり方」について広く医療的情報をも公開して国民的討論が必要と考える。脳死診断はどうしても移植の問題を避けて通れない。脳死診断に上記の問題点があるとしても、移植医学の視点と終末医療の考え方から、できる限り厳しい基準を作り、診断基準を満たした場合に死と決めるのであれば、それらを認知した広い社会的合意が必要になる。現時点でA案を認知することは到底できない。
3月26日 第二びわこ学園平成18年度事業方針(3月24日びわこ学園理事会で決定)
法人事業方針に示された通り、びわこ学園は医療、福祉に関する各種制度の改革など大きな変化が迫っている中、今日まで取り組んできた各種の重症児者施策事業の抜本的な見直しがびわこ学園全体として急務であり、将来に向けた学園の基本的な経営戦略を再構築すべき緊急かつ重要な時期に直面しているという認識にたって第二びわこ学園の事業方針を組み立てます。
法人が示した各課題を解決するための重要事項について、第二びわこ学園としての事業方針を具体的に述べます。
1 新しい制度環境に向けた経営戦略の構築
(1)障害者自立支援法に基づいた事業体系の選択と各施設の機能特化を図ります。
第二びわこ学園はプロジェクト会議での討議、および法人経営会議での決定に沿って、入所利用者のサービスを確保し、職員のモチベーションをさらに高める視点から、積極的に新しい制度の採用を見通した上での運営を検討します。また、新しいしい制度でサービス低下が予想される内外の利用者については、情報公開の下、関係者と充分な話し合いの下,制度上考え得るベストの選択を目指します。
(2)第一びわこ学園、第二びわこ学園あわせた6つの病棟での運営体制を確立します。
第一びわこ学園の利用者のサービス低下をきたさないように、また職員の過重労働を緩和するために、一つのびわこ学園の視点にたって第二びわこ学園として積極的に関係者の話し合いに応じ、対応をしていきます。
(3)地域に重症児者の医療,介護の拠点作りに努力します。
すでにある訪問看護ステーションの看護師スタッフの質量をともに充実させるとともに、リハビリテーションスタッフおよび介護系スタッフとの連携強化をはかり、まずは湖南,湖東圏域での重症児者の地域のニーズに応えられる事業展開を目指します。
次年度以降、地域事業部の改組とともにびわこ障害者支援センターとの統合、各通園施設との連携をも視野においた活動を行う。この拠点は、近い将来、学園内外の重症児者が利用する「町中の住まいや日中活動」の拠点作りの導線、ネットワークのキーステーションとして位置づけます。
なお、今年度は訪問看護ステーション事務所を第二びわこ学園施設内において上記の準備を進めます。
A型通園、身体障害デイサービス(制度廃止予定)についても新制度の全容が明らかになった後、利用者のサービス低下を出来る限り避ける立場で運営を考えていきます。また、彦愛犬、こなん、湖北通園についてもバックアップ体制を維持します。上記地域以外への事業展開は、圏域内の他の社会的資源との協議・調整・連携にも留意します。
2 厳しい経営収支の見通しを踏まえた合理的な財政運営
(1)機能的な事務体制の整備に努め、的確な予算執行を図ります。
(2)事務の合理化、諸経費の節減、人件費の抑制に向けた取り組みを進めます。
前年度同様、節電,節水等の経費削減に努め、委託内容についても再検討し節約を計り、第一びわこ学園との共同購入による合理的契約にも努めます。また、人件費削減については、前項1-1にも示したように、サービスを落とさない合理的な病棟再編を模索する中で検討します。
3 事業・運営を進める際の組織的な対応
(1)事務事業の指揮命令系統に基づき、業務遂行の権限と責任の所在を明確にするとともに、組織間の相互連携のできる体制の強化に努めます。
事務事業にかかわらず、各部の連携、たとえば地域事業部、指導部、医局、看護部の連携によるサマースクール、ショートステイ、公開講座などの円滑な運営を推進します。そのための方策の一つとして管理棟内の各部署の連携がより活性化するよう、空間利用の変更を行います。
(2)職場環境を改善し、組織の活性化、情報伝達の確実化、職員の士気の向上に努めます。
職場環境の改善と内外の利用者のサービス低下を来すことのない再編への討論を組織内、現場、全体会で行います。日々の情報は園内(閉鎖性)ネットワークを用いて即時に各職場で受信,発信できるようにし、関係者への情報伝達・交信を簡単に行えるようなシステムにします。また、このネットワークを通して現場で働く若い職員の意見も積極的に受け止めます。
4 学園の各種情報の積極的な開示と、経営の透明性と信頼性の確保
(1)法人の経営状況についての第二びわこ学園内および家族への情報提供は積極的に実施します。
(2)施設利用者の事故、利用者等からの苦情、年金管理、第三者評価などの情報を積極的に開示します。法人の経営状況、情報などは運営会議、全課長会議を通して、プライバシー,個人情報保護法に触れないものについてはすべて公開していきます。
事故については基本的に現場責任で即座に対応し、即座に最終責任者への報告を行うとともに、被害者(本人及び後見人・家族)には迅速かつ確実に謝罪するようにします。事故経過,教訓、最終報告は事故対策委員会を通して討論後、関係者に情報公開する。また、別に発足し機能しているリスクマネジメント委員会でも現場視点で事故予防や解析を行い、運営会議へ直接提言するシステムにします。リスクマネージャーは施設責任体制とは別の視点で内外の利用者の安全なサービス利用と職員の事故予防の環境作りのためのプロフェッショナルとの自覚のもと発言し、プロとしての研鑽にも努めます。
職員は内外の利用者のどんな些細な苦情にも耳を傾ける姿勢を持ちます。原則は本人または家族からの苦情ですが、必要な場合現場職員から苦情処理のための情報を出すこととし、適切で納得できる解決に努めます。これらの事故報告などは発生時電話、報告書は園内ランを用いて行うようにします。
5 質の高いサービスを提供するためのシステム強化
びわこ学園の方針のもとに第二びわこ学園でも取り組みます。(別項でそれぞれ具体的に述べております。)
6 地域生活支援機能の充実強化
既に別項で述べておりますが、重症児者の地域生活支援の場作りと実際の事業展開を本年度はさらに具体的させるように努力します。自立支援法施行後、地域の安楽な支援が極めて難しくなる状況が予想され、また、在宅で医療的ケアや重介護でがんばってきた家族の疲労と高齢化が目立ってきています。自立支援法の厳しさが比較的遅れてやってくる入所施設であるびわこ学園へ地域からの入所希望が激増する可能性があり、その予兆は既に現れています。現在入所している利用者へは、なるべくサービスを落とさないで自己決定を実現させる立場を貫きながら、出来る限り新たな入所希望者への対応を各行政機関とともにびわこ学園の再編の中で考えて行きます。この討論内容は随時関係各位へ情報提供します。
7 医師・看護師の安定的な確保対策
(1)医系,看護系大学、看護師養成機関及び関係団体との連携強化を図り、びわこ学園の情報の積極的な発信及び啓発活動を実施します。
(2)びわこ学園の障害児者支援理念に基づいた職場組織の活性化と、教育責任を明確化した医師、看護育成プログラムを具体的に実施します。
病棟カンファレンス、医局カンファレンスだけでなく全体のカンファレンスや症例検討を実施するとともに、第二びわこ学園が蓄積してきた重症児者への支援のノウハウを学園外にも積極的に発信し、報告していきます。医師,看護師の学会への報告や論文の発表も増やします。医師研修もびわこ学園として独自に行うとともに、看護師研修には医師も積極的に協力します。
8 地域との交流の活性化など
法人びわこ学園の方針にあげられた項目については、上記述べたように第二びわこ学園の方針として具体化して提示しました。それらに加え、地域の中で第二びわこ学園が社会資源として機能を発揮するため、また利用者(入所、通所)の地域住民としての位置づけをより明確にするため、様々な形での地域交流をより活性化し、また第二びわこ学園としての情報を発信します。
3月19日 卒業式
ある養護学校の卒業式のこと、と書いても「どこや、どこや」になります。滋賀県の肢体不自由児が主の某養護学校ということで話を進めます。この記録は来賓席(僕をいれて3人)に第二びわこ学園園長としてすわった位置から書きました。しかし、内容は全く杉本個人に責任があることを明記して始めます。
まもなくこの学校も特別支援教育の一貫施策もあり近くの(といっても結構距離はあります)知的養護と統合され、新しい場所に新しい学校が新設されます。何度も足を運んだ「来賓席」でしたが、前夜の思いつきとして、一つの歴史が終ろうとするその切り目の行事である3月17日の卒業式を記録に残しておこうと思いメモを礼服のポケットに用意してでかけました。
「うなぎのねどこ」(実際はしりませんが)のようなつぎはぎだらけの平面的に3方へのびる建物です。おそらくは、入学児童が増えるたびに増設されていったのではないかと邪推していますが、何度きても位置関係がよくわかりません。
いつも行事をされる体育館は、この日も雨が降っていたせいもあるのか、いつものように「暗く、寒い」ところでした。薄汚れた天井も気になります。
卒業式の雰囲気作りでいろいろ趣向がこらされ、飾り付けがされていますが、残念ながら座位や立位の目線方向で、臥位状態の目線でみるとなにも飾り付けはありません。一生懸命準備された先生方、ごめんなさい。悪口です。
でも結論から先にいうと「感動した」卒業式でした。
なんといっても第二びわこ学園の若者利用者代表のようなD君が中学卒業しました。そして僕が主治医として診療している二人が小学校卒業でした。すなわち2割強の卒業生が「顔見知り」なので余計に気合いが入りました。
卒業生入場、国歌君が代斉唱(僕はいつも歌いませんが、雰囲気こわしたらいけないので立位で聞きました。司会の先生の声が独唱のように僕は「感じ」ました)、来賓紹介(これが苦手、いつも頭を下げるのみ)、校歌斉唱、これは子どもたちの声もふくめて、でかくて楽しそうな声が体育館に響き渡りました。
「あゆみ」というプログラムで、1人ずつ卒業証書が校長先生から渡されました。一人一人、プロ野球のバッターボックスにたつ時のテーマソングのように、別々の音楽が流されました。このメロデーは自己決定なのでしょう。親の想いもあるでしょう。担任の先生がその卒業生にちなんだものにしたのでしょうか?でもなかなか楽しい趣向です。日頃の外来ではいつも難しい顔をして車いすに乗っているS君は歩行器を校長先生の前まで一生懸命押していました。
いい顔でした。外来ではみたことない笑顔でした。
その後、卒業生1〜2ずつ3年、6年間の紹介、自己紹介がありました。舞台上の大スクリーンでパワーポイントによる映写も並行利用しながら。
第二びわこのスターD君は、昨秋新幹線でデズニーランドへ行ったスライドが紹介されました。人工呼吸器をつけたD君がたくさんの人たちの理解と援助で無事修学旅行に行ってきました。
50数年生きてきた僕にとっては「ほんの短い時間」なのですが、一生懸命生きている子どもたちにとっては、長い長い道のりと感じていると思います。そのけじめの楽しい卒業式は、その人なりの想いのなかで、きっと記憶に残ると思います。
ただ、自分が疲れているからかもしれませんが、語られる言葉の中で、やたら「がんばりましたね」「これからもがんばりましょう」「がんばってください」など、がんばり節がいやに耳につきました。教育とは、がんばるものなのですね。今更ながら再確認するとともに、がんばれない子どもはどうなるのか、ちょっと気になりました。障害の重い子どもたちの場合は、親が心身ともにがんばらなければなりません。
そういえば、僕にとっても小学校時代や中学生のときは、一年がやたら長く感じました。とにかく「がんばること」が嫌で嫌で、でも大きくはめをはずす勇気もない、一見「優等生」ぶった自分像が浮かびます。正直、物覚えの悪さがあるからかもしれませんが、自分の卒業式の思い出は見事大学まで含めて全くありません。きっと楽しくない儀式だったのでしょう。
この卒業式にはもちろん第二びわこ野洲校舎在校生一同も出席しました。第二びわこから大型バス一台、マイクロバス一台、人工呼吸器装着者にはそれぞれ看護師つきです。この間学齢期の子どもたちの部屋は空っぽになります。第二びわこは重心施設ですが、学齢期児童生徒6人は訪問教育ではなく、通学籍です。よってマンツーマンで障害児専門教育を受けた先生が張り付いています。滋賀県教育委員会の先進性を示すものと思います。
そして、卒業式とは直接関係はないですが、来年度から要望していた「学校看護師」を教育委員会の責任のもと、野洲校舎にも配置することが決まったと聞きました。教育委員会の英断と配置を要望する運動を支援くださった方々にこの場をかりてお礼申し上げます。ありがとうございました。課題はまだまだありますが、大きな前進だと思います。
卒業式の話題で追加すれば、21年前に瀕死のベッド上にいた長男の卒園式が17日だったように思います。そして、その後に生まれた息子もこの15日に地元中学を卒業しました。時の経つのが早いですね。歳とるのも早いです。全く消えた記憶といつまでたっても消えない記憶。消えてはならない記憶は、このような節目節目で記憶が決してぼけないように磨きをかけることにしています。
2月18日 久々の医療的ケアネットワーク近畿の例会
昨年の河本さんの来日講演以来,ご無沙汰していました医療的ケアネットワーク近畿の例会を久々に開きます。代表である僕が「へたって」いましたので、みんな動きにくかったのだと思います。申しわけありませんでした。やっと会議でも大声張り上げて、大げんかできるまでに復調しています。この福祉,障害児者医療への締め付けの厳しい中に人生を生きていることを実感しています。そして自分の生き様をストレートに投入できる機会を与えられたような想いも感じています。
ネットワーク近畿の開催要領は以下の通りです。
3月11日土曜日 午後2時から5時 場所はいつもの「あいほうぷ吹田」です。
テーマはズバリ
「自立支援法開始寸前情報交換・地域重度障害者の切り捨てか?」
1)総論 杉本健郎
2)通園施設 大阪 あいほうぷ吹田から報告の予定
3)重障児通園B型の今後 京都 シサムから報告の予定
4)利用者の自己負担 ご家族の予定(もし立候補ありましたらスギケンまでメールください)
5)討論
といあわせは スギケンか クリエイツかもがわ まで
自立支援法の中身が少しずつ見えてきています。最近の話題では、重度包括支援サービスが障害程度区分6(最重度)のみで、全国で1000人しか予想していないとのこと。これは驚きです。地域でどんな重い障害をもっていても安全で楽しい生活を支援しようとする自立支援法のはずが、極めて「限定」したサービスになりそうです。これまで学校を卒業することよりも、入学することすら難しかった重症心身障害児が、医療的ケアが充実し、支援内容も質的にアップする中でどんどん成人を迎えています。一生懸命支援してきた親も子どもと同じく年齢を重ね、無理が利かない体力になってきています。家族の支援には限界があります。地域での公的な支援サービスが充実しない限り真の自立等あり得ません。学校の医療的ケアも大切ですが、放課後、休暇中、そして卒業後はもっともっと大変です。昨年の河本さんの講演にあったようなスウェーデンの現状と比較するにつけ、我が国の施策の「貧しさ」を嘆く日々ですが、黙っている訳にはいきません。あらゆる立場から情報をもちより、それぞれの立場を理解しあい、具体的な対策も討論しましょう。
1月15日 野洲高校サッカーありがとう
もう先週のことになりますか、全国高校サッカー選手権で滋賀県立野洲高等学校が優勝しました。すぐにでも書き込みたい気持ちでしたが、同じ野洲市にある我が職場の課題が山積みで、遅れてしまいました。みなさんも実況中継をご覧になった方やニュースでのゴールシーンをみられて、彼らの戦いぶりがこれまでの高校サッカー、いえこれまでの中学,高校等の若者スポーツのあり方、考え方を変えるような、大げさにいえば若者スポーツに関するサブカルチャーを変えるできごとであったように思います。
僕が感動したのは、滋賀県の三上山をはさんだ反対側にあり(車で5分くらい)、つね日頃グランドの横を車で通過しているという「郷土意識」だけではありません。ただ試合を見続けたのはその関係がありましたが、感動は別にありました。
すでにいろいろなメデイアが伝えていることと同じなのですが、上意下達、問答無用、「走れ走れ」「体を強く」「我慢我慢」「がんばれがんばれ」という10代のスポーツ指導哲学に対して、小さなときから「楽しく」「遊んで」「ボールとたわむれて」そして試合になれば合理的、組織的な指導の基に個人で培ってきた技を披露するというパターンを作りました。
また、監督の顔がいい。若者の方を向きながら、高校サッカー界に挑戦状を叩き付けるあの目、そして優勝インタビューでも笑顔でニコニコしながら先を見通した表情で答える。これまでになかったスタイルでした。これまでは「みんなよく苦しい練習をしてきてくれた。そのおかげで俺(監督)は男になれた。みんなありがとう」といって普段は笑いもしない厳しい顔をくしゃくしゃにしながら涙を流すパターンでした。
人口5万人たらずの街はずれの田んぼに中にある400人前後の生徒数の野洲高校で、近畿圏でいえば「田舎の高校」の位置にあるにもかかわらず、まさにスマートな試合ぶり、テレビで見ていたおじさんたちが拍手を送るおもしろい、あきないサッカー、「都会的?」「ブラジル的?」サッカーを展開したことは実にすばらしい構図でした。
働くよろこびやモチベーション、プライドを捨ててまで、会社のために、○○のために歯をくいしばってはたらいてきた団塊世代のおじさんだけでなく、今の日本に欠けているものを指摘してくれたと思います。サッカーが好きだから、玉を蹴るのが楽しいから、から始まるスポーツであり、ひいては楽しい試合、楽しい仕事でなければなりません。
第二びわこ学園はもとより野洲高校とも交流があります。優勝の次の日、園内で短い時間であっという間に「感動ありがとうお礼カンパ」が集まりました。それを利用者の代表が課長つきそいで高校まで届け、おまけに監督とのツーショット写真をとってきました。
おかげさまで、僕も年を越えて体調(身体的、精神的)が戻ってきつつあります。今年は春から前向きに歩いていけそうな気分です。昨年は失速し大変ご迷惑をかけまましたが、今年はすこし前進します。よろしくご指導ください。
12月31日午後11時 40年前の日記
このごろ丹波篠山の田舎で二人で住む80歳後半の老夫婦が気になるので時々名神高速をぶっ飛ばして帰ります。京都南インターから1時間です。31日ですから門やトイレなどに、年々お粗末になる飾りものを飾ったり、庭の腐ったままの塀を処理したり、息子として働きました。
休憩に古いものがしまわれている二階へあがり、僕の古い日記を見つけました。40年前のものです。
1965年1月1日金曜,曇り
「紅白歌合戦をみた」「ゆく年来る年」をみた、などたわいもない生活。田舎の元旦は、開業医(当時)をしていることもあり、朝からにぎわう。「酒を飲んでわいわいがやがや」と早朝から始まる。僕はこれが一番嫌だった。常に家族でない人が出入りしている毎日。正月は特に多い。父母ともに商売柄、家庭的なことは一切ない毎日で、複数のお手伝いさんが親代わりのような日常生活に子どもながらすごく抵抗があった。
1965年1月3日は晴れで、当時趣味以上に凝っていた考古学の大先輩(今は故人)のバイクの後ろにのせてもらって、丹南町(いまは篠山市に合併)の史跡巡りをした。「窯跡、山城跡,横穴古墳など」を丸一日めぐった。これは今から思い出すに、人の良い大先輩(役場に勤めていた男性で地域の考古学者)が考古学への進路を断ち切るセレモニーとして僕を丸一日あっちやこっちへ連れて行って、その間に「ほんまにこれを仕事に出来るか?」と何度も細い目つきで問いかけたのである。どうもこの日が目標転換の分岐点だったようである。そして、帰宅後日記には二年後に迫った大学入試のことが書いてある。
1965年1月13日天候不明
「ぼくはだめだ。もう二年後が大学入試である。それなのに成績は下がるばかりだ,,,やる気がわいてこない、根性がないのであろうか」3日の日記には考古学が捨てきれない、東京の大学で考古学を学ぶつもりでいたであろう。ところが10日後は「この調子で行って医者になれるだろうか。長男はつらい。たいへんつらい。家を継ぐ義務がある(実際57歳になっても継いでいないが)、しかし、医者にならないにしても、、、、なるべくなら医者になりたくない,,,俺も男だ,嫌でも医大にはいってみせる」と「がんばるよりしかたがない」とむすんで、実際入学した関西医大よりも偏差値の高い大学名が二つ書いてあった。
今、11時半 最初の鐘がなりひびく、さあ 去年のいまわしき煩悩を忘れ去ろう,捨て去ろう
どうやら40年経った今も同じことを考えているようだ。
「田舎の医者業を継ごうか?」と。40年間巡り巡って結局17歳のときと違うのは医者になって30年経っている、その時点であらためて同じ悩みをもつはめになった。
老いた二人の旧医者を誰が支援するのか?お前は長男だろう(二人の妹は嫁いでいる)
それにしても通っていたのは三田学園と云う男子校だった。日記のあちこちに「女」という文字が出現するのは青春真っ最中だったのであろう。行動せず、ただ見てるだけの世界ではあったが。
うるさいくらい書斎ロフト3階には2006年の鐘の音が聞こえてきます。
あけましておめでとうございます。 なんとか手術前の元気に戻れるようにあきらめないで少しずつ歩を進めます。よろしくお願いします 。12時5分
12月18日 お誕生日
不定期日記、さぼっています。
書き込む内容がない訳ではないのですが、文章を書くエネルギーがないのです。前回は京都新聞のコピーで間に合わせたというのが本音です。でもたいへん嬉しい内容だったこともありますが。
今朝は京都市内、この冬始めての銀世界でした。僕の居住空間は3階でロフト同様の穴蔵のようなところです。そこの窓から見える京都タワーへの風景が真っ白でした。いろいろなきれいな風景も汚い風景も白一色にしてしまう自然の力に改めて感動しました。
数日前、57歳の誕生日でした。この年齢になっても誕生日を「おめでとう」と云われるのが「気恥ずかしい」のです。加齢とともに,余計にその想いが高まります。朝起きて,今日一日をどのように過ごそうかと身構えてしまいます。その朝の運転もなんとなく慎重になります。名神高速を慎重に走ると、「じゃま、じゃま」と云わんばかりに勢いのある車が「あおって」きます。「落ち着け」と自分に言い聞かせて走らないと、ついつい売られた喧嘩を受けてしまいます。気持ちはまだまだ「青い」のでしょう。「もう57歳、そして今日は誕生日」と自分を鎮めます。
職場では誕生日であることを気付いてほしくない、指摘してほしくない、という想いでいっぱいです。でも午前中の外来で、二時間かけての遠距離で、外来診療時に自分でケーキを焼いて持参してくださると、申し訳ないと思いつつも、大変幸せな気分になりました。午後はびわこ学園の経営会議でした。短く終らせるには僕が黙ること、と言い聞かせて会議の席につきました。もちろん途中でカロリーメートを二個かじりました。夕方,必ず低血糖症状がでます。発言したくても声がだせないので、早く終らせるには丁度いいのでしょうが、しんどいです。結局寒風のなか第二びわこをでたのは7時を過ぎていました。帰宅していつもの通り一人でチーンして夕食。頂いたケーキを一人で食べるのもこの年齢の誕生日の一つのパターンだと認識しました。就寝前に、携帯で西宮に住んでいる娘からおめでとうコールがありました。これで人生たった一度の57歳の誕生日が無事終ったと想い、ほっとして寝ました。
17日、午前中男山病院で神経外来をしました。午後から吹田での講演もあって、少しだけ予約を減らしてもらっていました。いつものように朝8時半には外来の椅子にすわります。この日も調子を崩した方が何人かおられ、結局終ったのが1時半でした。以下のことは午後の講演の冒頭にも話ましたが、診察する一人ひとりの生活がみえます。ドラマがあります。診療の中でお話を聞くと喜怒哀楽,どんな話でも主治医として気合いを入れられます。
当日のドラマ
その一、日頃在宅で、35歳をこえ、殆ど自分で動けない、さらに重い知的障害をもつ息子をつれて夫婦二人で遠方へでかけました。ご本人は予想に反して落ち着かれていて、笑顔がありました。その家族にとって35年の歴史ではじめての出来事でした。お母さんは「この子は最近出来ることが増えてきたのです」と。そのことに励まされ老いを感じながらも共感しながら日々生活されている姿をみました。この男性はこれまで地域の通所施設へ何度か行こうと試みました。しかし、ご本人の意向や障害を受け止められる施設がその地域にありませんでした。老いたご夫婦はこれまで考えたくなかった施設入所も視野に入れてはいますが、具体的に行動を起こしてはいません。
その二、付き添いの母、「やっと見つけた(作った)無認可作業所が来春からどうなるのか心配だ」と嘆く。どうしても薬で止められない脱力発作が毎日おこります。顔は痙攣でけがをし、縫った後の傷がいっぱいです。歩行も言語も持っている本人は、友達とにぎやかに交わることが大好きなのです。しかし、痙攣が頻発する場合、なかなか日中活動をひきうけてくれるところは40万都市でさえありません。同じ作業所には、走り出す人、寝たきりの人など多彩な障害を持つ人がいっしょです。ぎりぎりのところで運営しているところへ障害者自立支援法がやってきます。なんと云ってもきついのは、日割り計算になることです。これまでは利用者が病気で急に休まれたりしたときも、一定の費用は施設側に保障されました。ところが今度は、毎日のサービスを受ける人数(障害程度区分も含め値段の差もある)で運営資金が変わります。常勤で職員を雇用している場合は大変です。お休みされる人数がカウントされず収入もありません。「今日,利用者が休んでいるので、職場へ来なくていいです」とはいえません。そして利用者が重度であればあるほど利用は不規則になります。前向きにどんな障害の人でも日中活動を保障しようとする小規模の作業所の運営は極めて厳しいことが予想されます。障害者の自立のため、障害者の自立支援をするために、自己負担が増えることや施設運営が厳しくなることを強いるという構図は果たして正しいのでしょうか?本当に素朴な疑問がわいてきます。
11月3日 京都新聞の紹介記事 はいりませんでした
寒くなってきました。もう2週間以上前からマフラーを首にかけています。短いスカート(滋賀県は特に短い)の女の生徒が、「おっさん、まだ早いで」という目つきでマフラーを見つめます。ところが、次にマフラーつけたのはその女学生たちでした。ファッションでしょうか。そういえば、背広きてネクタイしたおじさんたちは、首巻きは一番遅いのではないでしょうか。
3日に一冊のペースで本を読んでいますが、最近の面白かった本の一つを紹介します。浅田次郎「椿山課長の七日間」朝日文庫600円です。46歳で突然死した主人公が3日間だけ、姿を変えて現世にかえってくると云う話です。中身は読んでのお楽しみにします。自分の死後、みんなはどんなに悲しんでいるか?
やり残したことがある、などなど。ちょっと自分と重ねてしまいました。
以下に京都新聞夕刊10月15日の道又氏の記事を貼付けます。僕の想いを本当にうまく書いて頂いています。写真は気に入りませんが、本当はこの様なのでしょうが、自分はもっと若く「いい男」と思っています。
うまくいれたつもりなのですが
10月16日 術後雑感 後編
前回の前編でナースのことを書いた。意外に反応があった。単なるぼやきと思って書いたが、患者になった同じような経験をした友人などから共感が寄せられた。それは必ずしもナース批判だけでなく、ナース賛辞でもあった。病院で働いてきた医師として、ナースの仕事は充分に理解したつもりであったが、患者の目線では、医者としての目線以上に医療では大きなウエートをしめ、患者にとって大切な職と認識した。
さて、ナース談義以外の話題である。もちろんキ−パーソンのナースは折に触れ登場する。内科病棟のナースである。病室は効きすぎるクーラーと、トイレと小さなバスつきの個室である。
1. チューブ
術後目覚めると、鼻腔からのチューブが胃液抜きのために挿入されていた。鼻の穴いっぱいの太さである。これは術後3日で抜去された。腸にもチューブがあり、これは数日おきに少しずつ引っこ抜き一週間で抜かれた。尿管チューブも一週間留置されていた。あとは静脈内の留置針による点滴ルート確保とあわせて4カ所の管が手術徳後は入っていた。
尿管チューブはトイレが省略されるので楽チンであった。腸は引き抜くときだけ激痛があった。留置静脈確保も血管炎による痛みがでるまで約一週間入れ替えしなくてよかった。問題は鼻腔チューブである。術後3日間だけであったが、のどの奥がチューブでこすれて不快きわまりない代物であった。経管栄養栄養でずっと持続している子どもたちのストレスの大きさを認識した。
術後5日で胃造影をした。残った胃の動きを診るためである。少し造影剤を入れ、結果動きが悪かった。造影剤を抜くためもう一度鼻腔からチューブを入れることになる。主治医が「医師ペース」で鼻にチューブを押し込む。左側の鼻腔は入らない。次に右へ、力ずくで押し込む。むせる。大いなる不快。ゲーゲーの繰り返し。うまくチューブをゴクンと飲み込めない。難しい。
日常診療で「さあ、ごっくんして」と経管栄養の時は話掛けながら、医師としてチューブを入れてきた。それでも難しいことがたびたびあった。特に患児と息が合わない時はなかなか入らない。
今回、さあ、がんばって、と云いながら突っ込んでくる医師の顔が鬼のように見えた。まわりでナースがハラハラしながら見ている。緊張が走る。挿入への「信頼関係」が崩れたらもう入らない。
「もうやめてください」。医師は「少し鎮静剤を注射して緊張ほぐしてから再開しよう」と提案し、病室を離れる。話を聞いてくれるナースにお願いする。「自分で入れるから、注射しないで」。
ゆっくりと大丈夫と自分をなだめながら、右穴に先端をいれて、咽頭後壁に沿わせて入れていく。食道と気管の分岐部にあたることは自分でも認識できる。「よーし、ゴックンだ」、スムースに挿入が完了した。
さらに一週間後もう一度胃透視する。今度は少量のバリウムを使った.透視しながら「もう二週間経っているから、通過性はよいはずだが、あかんなー」と医師が云う。患者としては不安である。
事実術後の二週間は最悪の思い出である。食欲がない、流動食を入れると胃がパンパンに張りつめ冷や汗がでてくる。吐き気がする。一日5回「食事」が運ばれてくる。流動食、すなわち水分のみである。
その二週間の最後の透視で、「あかんなー」と云われたのである。この辺が最悪の気分であった。そして、ひらきなおりの気分に変わっていった。それまでの焦りから、もうこうなったらゆっくりやるしかないと思うようになった。透視台の上で当然のごとく、また鼻腔チューブが登場した。バリウムを抜くためである。二回目の自己挿入である。慣れたもの。レントゲン技師が驚いていた。そのチューブから総計400mlの胃液が抜けた。
部屋にもどり「さらに患者に徹する」ことを自分にいいきかす。術後はじめて部屋でシャワーを浴び、すっきりした気分になった。
2. 点滴
術後数日、点滴とは別に筋肉注射があった。小児科ではありえない治療法である。患者としては体に垂直に針を突き立てられることは恐怖である。痛い。数日間定時に実施された。そして左手が数日しびれたままであった。これも一時は不安であった。
静脈点滴は、留置が漏れてから毎日3回のさし変えで、場所を変えての静脈路確保である。一本500mlボトルが5本から二三日おきに減っていった。二本連続の場合、ボトル一本目はなんとかもつが、二本目あたりから刺入部の痛みがでてくる。なんとか最後まで痛みが強くならず、腫れ上がらないことを祈る想いの毎日であった。
点滴路確保はナースがする。上手下手はすぐにわかる。「今度は誰かな? あーあのへたくそだ」。へたくそほど講釈が多い。僕もうまくない。ごめんなさい。
3. 食事とメユー
形あるものが食事にでてきたのは2週間以上かかった。体重はどんどん減少していく。口からおいしく食べられるのはアイスクリームだけ。3部粥になったのが術後18日目。その間の4種類の流動食がでるのだが、「食べられない」。正直、おいしくない。なかには食べ合わせで、ムカッとするような味がある。においにもいつもより敏感になっていた。味の前にまず臭いから確認する。果たして流動食は試食しているのであろうかと疑問に思った。ベッドに運ばれてくる食事がトラウマになり、毎食が不快なものであったが、朝夕にでてくる市販高カロリー液は比較的飲めた。退院後に近くの診療所でなじみの「エンシュア・リキッド」を処方してもらって飲んだ。いくら冷やしてもそのままでは後味が鉄分のような味がしておいしくない。「牛乳で割ったら飲める」と教えて頂く。なるほど後味の悪さが消えた。
病院の中で栄養科・給食の場所は目立たない所にある。勤務も早朝からあり、服装は頭から足まで白衣装で目立たない。しかし、メニューから味付けまで、患者満足を得るには大変な職だと認識した。
術後3日間の絶食の不安もあったが、食べなければやせ細っていくという切迫感、でも胃が受けつけない、この不安は強かった。今もその延長線上にある。
4. 生活
夜9時消灯で、テレビをみていたら注意をうける。個室なので誰に迷惑かける訳ではないのだが、「ルール」ゆえの指摘をうける。朝は6時半に起こされ、カーテンを開けて窓を開放される。7時食事が運ばれる。本を読む以外はテレビを見るしかない。どのチャンネルもワイドショーばかり。毎日同じ顔を映し出す。点滴の合間に「散歩しなさい」「動きなさい」と。入院しているのだから管理されるのは当たり前であるが、強制的に指示されるのはやはり不快である。病気を治すために入院しているのだからもう少し患者ペースも考慮し、より快適な生活をしたいものだ。
術後2週間ほど、これは麻酔の後遺症なのかわからないが、毎夜毎夜、今まで経験したことがない現実離れしたけったいな夢を見た。夜はとにかく不安になる。痛みや熱がでたときなどは、深夜ナースコールを押すのが気が引けるが、コールするとすぐにやってきて「どうしました」という声だけでもうれしいものである。
5. 退院
おなかの動きがよくなるので、という理由で医師からガムを薦められた。入院直前に調子が悪かった歯の治療が終わったところであった。ところが、退院が近づいたころ、そして「食べなければいけない」「よくよく噛まなければいけない」と必死の努力していた時、歯痛がおこってきた。昔に治療した歯である。
胃腸病院だから歯科はない。痛み止めは胃の調子から簡単に飲めない。こうなったら、かかりつけの歯科(くずは)へ退院して通うほかない。
もう少しのんびりとしたいつもりがあったが、早々に退院したくなった。入院中一度くずはを車で往復した。いつも以上に歯の治療がありがたかった。
退院日は新幹線で京都駅に降りた。たった一か月の入院生活だったが、京都の町が懐かしく感じた。自宅の自分の部屋のベッドに寝転ぶと、「帰った」と云う安堵の気持ちと、病院より自宅がよいという実感を強烈に思った。
退院後職場復帰まで3週間あった。自宅での勝手気ままな自己決定の療養生活で、より快適な日々を送った。
ほかにも細かなことをいっぱい書くつもりであったが、職場復帰して1.5か月、いまでは正確に思い出せないことだらけである。たしかに忘れる速度が早くなっている。
体力への不安、一つのことへの持続性が欠如し、胃の喪失感が食事の前後で舞い戻り、手術前の仕事量の半分ほどしかこなせない焦りがいまもある。手術したことを忘れる時間も増えたのであるが、やはり今回は、僕にとって大きな、重い、貴重な出来事だったようである。
9月25日 手術直後(前編)
開腹手術をして3か月、そして以前の職場に復帰して1か月、まだまだ回復過程だと思いたいが、体力がない。体力がないと気力も伴わない。前向きに新しいことに取り組む気持ちがしない。これまで当たり前にやってきたことの変更もしたくない。物事にじっくり考えて取り組む事ができない。
パソコンや会議で1時間以上座っていると、14針縫った腹部の傷口が突っ張って背筋をのばせなくなる。食事がおいしいが、食べ過ぎると残った胃がパンパンに張りつめ痛みがでる。頭部挙上、右下の姿勢でしばらく動けない。
口からでるのは「愚痴」ばかり。行動のひとつひとつで、57歳直前の老いを意識してしまう。このまま老いてしまいたくない。
このままでは終わりたくない。日々その想いが強いが体がついてこないという今日このごろである。
手術前には体重が52kgあった。術後44kgまで減少した。いまはやっと47kgまで戻った。
術後の1か月をどうしても書き留めておきたい。記憶はどんどん薄れていく。患者の目線で感じたことをしっかり書き留めておくべきだ。退院後2日、自宅で書き留めたキーワーズ23個をもとに記録する。
退院後に書きたかったことと、今3か月経ったのちに思うことは必ずしも同じではない。できるだけ冷静にみつめ返すというよりは、頭の感情部分にしっかり残っている気持ち、その多くは怒りや不快な気分であるが、それを書く。
入院していた病院は友人が紹介してくれた阪神間の100ベッド足らずの胃腸病院であった。主治医である院長先生は後で知ったが、僕の高校のかなりの先輩であったが出身大学は違う。それ以上の私的関係はない。入院先も家族以外には告げず、お見舞いもすべて謝絶した。要約すれば、誰に気兼ねすることもない静かで「わがままな」入院生活であった。
まず最初に指摘したいこと。細かいエピソードはその後に述べる。
第一はナースのこと。
患者の目線でみると、医者の指示をただこなそうとする立場とできるだけ患者の側にたって共感しようとする人と二分される。
医者の立場で接していると、「できるナースとあまり仕事に熱心でないナース」という分け方でみていた。仕事の協力者という目線だった。もちろんできる人は患者への配慮も評判もよい。後者はその逆であることは当然であった。
ところが、患者の目線、それはいつもベッドにねころんでの見下ろされる視点にあった。患者は常に受け身である。ナースが入ってくると、次は何をされるかという不安が先にたつ。結構研ぎすまされた感性でナースの一挙一動をみる事ができる。このことは1985年に息子の枕頭看護でも同じ感覚をもった。家族の目線とにた所がある。しかし今回は自分がベッド上に乗っていることであった。
最初の「二分」に戻る。医者の指示を医者と同じ語り口でリエゾンしてくるナースは怖い。この辺に医者でありながら、医者への偏見があることがわかる。
オペ室から帰ってきた。5時間ほど意識がなかったように思う。部屋は術後で外科病棟個室でナースステーション近くである。
目が開かない、口も思うように開かない、声はかすれている。体はもちろん動かせない。意識もドロンとしている。でも手術はうまくいったのであろう。周辺があわてる事もなく、身じかな人たちの顔つきもホッとしている。
しかし、患者としては不安だらけの状況である。痰がでない。息めない(ど咳できない)し、吐き出せない。うがいをしてもうまく出来ないし、痰もとれない。胸がなんとなく苦しい。不安がつのる。一所懸命タオルにはきだそうとするが、でない。
入ってきた見慣れない外科のナースに上記の状況や不安を訴える。
「手術前にうがいや痰を出す練習をちゃんとしたの」
「記録にはタバコ吸っていないとかいてあるけど、タバコ吸ってたのと違う」と、ポンポンと大きな声が顔の上から落ちてきた。顔は白衣をきた鬼のように見えた。
カチーン ときた。元気なときなら、許せない発言なので喧嘩したであろう。しかし、今は患者でしかも不安いっぱいでうまくしゃべれない状況にある。
この二つの言葉でこの病棟のナース全てが敵に見えた。現に心からそう思うようになった。
その上、痰が出にくいから「吸入」をしようと云う医者の指示がでた。
同じナースが吸入の器械と吸い口を口元にもってくる。
なんと原液のままの少量で「けむり」にならない。ポトリポトリと水滴が口元に落ちるだけの「吸入」。「こんなやり方でいいのか」とナースに問いただすも返事なし。医者の指示通りと云わんばかりの顔。(馬鹿にするな)
最悪の術後の始まりである。口では「静かに寝ていてください」というが、部屋はトイレの前で、トイレの個室のしまる音や新しい入院患者への説明で、大きな声で「ここがトイレです。おしっこはここへ入れてためてください」などのやり取りが耳元で聞こえる。おまけにナースステーション近くなので、「ピン ポーン」「どうしました」という部屋とステーションのやり取りまで聞こえる。
何が安静なものか。なにかあったら、詰め所の近くで自分たちが駆けつけるのに都合がよいというだけの回復用個室ではないか。まな板の上の鯉であっても人間だ。もう少し不安な気持ちでいる患者の立場から物事がみれないのかという怒りだけでオペ後二日目の朝を迎え、早速わがままを通した。
「オペ前にいた内科の個室へ戻してくれ」、「こんな部屋はたまらん」と。
さすがにそのときはナースが悪いとは云えなかった。
一昔前なら「そのまま、がんばってください」といわれそうだが、最近は患者のいい分も少しは聞いてくれる。早速もとの病室へ戻ることになった。
優しいナースの顔を見てほっとした。我が家へたどり着いた気持ちになった。この部屋での比較的快適な24日間は次の機会にお話します。
9月10日 その二・医者が患者になった・愚痴
前回の続きです。6月後半の入院生活の話です。
まずは、大腸ファイバーの前日の前処置が大変苦痛だったことは書きました。
もともと僕の家系は大腸にポリープが多発しています。腸にも何個かの病変があると覚悟をしていました。前処置でもう疲れきった状態で検査を迎えました。
例のパンツが出てきました。鎌田實氏の「がんばらない」に書かれている諏訪中央病院の保健師さんが開発した大腸ファイバー用紙パンツです。膝上くらいまでのハーフパンツでお尻側にファイバーをいれる入り口があるものです。お尻を出すと云う羞恥心がありませんでした。これは感動しました。それに気をよくしてファイバーで写される自分の腸内の映像を楽しみました。おまけに異常所見なしでしたのでほっとしました。
胃カメラはしんどいですが、腸は操作そのものに苦痛はありませんでした。腸の検査ももっと早くしなければなりませんでしたが、痛みや羞恥心などで億劫になっていました。追いつめられてやっとできました。
手術前の説明と同意確認がありました。
妻と娘が同席しました。僕は患者です。「まな板の上の鯉」です。主治医の云う通り「はいはい」と聞く立場に終始しました。「いまさら何をいってもしゃーない。任せるしかない」という気持ちです。ところが、娘は強烈でした。
「開腹手術するのに輸血の用意はしないのですか」「もし、出血が多かったらどうするのですか」と詰め寄りました。親として患者としてヒヤヒヤの空気です。「いや、出血は150mlまででやります。でも念のために輸血は用意しておきます」と回答。
そのあと伸び放題にしていたひげをきれいにそり落としました。気管内挿管のための止めるためのテープがひっつかないからです。
手術前日には、ちかくのマーケットに行き、ボックスにはいる700円の顔写真を撮りました。けったいな覚悟ですが、明日は数時間でも意識がなくなり、必ず戻るという保障がないと思うと、儀式用の顔写真が撮りたくなったのです。もっともいつも「僕の葬式はいらない」とは家族に明言していますが、死んだ後はどうなるかわかりませんので、変な気を使ったのです。
医師としては、「いまどき麻酔などでトラブルがおこることはないよ」と、いつも手術を受ける子どもの家族には話していましたが、自分のこととなるとこんな行動をとってしまいました。
前夜のテレビコマーシャルがやたらと気になりました。ビールをうまそうに飲む映像や食べ物の宣伝が気になりました。胃を切るとビールをのめるのかな、おいしいものが好きなだけ食べれるようになるのだろうか、と。弱気です。手術終わって歩けるようになったら信州か北海道へ行くぞ、と決めました。
部屋に持ち込んだパソコンを使ってベッド上でそのときの想いを書き込みました。そこではじめて気持ちが落ち着きました。
手術当日にはなんの記録も残っていません。頭の中にも「早く終わってくれ」という思いがあっただけでした。
天井みながらストレッチャーにのせられ、手術室のドアがあいて、看護師の申し送りを聞く。手術台に移され、しばし医者たちの笑い声と談話が聞こえる。
むんずとバギングマスクが口と鼻にかぶさる。「ちょっと苦しいな」と思うと、すぐ意識はなくなりました。(つづく)
がんばれない そして あきらめきれない(その1)
早期癌といえども一応癌である。
医者といえども、子どもむけの医者で、さらにちっぽけな心臓である。これまで胃カメラが嫌で、嫌で、逃げ回っていたが、義理の息子を連れて行った手前、観念して,やるしかなかったのである。
胃カメラのぞく大学時代の親友(美人女性医師)が叫んだ。
「これはおかしい、癌だ」 ここから新たな歴史がはじまった。
アンラッキーな出来事ではあるが、早期に見つかるという「ラッキーさ」がその後の合い言葉になった。偶然にみつかったのだから、ラッキーだ。
もう一年ほっておいたら、きっと転移して厳しい結果だったであろう。ラッキーだ。自分も笑顔で「ラッキー」を表現した。でも待てよ・・・
不安、不満、不確実さ、曖昧さ・・・自分の事ではないような感覚になるが、病理組織による確定診断、手術する病院の決定(友人に任せた)、休職の準備と治療計画がどんどん進む。こんなとき「覚悟」なぞという気持ちになる前に、気持ちはただ流れてしまう。
なによりも全身麻酔をして、腹を上から下まで切り裂いて、胃の大半を切り取ると云う作業が自分の体で行われる予定である。それを思うと、「よっしゃ、がんばってやろう」という前向きな気持ちにはならなかった。「がんばらない」ではなくて、「がんばれない」のである。だまってしずかに自分の体で行われる手術という作業が通り過ぎるのをただただ待つのみで、「我慢する、耐える」という言葉になる。そして、もしなにか手術でアンラッキーな事がおこったら・・・やり残した事がいっぱいある。
あれも、これも、あきらめきれない気持ちである。
なにもかも不安である、心配である。ただただ友人とその大先生(所長)を信じるしかない。その世話になった親友が過去に二回死線をさまよう病魔を克服している事実が、どんな言葉よりも「信頼」でき、がんばれないが、彼女にあやかろうと思い続けた。
でも、不安のあらわれが表情にでるのであろう。息子(中3)もイライラしている。確定診断の夜、息子に話かけた。
「お前が大学卒業して一人で生きていけるようになるまで、俺は生きたい。絶対生きてやる」と。息子は素直に「うん」とだけうなずいた。知らぬ間に成長したと思った。このことで少し気持ちが楽になった。なんとなく「がんばらない、あきらめない」と云う自分を主体においた言葉に変わったような気がする。
入院してから手術までの一週間。体力は変わらずある。何処も痛みがない。
食事もおいしい。一体どこに病変があるのだ。ただ順々に実施される検査がきつい。腎臓機能検査(PSP)で500ml水の一気のみはまだしも、大腸ファイバーの前夜、2Lの水と下剤の繰り返しで、トイレから離れられない苦しさ。おまけに動脈血検査で股関節部から採血時、片足がしびれる。
医者としては、これまで指示だけだして、患者さんがどれだけしんどいやら痛いやら、不快な気持ちになっているやら、ほとんど考えなかった。特に子ども医者ゆえ、検査したら子どもは泣くものだという認識ですませていた。
子どもたち、ごめん。もっとしっかりとインフォームド・アセント(子ども本人にもきちんと説明する)をしていくべきですね。患者の目線になってより真剣に思いました。
(次回は手術編へ)
第二びわこ学園園長・1年3か月と今後
思いつくまま推敲もなしの読みにくい文章です。
請われながらも、何度となく断り続け、最終的に「みんなが待っています」の殺し文句を受けて、「ほんなら、ちょっとがんばってみようか」と第二びわこ学園の最高責任者に赴任した。そして約1年3か月になる。短いようでものすごくハードな期間だった。最初の頃、いつ終わるともしれない白熱した討論に身を置きながら、帰りの名神高速道路のストレスが気になって仕方がなかった。そのうち自分が会議を引き延ばす主役になっていることに気づいた。秋であった。
自立支援法案や県の特別支援がカットになるか(最終的にはカットなし)という大討論では、頻繁に胃けいれんをおこして、春には園長室にベッドを持ち込んだ。昼間、こそっと横にならないと夕方からの会議が勤まらなくなった。
今一息いれて、小さな峠のてっぺんから少し必死に登ってきた道を振り返り、さらなる山々を見上げてみたい。
1 障害児者の安全で快適な生活を保障するために専門的支援方法の研修の場をびわこ学園が定期的に保障する。看護師研修を開始し、その道は見えてきている。
1) 滋賀県下、今後は近畿圏を含めた在宅での医療的ケアのスキルアップを実際の実地研修をもとにして習得してもらうための支援をする。
近い将来、近畿圏にも広げていきたい。
2) 対象者は、看護師(これまで2回実施してきた)、ヘルパー(家族を含む)、教諭(養護教諭を含む)の3者に対して別個に研修機会を作る。原則として年に2回の保障をする。近い将来非医療職であっても緊急時にバギングをきちっとできるような研修にしていきたい。
2 障害児者が地域で安全にかつ快適に学び、働き、活動する場への専門的医師の派遣を保障する。大きな課題であるが、まずは学園内の医師の力量アップが必須である。
1) 基本的には外へ向かっても、「障害者医療センター」としての役割がある。次項以降に具体的に記した。しかし、この一年は、まずはきちっと診察をする。そしてそれをきちっと記録する。カルテを書く。あたりまえの動作を身につけるにはどうしたらよいかというところから始まった。いま、医療職がいっしょになって新しい合理的な「一つのカルテ」作りの討論真っ最中である。
あたりまえのことをしっかり実施するところから始める。
2) 派遣場所は滋賀県下の学校(養護学校に限らない)、作業所・通園施設(びわこ学園関連施設以外)とし、主に障害児者の病態把握や医療的ケアの安全なやり方について現場で直接指導する。他府県での巡回指導医に相当する。今後の課題である。
3) 各施設、学校の嘱諾医や校医、地元医師会との連携と理解のもとに行う。
3 地域の重症認定のない重い障害者にも快適にかつ安全に利用して頂けるびわこ学園での「ショートステイ」の量的、質的な拡大を計るための研究調査活動をプロジェクトチームを組んで進める。
1) 現状は、第1びわこ第二びわこあわせて20床のショートステイを確保しているが、安楽な滞在を保障するには至っていない。苦情も絶えない。入所者へのしわよせもおこっている。にもかかわらずニーズはまだまだある。重心以外でも成人中途障害者にも多々ある。
2) 両施設から病棟の若手を主に「どうしたら内外の利用者に安楽な生活を保障できるか」を基本に、さらに数的にも拡大していくための研究調査活動を行う。現場討議、聞き取り、他施設への見学活動を通して18年度からのショートステイの質的量的なパワーアップの方策を検討する。
3) このショートステイの概念の中には、第一びわこでの地域交流ホーム、第二びわこでの自立訓練棟、そしてあとで述べる地域のなかの拠点・活動センターにもショートステイの可能性を視野に入れて行う。
4) 将来的には施設外にショートステイの拠点作りを目指す。その核となるのは後述する訪問看護ステーションである。通所看護、24時間応答体制などを志向したい。
4 野洲市内(周辺)に空き家等を借り受けて、地域活動センターを立ち上げる。地域の子どもたちや住民と生のふれあいの場を「面」で作っていく。
1) 第二びわこ学園内に専門担当責任者をおいて、野洲市の協力を得ながら、空き家等を借り受ける。それをまずは日中活動の交流センターとする。
いま、いろいろな団体と討論、協力して志向し始めている。
2) 町中にできればカフェのような気軽に一般の市民も入れる集う場も作る。
3) 第二びわこ利用者の日中園外活動をそこで行う。各福祉施設関係にも同様に利用してもらい、交流を計る。通常校(幼稚園、小学、中学)との交流の場としても用いる。放課後の交流や休暇の交流も行う。
4)第一年度は地域の日中交流センターとして出発するが、二年目以降は、
拠点を増やし、ショートステイ、ケアホームとしての住まいの場としても
模索していく。園内の利用者や在宅の利用者の両方の利用を目指す。
5)市長をはじめ市役所関係、各種NPOの方々、いろいろな団体と会話をしてきている。近いうちに一つの形になってくる。
5 訪問看護ステーションを立ち上げた。ここを拠点に施設と地域、地域と地域を結ぶ医療連携の核としていくためにさらに大きくしていく。
1) 第一年度は所長職を常勤として扱い、他は嘱託での活動になる。7月に開所できることになった。最大の前進と評価する。医療職が重い障害を持つ地域の人たちにも支援の武器をもって前へすすみ始めた。
第二年度は前記項目の活動センターの進捗ともからみ、さらに第一びわ
ことの連携やびわこ障害者支援センターとの合流という討論もありえる。
とにかく地域内にセンター・活動拠点を構えることができた。
2) 地域の重症認定患者だけでなく、あらゆる分野の障害児者を対象として支援できる利用者を開拓する。
3) 第二びわこ外来、ショート、入院、自立訓練棟、地域活動センターとの利用を有機的に行う。訪問医師巡回制度とも連携していく。
4) 非常勤雇用者のリソースセンター的役割を果たす。ホリデイスクールでの医療的ケア必要児童生徒の受け入れ可能にするための派遣や学校の校外学習派遣、養護学校への看護師派遣も視野に入れていく。
5) 八幡養護学校野洲校舎での6人の児童生徒への医療的ケアの支援を当面(平成17年度)は行う。教育委員会との交渉がまだ行われていないが、最悪、17年度だけは、病棟看護師のこれまで同様の協力とともに、非常勤雇用の形で支援する。
6 移送サービス、導線の確保、交流の確保のために野洲市内福祉バスの運行(拡大)への働きかけ。この課題は数年単位で各団体の協力体制を作る中で達成に近づける。
1) 現状の野洲市の運行状況の確認、各バス会社との交渉
2)各福祉施設との連携を早急に計る。
3) できれば移送サービスNPOのようなもので共同運営できないか。
4) 上記3、4項目と密接に関係する。利用者の送迎が保障されねばならない。そのための事業。ボランテア、スタッフ含めた移動手段の確保。交流のための保障となる。
7 映画「わたしの季節」全国上映ツアーとびわこ学園トーク
第二びわこ学園で小林監督が4年がかりで作り上げた労作である。僕はほとんど制作には関与しなかったが、価値は多いに認める。
言葉はいらない。映像から「生きる」が伝わってくる。
福祉関係者よりも一般の方々の反応がたいへんよい。障害を持つひとたちへの理解を少しでもすすめる。重い障害を持つ人たちの生き様をこれだけ素直に描き出した映画はないので、主に一般向けに主要都市や福祉・教育・看護系大学などに上映を働きかけ、その折に必ず第二びわこスタッフが前後のシンポなどの討論に加わる。ときには利用者も発言や登場をしてもらう。
8 八幡養護学校野洲校舎での教育をさらに発展させるための取り組み
入所している6人の超重度児、準超重度児、人工呼吸器も必須になっている子どもたちがいる。6人は滋賀県教育委員会の配慮で通学籍である。6人の教師が重症児専門教育にあたる。その教育を安全に支え、さらなる前進を勝ち取るためには、医療側からの支援がいる。これまで校舎内授業にも二人の看護師が授業につきそった。校外へ出る時は3人つくこともある。歴史的にはすばらしい連携と思う。しかし、この一年さらに責任体制と教育の充実を目指して、教育委員会の責任で校舎内授業を専門看護師を導入して支援してほしいことを保護者・父兄、教師、スタッフなどといっしょに担当部署へ訴えてきた。
責任の取り方や教育内容充実への想いなどについて教育委員会と直接会話をすすめ、この一年随分お互いの理解がすすんだ。来年こそはもっともっと長くあの立派な野洲校舎(日本一の設備では)を活用した新たな教育への前進と試みを支える医療系スタッフ・看護師が導入されるはずである。
9 利用者の視点に立った施設内のハード、ソフトの再検討
1) 広いひろい施設、外からは「テーマパーク」?と思われる日本的な平屋の病棟・住棟。これがなかなかくせものである。住み易さ、個別化を目指すあまり、管理側には1対1(ずっとマンツーマンという意味ではない、職員数が入所利用者と同数)に近い状態といっても、目が行き届かない。二つの住棟は50人単位である。通常の介護中に骨折がおこり、あたりまえに見守りすべき動作が忙しさと云う理由で曖昧になる。そこにミスがおこる。この繰り返しである。
リスクマネージメント委員会を管理職体制とは別に作り動き始める。
しかし、見守り単位や組織、組み合わせがこれでいいのかは今、討論を
始めている。
2) ミスはその場で報告する。当たり前のことであるが、これまで文書提
出という「システム」で、家族にも知らせないことがあった。これを即
座に管理責任者と家族に報告することで危機感を訴えた。
事故報告はすべて家族会にもほかの住棟にも開示していく。苦情処理も
当然であるが、その対応策、結果を含め掲示する。個人情報保護は当然
である。
3) 園内広いので電子化をすすめてきた。経済的に厳しい予見があるなか、どうしてもすすめなければいけない課題としてこの一年取り組んできた。
安く、効率的な方法を模索し、園内ネットを二重にはりめぐらし、内部の閉鎖ネットに新しいレセプトコンピュータシステムを入れて、いま作動し始めている。電子カルテや完全なオーダリングは高価である。レセコンを基本に据えてオーダリングに近いものを試行している。このことによって紙が飛び交うことがないようにしていく。そのための専門的に従事するスタッフをおいた。
4) 第二びわこ学園のホームページが随分充実してきている
電子化と同様に園内情報発信のHPの充実をはかっている。その施設のHPのアクセス数をみれば、その施設の活動性が推し量れると云っても過言ではない。
ただ、いまは電子化が忙しく、担当者の手がまわらないことは承知しているが、それは園内の弁解である。
6月になってもびわこ学園は雪がつもっている。
5) 栄養科も移転前から設備を整え、より安全な多彩な食事メニューを目指
して完全クックチルに向かって努力している。近い将来地域に配食でき
るようなセンターにしたい。
まさに、しんどい一年と少しであった。上記のことは責任者として旗を振ってきただけで、なかなか現場の一人ひとりに伝えることはできなかった。「園長だより」として一年で6号まで出したが、結構「むなしさ」も残った。学生時代、夜中にガリ版で「学生大会に結集を!」なんて下手な字で必死に書いて刷り上げ、それをすべての講堂に配布したときの「感触」「想い」と似たものがあった。
あとは現場の職員どうしの討論の積み上げになる。それには時間がかかる。
「最高責任者」、この言葉はなんともいえない恰好のよい響きがあるが、本人にはものすごい重圧であった。ものすごい!胃にいくつ穴があいたか?
40年のびわこ学園の歴史。これはたいへん重い。その大きな流れの中のちっぽけな1年と少しであった。上記の9項目も僕のオリジナルではない。びわこ学園が作ってきた流れに沿ったものに過ぎない。
ミスがあるたびに、利用者や障害者自身が一番被害を被るのである。本人に「ごめんなさい」といっても、「馬鹿やろう」という声は返ってこない。この一年で電話をもつと、話相手に頭を下げて「申し訳ありません」ということが自然にできるようになった。これはいいことなのか?
園長とは院長なのであるが、どうも医療そのものは知識とライセンスだけでよいのであろう。もともと障害を持つ子どもたち自身の診療で多くのことを学んできた30年であった。そのための医学的な研究もしてきた。
いまの仕事はその土台に立ってといっても、少し違う。頭をさげ、旗を振り、喧嘩両成敗で仲良くやろうというのは、どうも僕の生き方ではない。
しずかに、自らの課題に向かって、自らのペースで仕事をし、気の合う仲間と対等の関係で研究し、僕のオリジナルを僕の声で若者に語り継いでいきたい。老いを意識しながら。
ちょっと 粋がって書きすぎたかな?
この文章をもってHPはしばらく充電することにします。同時に掲示板もしばらく休止することにさせてください。
近いうちにまた再開することを約束して。
2005年6月17日夜
5月29日
自立支援法案と臓器移植法案
(このごろ思っていることを思いつくままの羅列になりますことお許しを)
一見この二つの法案は全く別課題のように思えますが、僕のなかでは完全につながっています。どちらも与党2党に支えられて「今国会は通過させる」様相です。東京都議選を休戦にしてまで延長国会になりそうです。
今国会ほど「憲法9条」や「靖国」など、これまでなら発言一つで大臣の首が飛んでいた内容が、毎日「ちょっとだけ過激な発言」としてとりあげられ、それがもとで首になることがない「時代」になっています。まさに団塊世代が動かす政治なのでしょうが、われら団塊世代の学生時代は、ノンポリや保守など時代遅れの輩として時代の流れから捨て置かれた集団だったように理解していました。如何に前衛でありえるか、どの色のヘルメットをかぶるかなど、30年から40年前の流れで、いずれそのあとにはもっと住み良い民主的な日本になるだろうと「確信」していました。
ここ数年の流れは、小泉首相のひらきなおりのような、一見反主流のようにみえて実は保守奔流以上の右旋回をしてきました。両法案をみても根底には弱者への支援の政治の流れはほとんど感じません。これまで元気であった社会党や共産党という野党が弱小野党になり、自民党よりある面は、より保守的な民主党などという政党が大きくなっています。
なんでやねん。 いま団塊世代の昔真剣に激論してきた「かっての若者」はすごい敗北感をもっています。
福祉面でいえば、どうして公的保障、みんなでフォローしあう社会をつくれないのか? 北欧も金はないけどそれを実現しているではないですか。お金をもつものが勝者である北米思想なんぞくそくらえです。かって「アメリカ帝国主義」となじったわれわれ世代は、まだその亡霊にとりつかれた日本を認識しなければなりません。
自立支援法案はここであらためて書くまでもないのですが、「金がない」「たとえ障害をもっていても自分への支援(サービス)は一定自分で支払え」という原則になっています。なによりも問題と感じるのは、立案している厚労省の中心メンバーが「現実の動く社会、現実、現場」をご存じないことです。机上の数字と静止した画面、写真をみながらあれやこれやと相談していると思われます。財務省からの「削減」の指示に従い、それに見合う形の具体案が一つ一つ見えてきているのです。はじめのグランドデザインは「地域で共生する」という恰好のよいアドバルーンでした。でも今進行している案は金のない障害者の切り捨てに他なりません。
ものすごくさみしい、かなしいわが母国のすすみ方なのです。
もう一つの臓器移植法案にも少し触れます。27日の朝日新聞のオピニオンに記者の権さんがうまく書いてくださいました。写真は少し気になりましたが、内容はグッドでした。中島みちさんはこれまでの著作や私信でも尊敬できる論者です。同時に息子に何度も何度も読み聞かせた「クワガタクワジ」物語の作者でもあります。僕はこの少年少女むけの物語の内容にいまの中島みちさんの同一思考があるように思います。河野太郎さんについては、論評する気になりません。ただ、生体肝臓移植のドナーと「脳死」ドナーの視点は全く異なります。それをここに書く気にはなりません。自民党という政党にいて、公明党に支えられて大きな声で発言される有利な有利な立場にいることは確かです。
突然の事故や病気で死をむかえる人には同じ体験を二度する訳にはいきません。家族とて二度以上同じ体験は絶対にしたくないです。病気も多くは個人責任ではありません。人類が長い間引き継がれてきた遺伝や形質を誰かが現在受け継ぐのです。現在の環境も歴史の中で先輩が作ってきた結果なのです。車社会も土木優先社会も、優性思想もなにもかも。
いのちのバトンタッチといって、これからこの社会を生き抜く人たちへの支援という視点は、死に逝く側にはありません。ドナーになれば社会的に評価するのは社会の姿勢であって、それは死に逝く側の論理ではないように僕は思います。家族として看取る視点と如何に死ぬかという視点、特に後者については慢性疾患なら考える時間はあるでしょう。しかし、一瞬にして意識がなくなる場合には元気なときに考えていたことがその瞬間以降にも通用するでしょうか?この辺りの討論は「ドナーカード不要論」につながりかねない文脈になっています。だから家族の判断でよいのだ、と言い切れるでしょうか?家族もこの世の中の荒波で生きています。
ただいえることは、社会が、あえてこの言葉を使いますが「弱者」の意見を十分聞く耳、しくみを本気で作るか、ということだと思います。形にこだわるのではなく文化としてです。声もだせず、意思表示もできない場合でも、聞く耳を持つことができるかという行政への信頼性、地域への信頼性でもあります。単に医療機関への不信だけが根底にあるのではなく、社会のあり方、生活のあり方、教育のあり方、それぞれが問われているように思います。
「米国へいく心臓移植の子どもたちを救おう」という叫びには異論はありません。臓器移植を否定する考えはありません。しかし、脳死という得体のしれない「社会的な言葉=決して医学的ではない」脳死は、移植とは違った社会との連続線上にある大きな課題なのです。看取り、尊厳死?、いのちの質、だれでもどんなときに言葉も発せない障害をもつかもしれません。ベッド上で日々人工呼吸器につながれることになるかもしれません。変な話ですが、そんなときでも悔しい想いが残らないような視点で討論がされるべきと思います。
医者として医学的に、科学的に脳死状態を絶対に絶対に間違いのない診断をすることは、どう考えても不可能と僕は思います。もしどうしても脳死状態を社会で認知したいのなら、どこでその診断基準の線引きをするかという、これも「文化」なのでしょうか?日本なりの。他の国がどうだこうだはもういいでしょう。
ということで、今国会に上呈される二つの案件は、根っこが同じところにあると思います。「社会的資源が限られたなかでも、社会的に弱い立場にある人を、社会の責任でどう支援するか」がいま2005年の国家で討論されているのです。時間がきたから多数決なんていうことですむ問題ではない。未来に今を生きるわれわれの考え方を問われるような大切な時代的、社会的課題なのです。
5月14日 ウサギさんと自立支援法案
土曜日の朝です。なんか月ぶりかで土曜午前が空いています。なんと今夜は6時から経営会議とやらがあります。まあ、それはしかたがないとして、、、、、
このごろゆっくりとパソコンの前に座ることもできません。不定期日記を書く時間もないのです。というのは間違いで、これといった「書きたい」と思う題材がないというのが書かない理由と自己分析しています。
今回かきはじめたきっかけは、二つ。どちらも掲示板書き込みでお世話になっているユリカモメさんの自立支援法案へのお礼書き込みを書いたはずが、アップされてないショックと、表紙のピクのことをたーくんが「何処にいるの、機嫌わるいの」というご質問を頂いたということをきっかけに書き始めました。
まず、ピクのことです。写真を変えました。おこっているようにみえるのでしたらピクに申し訳ないので。あれは自分の耳を体にくっつけて「撫でているのを甘受している」姿だったのですが、写真の取り方がまずいですね。兎年齢ではぼくより先輩?になるメスのうさぎで、毎朝えさを与えながら短い男女の会話をする相手なのです。このごろおやつのビスケット(兎用)などをやる機会が増えたためか、僕が二階のベランダへでたら足下に飛びついてきます。素直な奴です。今朝もビスケットをあげました。
もう一匹「セラ」という兎が最近の僕の講演の表紙スライドに登場していました。この兎は娘がかわいがっていたのですが、つい最近悪性腫瘍で亡くなりました。3年ほど前に落下事故で下半身麻痺しましたが、前足が発達し、下肢を引きずりながらも生き抜きました。「医療的ケア」として定期的に下腹部を圧迫して尿を出すことが日常でした。ケアは医師である娘とその旦那が「違法性の阻却」という原則で実施していました。もっとも下肢麻痺した時、獣医さんは「安楽死」をすすめたそうです。動物の世界にも権利擁護、障害支援、そして「自立支援」が必要なのです。
さあ、障害者自立支援法案です。毎度のユリカモメさんの書き込みに感謝しています。オンタイムの情報が勝手にアップされ、嬉しい限りです。東京も7千人近い人たちが日比谷公会堂に集まったのですね。
ちょうど同じころ大津市で開いていた全国重心施設施設長会議で厚労省課長補佐の行政説明を受けていました。厚労省のメンバーは「決して今のサービスを落とさない。地域で生き生きと生活できるためにこの法律を作ろうとしている」と真剣に考えていると見受けます。話のはしばしにそのことが出てきます。そこにはなんの疑いも持ちませんが、さらにつっこんで話していくと、施設入所している重い障害を持つ人たちが人工呼吸器をくっつけたまま、公園を散歩したり、デズニーランドに行ったりすることが「現実味」をもって考えられないようにも見受けられます。リーダシップをもった人たちがどれだけ障害者の生の生活を理解しているのかが気になります。どんなに障害が重くても「日中活動をやろう」という指摘が昨年のグランドデザイン発表時にはあったと「理解」していました。ところが最近のいくつかの厚労省説明を聞きますと、「療養介護」と呼ばれる医療型にはこれまで重心施設で医療を前提とした安全な生活を保障することで完結してよいという。日中活動と住まいの場の二本立ては、入院にはあてはまらないという発想のようです。
応益負担の障害者自身、家族への影響については今回書かないとして、施設側の視点を少し続けます。
これまでの重心施設は、重い障害を持っていても安心して生きる保障の医療と、生き生きと生活する介護の両方が加味された世界に類を見ない40年の歴史に育まれたシステムがありました。これが分断されるのです。来年10月以降、医療がほとんど必要としない「生活介護」=福祉型に認定された現在の利用者は、逆にこれまでの重心施設が保障してきた1対1介護比率がくずれ、1対3以上になるでしょう。しかも福祉型になると入院ベッドにカウントされなくなります。
いま重心施設には措置費として利用者一人月80万円以上の支援があります。このうち医療費は半分以上6割近くをしめます。これがゼロになると施設運営は質的にダウンします。スタッフの雇用条件も悪化します。人件費比率は通常の病院とちがって7割を越えています。
そして、福祉型と判定された現在入所している利用者は何処へいったらいいのでしょうか?受け皿があるのでしょうか?今の入所施設で条件を落として(落とさざるを得ない状況)ベッド外で「福祉施設」として別個に支援していくことになるのでしょうか。その責任は施設側にあるのでしょうか。もちろん施設側は「お家に帰ってください」などとは決して云えないでしょう。受け入れる条件がないから入所されたのですから。
もし仮に介護比率を落として支援することになったとしたら、これまで地域での支援が難しく、そして入所で落ち着いていた現在の入所者=多くは「動く重心」と云われる人たちには、確実にサービスは落ちます。そこでパニックなどがまた誘発されないでしょうか。不快な日常に変わらないでしょうか。
いろいろと心配の種はつきません。いま施設が直面している課題の一端を少し紹介しました。
「これまでのサービスの質を落とさない」を信じたいですね。
4月28日 うーん、やはり年配者か
いつも否定的なことばかり書いて読者の皆様にご心配をかけています。今日もおなじような繰り返しです。
先日、こんな話がありました。
自分はまだまだ若いと自覚していました。50代でありながら、テレビで50代の犯罪者などの顔写真や映像が映ると、「年寄りめ」なんて思ってしまいます。
診察していて、ある親御さんが云いました。「年配の先生(医者)なので、もう無理しないで、のんびりやればいいのでは」と云って前向きの挑戦を取り合ってくれない」と診察医の僕に話されました。「その医者は誰?」と聞くと、なんと同年齢の医者でした。ものすごいショックでした。ぼくも同じように見えているのだなと思うと、悲しくなりました。
以前にも書きましたが、僕の診察している成人になった少し知的障害をもつけいれん発作のあるB君がいつもテレビ見ながら布施明がでてくると「すぎもとせんせいや」とお母さんに云うそうです。そのことをおかあさんは、彼がそう云うたびに話してくれます。ぼくはこの話を聞くといつもうれしくてたまりません。でも布施明はたしかぼくと同年齢だったように思いますが、彼は若く見えますね。
年とりたくて年齢を重ねている訳ではないのですが、いつのまにか社会が求める主な年齢層を越えてしまっていたのです。うーん、やはりさみしい。
また愚痴になりますが、昨日は朝から夜まで5つの会議がありました。朝9時からの医療看護協議会からはじまり夜の障害者自立支援法案勉強会まで。終わったら頭の中に固い木の棒が縦に入っているような違和感を覚えました。こんなときの帰りの名神高速は悲惨です。昨日も後ろから箱形の大きなトラックが急接近してあおられます。「もっと静かに走れよ」と怒鳴っても相手に聞こえる訳でなし。
JRの事故は本当にこころが痛みました。前の3両に乗っていて車両が浮いた時、そして挟まれて亡くなって逝った方々はどんな想いだったでしょうか。23歳の運転手への怒りよりもJR管理者への強い怒りを持ちます。亡くなったのが20歳代以下の若者が多かったこともよりいっそう怒りが高まります。もうけを優先するJRなんか乗ってやるものか。でも新幹線は独占企業、、、
自分も管理者の立場ゆえ、身を引き締めてしっかりやらねばと思います。
3月31日 一年の弁解とお風呂
びわこ学園に来て、ちょうど一年になります。僕の人生56年間では激動の一年でした。生活パターンの変化は覚悟していましたが、実際はその予想をはるかに超えるものでした。
この数年は社会医学的な観点から物事の発想をしてきました。しかし、小児科医、小児神経科専門医という視点が基本にありました。ところが、この一年は医師というより施設長の立場の仕事が主で、これまでの比較的好き勝手な発言とちがって、責任者としての立場があるため、一字一句に責任があり不用意な発言ができなくなりました。このストレスははじめの半年ほどで、その後の半年は昔の思うがままの発言に戻っていました。
とにかく会議が多くて、一つ一つが長い。一つ5,6時間というのはざら。しかも立場上集中しなければいけない。これがむちゃくちゃしんどい。終了後の名神高速道路を京都に向かって走るのが、もっとしんどい、怖い。それでも色々提案してきました。途中「厚労省の障害福祉グランドデザイン」なるものが降ってきて、さらに考えることが増えました。
3月に入って平成17年度4月以降の事業計画も発表し、今秋までが今後の第二びわこ学園のあり方の討論だけでなくて、具体的な一歩踏み出す半年にならなければなりません。施設長として、どこまで指導性、責任性が発揮できるか、さらに体力がもつのか、はなはだ疑問です。でも前に進むしかないと覚悟して二年目を迎えます。
話しはがらっと変わります。
先週、野洲市内で「デンマークの高齢者施設のケア」という講演会がありました。講演者は莫設計の松村正希氏とデンマーク・ミゼルファートのゴイドベクスホイ高齢者センター施設長のカイ・イエンセン氏でした。
カイ氏発言のいくつか気に入った点を列記します(:以降はスギケン)。
* 施設長は働いている人のモデルである。常に見えるところにいなければならない。奥深い部屋に閉じこもるのは駄目:僕の部屋は二方向ガラス張りで、丸見えです。利用者が住むところへできるだけ行こう。
* 施設(カイ氏の施設はユニット型で1ユニット10人、それが4つ、みんな個室)がうまく運営できているかの判断は、そこで働く人の親を入所させたいかどうかでわかる:納得。重心施設でも同じこと。我が子を入所させるかということ。
* 風呂はない。シャワーを週2回保障:ご存じの通り、わが大和の国には風呂文化がある。特に高齢者は風呂へ入って「あー、気持ちがいい」の世界。デイサービスセンターでも風呂入浴が目的の人も多い。これが施設側にはたいへん困難。安全な入浴はあたりまえ、障害が重ければ重いほど人手も必要。それが週二回のシャワーでよいのである。介護の常識が異なっている。(人によっては年何回でよい人もいるとか?気候と文化の違い)
そういえば同じ北欧でもスウェーデンの障害者通所施設にはスヌーズレンの一つとして「風呂」があった。リラックスするための風呂である。清潔に暮らすための風呂ではない。
最後に、我が家の桜の老木もつぼみがふくらんできました。まもなく開花宣言です。恒例の桜見バーベキュー・ガーデンパーティを予定するのを忘れてました。今年はごめんなさい。来年は忘れずにやります。
我が家の風呂は、日本文化をさらに「発展」させて、閉鎖的(見えない)風呂でなく、一面が大きなガラス窓で桜の大木が眼前に見える2階にあります。しかも「座棺」風ミニチュア風呂でなく、僕が寝ころんでも足も頭も水の中というこだわり(これだけですが)デカ風呂なのです。難点は水量が豊富なのでデンマーク・シャワーと同じ頻度でしか使用しませんが。
3月18日 20年目の命日・父親の視点
20年という歳月はあっという間に通り過ぎた感があります。
剛亮という息子がいなくなって、悲しくて、寂しくて仕方がなく、この想いがいつまで続くのだろうか。一生だろうか。5年、いや10年たてば忘れるだろうかと20年前の当時は考えました。
20年後の結果は、なんのなんの剛亮はしっかり僕の背中に張り付いて、時として思い出させてくれます。悲しみも依然ありますが、それ以上に女々しい(これは漢字みると差別的な言辞かもしれませんが)駄目な父親への励ましの部分が日ごと多くなっています。「しっかりしいや」と。いつまでも6歳の声ですが。
春はだめです。毎年書いていますが、周りの雰囲気が春めいてくると、悲しみがどこからともなくやってきます。
こういう喪失感はきっと自分が死を迎えるまで続くのでしょう。
申し訳ないのですが、医者として立ち会った診療上での多くの別れとは、同じ子どもの死であっても異なります。この「違い」が、これまで看取った家族の方々に不快な医師像としてぼくの顔とともに記憶に残っているかもしれません。
なぜこのようなことを書くかといえば、20年前に出会った移植に関わった医師像が不快なまま頭の中にこびりついているからです。断っておかなければいけないのですが、息子の腎臓の移植は親であるわれわれから依頼しました。なにも説得されたことはありません。だから不快に思われるのは、筋違いと当時の関係した医師達は嘆くかもしれません。ある意味親たちは自分勝手なのです。でもたった一つの命が消えていく時くらい、親としてわがままを通してもいいでしょう。
命のバトンタッチと呼ぶ人もあるくらい価値観をおく行為の時に、きちっと誠意を持って対応できないでは、移植医療は長続きしません。20年経った現在は、まさかそんなことはないとは思いますが、いくつかを簡単に思い出せる当時の不快な内容について列記したいと思います。
1) 約束は守ってほしい。執刀医との会話で、執刀医の移植に関する業績を是非教えてほしいとたのみました。了解があったのですが、いまだに約束は達成していません。後日、その医師はたしか大学のトップの位置まで「出世」されたと聞きました。
2) 手術室での無駄な会話と笑いはまだ耳元に残っています。厳粛に対応してほしかった。
3) モニターでまだ心臓が動いているにもかかわらず、断りもなく当然のように腎臓の還流固定をしようと血管確保を始めた。マニュアルはそうなっていたのでしょう。
4) 開腹のあと、腎臓を取り出したあと、腹部を縫い合わせるとき、おおざっぱな縫い方でなく、快復手術と同様に丁寧に縫ってほしかった。死んだらおおざっぱでいいという感覚が理解できません。
20年も前の話しですから、まさか今も同じということはないと思います。でもこのホームページ掲示板への最近の経験談の書き込みを読ませて頂くと、そんなに現場が変わったという印象はないように思います。
根拠が希薄な上の「脳死宣告」と治療打ち切り提案・拒否のあと
勝手に薬や点滴水分量を減少させる
その先には修羅場が訪れるという恐怖
治療内容は医師の手のうち・逆らうことなぞできない
親がイニシアティブをとったのは、「移植」実行のみ
こんなことを繰り返し、ことある毎に書きながら年を取っていくのでしょう。
それにしても、いま一番知りたいことは、20年経った剛亮の腎臓はどうなったのでしょうか? 元気で活躍しているのか、それとも剛亮本人も知らない体といっしょにどこかで焼かれてしまったのか。
生きたものを残したいという親のエゴのおかげで二つの腎臓は取り出され、別の運命をたどりました。息子の分身はどうしてる?そう思うのは当時移植へのイニシアチブをとった父親だけかもしれません。家族同士でもその後の想いは異なります。
この年齢になって、今更ながら、奔流に逆らってもどうしようも変わりようもない流れに流されてしまう無力感を感じます。でも黙ってはおれない。この父親には、剛亮と合わせた二人分の生き様があるのです。無力であっても、なおほえ続けて人生が終わるような気がします。
2月27日 ご無沙汰しています。間もなく春ですね!
2月26日は久しぶりの「北欧の福祉」についての講演機会がありました。障害児の保護者会でした。グランドデザインの思想と「応益負担(この言葉は行政側には不快な言葉だと聴きましたが)」あわせながら、北欧と我が国ニッポンと何処が違うか?答えは簡単です。根っこの思想です。「障害は個人のものでなく、環境と接するときの障害であり、これは公的に保障すべきもの」という北欧の思想との決定的違いです。親兄弟だけでなく障害者本人が生活面で今後を心配することが本来はないような国になってほしいです。
その講演会での質問でフロアからこんな質問がでました。
「重度の障害を持つ人でも、やはり施設内生活であっても個室でしかも自分のオリジナルな部屋工夫が可能なようにしたほうがいいのでは」と。
それにたいして、施設人になった僕としては「なにがなんでも個室確保というのは正しいのか?」
「自分の意思決定が表現できない寝たきりの人の場合の部屋作りは職員や家族のニーズになるだけだし、みんな2、3人で顔の見える範囲でいっしょに生活するのもあってもいいのでは」と答えました。施設長としての弁解かもしれません。読者の方々のご意見をお待ちしています。
残念ながら今の重心施設では、職員数からしてきっちり夜まで1対1で見守りは出来ません。安楽な生活を保障するには個室という閉鎖空間はかえってリスクがある場合もあるのではないでしょうか?もちろん比較的軽度の方の場合は別でしょうが。
話は変わりますが、この一週間風邪をひいて、物事がまともに考えられない頭なのかもしれませんが、こんなときに限りいろいろなことが重なってきます。
本当にしんどい一週間でした。
昨日の講演でも「scottie」の箱を持参して、鼻水を拭いながらの話になりました。実は今日もびわこ学園では「滋賀県下の看護師研修会」が行われて、一施設長として討論参加が義務だったのですが、体が動きませんでした。一日ベッドで過ごすはめになりました。みなさんにご迷惑をかけました。少し元気が出ています。
昨夜、滋賀県で講演後、大阪吹田市あいほうぷ吹田での「わたしの季節」大阪初上映で飛んでいきました。心配無用でした。あいほうぷの方々が一生懸命宣伝くださり、トータル250名の鑑賞をして頂きました。団地の一般の方々の感想が大変興味深く、素直に登場人物から生きるメッセージをもらったと異口同音の記載があり励まされました。議会の重要位置の方からも「子どもにも鑑賞させるべき」というコメントもありました。アメ二テイフォーラムでも滋賀県知事が「いい映画でした」とコメントされたとか。
これから全国上映をしていくつもりです。その時かならずびわこ学園の生の声もいっしょに届け、現地で公開トークができればと願っています。
また話は変わります。このごろ宮本輝さんの完全読破を試みています。彼は僕と同世代の年齢です。だからかどうかわかりませんが、男女を描くときの心の描き方が自分にとてもフィットするのです。「優駿」を読んだときはすぐ近くに栗東トレセンがあり、大変親近感がわきました。北海道にもすみたいとまた思いました。「草原の椅子」では文中作者が常に「日本はどういう国や」「心根の貧しい国」「やっかみ深い民族」「逆恨み民族、姑息で嫉妬深い民族」といろいろな言葉でぶった切ります。こどもの虐待のはなしもでてきます。どうして「心優しい、弱い人ともともにあゆむような、成果をわかちあうような国」にならないのか。 同感同感の毎日です。どんなに疲れていても睡眠時少しでも読み進めると云う夜が続いています。
毎朝必ず東山トンネルを越えた国道沿いを黒い服・背広を着たカッコいい若い男女二人が、朝の眠い時(ぼくなんか機嫌の悪い時間)にもかかわらず、手をつないで歩いてくるのに「一瞬」出会います。たしか年末ごろまでは、女性が数歩うしろから歩いていたのですが、いまは狭い歩道をいっしょに肩よせて歩いています。「いいなー」と東山トンネルと越えるとそこは早くも春でした。
昨日のJRのなか、僕はほとんど座らないのですが、マッ正面に見える二人がけの椅子で若い男女が語り合っています。べたべたした雰囲気でなく、どちらも満面の優しさを笑みにうかべ遠目でもほっこりする雰囲気なのです。うらやましいなー。あ−いう青春は一回きりか?いつまでもその雰囲気でいてくださいね。
地下鉄の中での出来事でした。ごめんなさいですが、頭がうすくなったお父さん?が前抱きベルトにして3か月くらいのあかちゃんをだっこして立っています。僕より少し若いくらいかな?ふとみるとじいちゃん??僕は爺ちゃんではないし・・・よくみると横に黒髪(全く染めていない)の女性が向かい合わせにして立っていました。この女性、僕のみるところ20歳前後?いや30歳? うーん親子と孫か??違う。男女は夫婦か。・・結論なし。 でもものすごくいい雰囲気でした。よこからあかちゃんをあやしたくなるような雰囲気の男女プラスあかちゃんでした。これをうらやましい?というべきか。みているだけで気持ちが優しくなりました。
まもなく春がやってきますね。今週の目標は風邪を吹っ切ること。
2月1日 趣味の乱読・最近読んだ本
シリアスな内容とははなれて、最近の読書(乱読)ショート感想文を記します。本の傾向をみるとどんな性格かおわかりと思います。第二びわこ学園に赴任以来、名神高速通勤なので(電車で)本が読めないのが「大きな悩み」です。ナンバーは読了日を示します。作者、タイトル、出版社、ワンポイントコメントの順です。
050131
斉藤栄 神戸天童殺人事件 中公文庫
うーん もう一つ、もう一つ
050128
五木寛之 養生の実技 角川書店
なんかつまらない、おもしろくない.説得力がない
もっと加齢してから読むべきだったか?
050126
太田蘭三 闇の検事 講談社
実におもしろい。一気に読み切る。最近のトップのおもしろさ。
涙もでる。スジがおもしろい。
050125
宮本輝 ここに地終わり 海始まる 講談社 上と下
志穂子の生き方が難しい。梶井にどうしてひかれるのか?
うーん、いつもながら魅力的な展開であるが、なぜかスカッとしない。
050118
太田蘭三 旗本けんか侍 祥伝社文庫
いつもと同様楽しい内容、一気に読めました。痛快時代劇
050116
森村誠一 窓 光文社
一日で読み切る。いつものようにややこしい登場人物。でも一応工夫がされているが、偶然性がたかすぎるトリックだ。
050115夜
宮本輝 葡萄と郷愁 文春文庫
おもしろくない。二元別個の組み立てが内容的に全く交わらない。女の生き方としてもみえない。(捨てた)
050110
宮本輝 春の夢 文春文庫
夢中になる。共感。舞台が住道と大阪、 陽子のイメージがいい。
主人公哲之の素直な生き方、青春
1月10日 新年早々苦情
医療であっても福祉であっても物を売る商売であっても基本は、人間が人間として生を受け、楽しく日々を生きるためにサービスする、支援することだと思います。
そのサービスを提供する側の論理で、みせかけの「サービスしてまっせ」という押し売りは当初は納得しても時間経てば、細かなところで化けの皮がはがれてきます。
組織が大きくなれば、現場の細かな出来事が臨場感をもって理解できなくなります。通り一遍の「苦情処理」という紙切れで責任者へ通知されることになるのでしょう。現場の「小さな」ミスや提供側の不快で不用意な言葉でサービスを受ける側がどんな不愉快な想いをしたかは、提供側責任者にはまず伝わらないでしょう。現場で働くものがサービスを受ける側の気持ちを繊細にキャッチし、現場で苦情に対して誠意をもって対応するとともに、その問題点を組織としての弱点として普遍化し、責任者にサービスを受ける側の視点で報告することがないと同じことが何度も繰り返されます。そして、やがてその組織は魅力ないものとして内外から評価を受けることになります。提供側の弁解のための苦情処理であってはならないのです。
最近のように、どの分野も経営的にしんどい状況になると、現場の一部が正式職員でなくなります。委託や派遣職員になります。後者が必ずしも悪いとはいいませんが、苦情処理やリスクマネージメントの視点からは現場での対応は難しくなります。
一般的なことを書いているのではなく、第二びわこ学園の責任者として、常つねおこる具体的な出来事を想定しながら書きました。
立場は代って、正月早々の出来事でした。
良品と商標でも名乗るのですから、名指しで書きます。京都駅前近鉄の無印良品というところをよく利用してきました。年末に息子のベッドマットをカードで買い求めました。新年早々の配達を確認し、それがやっと配達されました。配達条件として自宅3階の部屋へ運ぶことを契約には明記していました。ところが配達請け負い者は、来るなり「狭い家の3階」ということでしょうか、梱包もとかずに、運ぶことが「無理」と簡単に判断し、いそいそとそれを持ち帰り、次の配達場所へ移動していきました。梱包を解いて時間をかければ必ず入るのですが、「梱包を解いて、入らなかったらキャンセルできませんよ」といって配達者の論理を通しました。たぶん無印良品の配達委託なのでしょうが、こんなところで時間とっていると、他へいけないというのが本音なのでしょう。簡単に運べないのはあなたの責任だといわんばかりに。狭い日本、いまどきセミダブルのマットをスムースに3階まで運べる家が何処にあるでしょう。仕事への視点の違いなのです。あきらかに消費者の視点でないことは確かです。ちゃんと約束まもって、利用者の視点でトラブルを解決してはじめて仕事が成立するのでしょう。「良品」などというネーミングを使うなよ。「無印」とは責任をとらないと云うネーミングなのか、と思いたくなりました。
わざわざ買い求めた近鉄百貨店の良品売り場にカードをもってキャンセルしにいっても、責任者が出てくる訳でなし、アルバイト?様の女性が無愛想に事務処理するだけでした。「この出来事をちゃんと責任者に伝えておきなさいよ。こんなレベルの低いコトをしていたらあかんで」と毒つくと、ニャっと笑っていました。「このおっさんなにいってんのや、うざいやっちゃ」と思えるような対応でした。売る側も配達するものも、その連携も、なにもかも苦情処理物件でした。
こんなときの対応のマニュアルがまるで徹底できていないのです。「あー、この会社も長くもたないな」とはっきり思いました。キャンセルした足で四条大丸へ走りました。対応はうまい。値段も品も間違いのないものをあらためて購入しました。老舗のデパートもいまや必死の努力です。
1996年当時のトロント、そして昨春のトロント再訪でも売り場を一周したスウェーデン家具のアイケアなどは、「返品係、苦情処理係コーナー」が大きな表示をして店内に存在します。権利意識の違いだけではないと思います。無印良品さまもやったらいかがでしょう。きちっと対応できる責任者をおいて。
もとへもどって、サービスの提供側の論理は、なんとみっともないことを改めて認識し、利用者の視点を自ら再確認した新年の「貴重な」経験でした。
12月25日 冬景色その一
今朝は冷え込みましたね。車のフロントガラスに氷が張り付いていました。
いつもの日直なので名神高速に乗り込み、大津トンネルを出てすぐに、左手の窓に真っ白な比良山系が目に入りました。びわ湖水面から一気に高度をあげる湖西の山々はいつみても感動します。真っ青な空をバックに冠雪でその山々がいつもより近くに感じるのです。
名神高速を走るとき、やっと余裕がでてきたのでしょうか。景色を楽しむことができます。
第二びわこ学園は有名な県立希望ヶ丘公園のつづきに立っています。たぶん2,3か月前の日記にも書いた?ように思うのですが、一時はイノシシ親子がくらくなると駐車場にまで出てきていました。その親子はしましまの子どもイノシシが道路でひき殺されてからは出没しなくなっていました。
昨日、昼間に「ここは自然動物園?」と思うような風景に出くわしました。三上山(近江富士)をバックに学園の屋根の上をなんと大きなサルが悠々と歩いていました。シャッターチャンスと思いカメラを取り出したころには山へ入ってしまいました。サルといえば、東山の自宅周辺にも出没するとのこと。
先週やっと時間がとれたので、娘夫婦に手伝ってもらって、庭にある大きな桜の木に「ピカピカ」イルミネーションをつり下げました。たぶん新幹線京都駅のホームから東山を見て線路より少し南方向の中腹に派手なピカピカが竹藪の上部に輝いて見えると思います。そこが我が家なのです。昨年買ったお気に入りの紫色のイルミネーションは安物だったのか、今年は光りませんでした。新たに買ってきたものは、まさにど派手で「夏のビアホール」か「安っぽいホテル」かと見間違うような七色に輝くものになりました。木が大きいので黄色一色のものと二つかけてあります。もし、夜に新幹線京都駅を乗降されるなら、一度みてください。31日まで点灯する予定です。ただし夜遅くまでという訳にはいきませんが。
ちょっと大げさです。殆ど見えません。
12月11日 30年前のモーニング
いつも同じことから思考に入ります。
代わり映えしない、気持ちの動揺がかくせない、成長できない、向こう見ずの老齢期へ入りかけた男だなー と。
自分の想いと違ったことがあると、「えーい、もうなにもかも辞めてしまえ」という発想になる。この歳になって「我慢などできるか」と。いつでも今の立場を放棄できる。不要な人間と感じたら、いつでも去るつもりである。夢は一つではない。
でも朝になったら気分入れ替えて、「今日もがんばろう」となる。
最近はこの繰り返しである。自分の存在価値を確認でき、それを必要とされる場所で残された時間を自分なりに努力したい。
まもなく56歳をむかえる。昨夜同じ誕生日のドクターをみつけた。かれは53歳だった。たった3歳であるが、うらやましい。3つ戻りたい。気の合う仲間と好き放題遠慮なく大きな声で「悪口」たたく酒も結構楽しい。
朝から日本小児神経学会理事会が東京であった。これまでは学会のたびに理事会のドクターに毒ずくだけの存在であり、「ごろつき」のような存在だった。でも時代は変わった。これからの小児神経学会はどうあるべきか?という討論のリーダシップを取る立場になった。責任がある。それでも明日のことを考えると早く会議を終わらせたい。出来るだけ黙る。嫌な性格である。僕が黙ると会議も短くなる。
明日娘が結婚する。30年前の自分の結婚式のために買ったモーニングを出してきた。
体型は変わっていないはずであるが、ズボンのおなかがはち切れている。チョッキもボタンがとまらない。ズボンの太さも昔風ピチピチ。
今夕、白いワイシャツやモーニング用ネクタイ、スジの入った靴下は東京駅の大丸5階で帰宅まぎわに買い求めた。ぴちぴちのモーニングで明日一日しんどいことだろう。
自慢じゃないが、自分のことは自分ですべて用意するコトができるし、いまはそうしている。以前にも書いたが、この習慣はカナダ・トロント生活で身につけた。
そのモーニングのポケットに黒い腕章が入っていた。完全に忘れていたが、長男の葬式に喪主としてモーニングを着たのであろう。30年間に3回袖をとおすことになった。次はいつだろう。
こんなことを考えると人生なんぞちっぽけなものだと痛感する。
そうだ、モーニングのネクタイの結び方がわからない。明朝本屋へ走ろう。
11月27日 酔っぱらって夢語る
11月23日は大津市のびわこホールの横にあるピアザ淡海というところで日本小児神経学会主催の医療的ケア研修講師養成セミナーを開きました。50人の予定がこの催しを発表した春の学会時にすぐさまいっぱいになり、たくさんの申し込み者にお断りしたセミナーでした。結局55名の参加で討論も白熱し無事終了しました。内容は以下の通りでした。講義が半分で討論が半分という形式をとりました。参加者は北海道から九州までの小児神経専門医、小児科医で日常的に養護学校等の支援をしている医師ばかりで、その筋の強者ぞろいですから討論も白熱しました。
9時20分
総論 医療行為と医療的ケア、指示責任論、システムなど:北住映二 先生
(心身障害児総合医療療育センター)
厚労省の研究会の答申は軽微三項目についての解釈で、それ以上には研究会は言及していないことを強調。
10:30から
呼吸器系の管理(気切、吸引など内科的、気管喉頭分離術を含む)
:三浦清邦 先生(愛知県心身障害者コロニー中央病院)
几帳面な講義できれいな図を使っての講義でした。体位をどう取るか、何時手術するか
11:40-12:40弁当休憩(ものすごくいい天気で、琵琶湖畔で弁当を広げた参加者もありました。)
12:40から
消化器系(鼻腔チューブ、EDチューブ、胃ろう、栄養カロリーなど内科的)
:口分田政夫 先生(社会福祉法人びわこ学園・第1びわこ学園)
豊富な実践からの報告でした。胃ロウ方法については地域差があり討論になりました。
13:50から
消化器系外科から(GER,胃ろう造設術、一部気管喉頭分離術にもふれてもらう)
:川原央好 先生(大阪府母子総合医療センター小児外科)
大阪の人ならご存知の川原節で、参加者も川原節に引き込まれる明瞭な切り口の話でした。
15:00から
導尿、泌尿器系について:塩見 努 先生 (ボバース記念病院泌尿器科)
たいへん勉強になりました。極論すれば清潔よりも導尿の時間を短くすることが大切とのこと。二分脊椎と脳性麻痺の導尿のちがいなど。
16:00から17:00(確実に終わる)
相互討論(司会杉本健郎)で終了とする。
来年は仙台で夏に行います。残念ながら医師向けの研修です。
僕の役目は、この講義と討論のまとめをCDにして参加者に送付すること。そして統一プログラムで研修講師として地元で登場してもらうことです。
以上は医師向け研修プログラムです。看護師向けプログラムはびわこ学園で実習つきで第二回を来年二月に行う予定です。一応滋賀県内の公募の予定です。またここに掲載します。できれば広く募集と思っていますが、実習が伴いますのでせいぜい一回は30人くらいまでになりますので、まずは滋賀県からと。
11月24日から26日まで沖縄の恩納村ビーチの電子メールAir Hの届かないホテルでの西日本重心施設施設長会議でした。これについては一つだけ意見を述べます。
医療的ケアを必要とする重度児(超重度児)が地域で本当に過ごせるのか?どんな支援ができるのか?重心対応グループホームとは中身は何か?
岡山の末光氏が明瞭に発言、「いま世間でいわれている重心対応GHは医療的ケア抜きのものである。これに重心GHとはいわないこと」全く賛成です。医療的ケアが必要な重症児者がGHで対応できるシステムや経済的基盤は我が国にはありません。長野、宮城、熊本等のGHは重心認定を受けていても、医療的ケアが必要ない方が今利用しています。
施設入所や地域の在宅者でも日常の活動をするときに誰に支援してもらうのですか?だれにどこへ連れて行ってもらってどんな活動をするのですか?そこでの医療的ケアは誰がするのですか?気管切開していたり、人工呼吸器などの場合はだれが支援するのですか?それは入所者の場合、医ケアのできる医療職であり、地域では親が主になるのです。しかし施設には十分な園外活動を保障できる余裕はありません。親には親の生き方、人生があります。
第二びわこ学園はこの課題にまっこうから取り組む討論を始めています。医ケアの必要な在宅者支援も入所者の昼間の活動支援も、そして学校での安全な受け入れのための支援も出来る限り取り組んでいきます。GHを作るということではありません。GHにはシステムがありません。経済的保障もありません。まずは専門的にどんな重度の方でも、そして施設の内外を問わず利用できる訪問看護ステーション(社会福祉法人びわことは異なる形)からです。町中に作って、ステーションの一階にはケーキ屋さんつきの障害者雇用で、しかも障害の軽重に関係なくみんなが集えるレストランを作りたいです。そんな夢を描いています。そうなれば地域文化が変わるでしょう。さあ実現できるかな?
酔っぱらっているので文脈がつながっていないような気もします。でもこれが僕の当面の大きな課題なのです。またびわこ学園へきた理由でもあります。
11月13日ドクター・コトー
ドクター・コトースペシアルを見ました。
このごろテレビ見る時間も、元気もなく、家にたどり着くなり風呂にも入らずすぐ寝る生活でした(朝シャワーあびますが)。でもドクターコトーはどうしてもみたくて、昨夜はビデオ取りしました。今日、びわこの日直を終えて帰るなり、一人で自分の飯を作りながら、食べながら、飲みながら、なんとか9時までにビデオを見終えて、引き続き今夜の第二編をビデオを取りながら最後まで見てしまいました。
あのコトーのキャラがいいですね。時任の海の男もいい。柴咲君も少しふっくらして「きつさ」が少し消えてきました。
大学病院を追われるようにして南の島へやってきたメスの切れる若き医師コトー。自分を主人公と置き換えるにはあまりにも年齢を重ねすぎたのですが、気持ちが重なります。それでも途中で「俺も医者だった」なんて現実を思い出しながらの鑑賞でした。
自分も無医村へ行って働こうと本気で考えていた学生時代もありました。なんでも出来る医者、簡単な手術も出来る医者を目指して長野県の佐久病院の外科志望でした。それがどんなきっかけからか、子どもの障害を診る医者になろうと方向転換し今に至っています。そして医師になって手術のために手術室へ医者として入ったのは、梅田近くの大病院で働いていたときの深夜の一回だけでした。内科系当直の夜、アッペ(虫垂炎)の緊急手術でした。産科当直医が麻酔をかけ、当時60歳を越えていたいつも靴下をはかない副院長の外科医が執刀し、僕が助手を務めました。たったそれだけの経験でした。
そうです30年ほど前のことでした。
このテレビをみて、今の若者は離島へ行くという想いになるのかもしれませんね。一人でもそんな若者が増えたらいいです。
テレビみながら箱にはいったテイッシュを半分ほど使ってしまいました。このごろ酒を飲むと涙もろくなり、泣き上戸になってしまいます。
先日も男山病院時代の女医さんのめでたい結婚式の主賓テーブルで、彼女の父親とのピアノの連弾がはじまってから、涙が止まりませんでした。父親は小児科医でピアノは60歳から習い始めたとのことでした。まるで自分が父親の気持ちになっているのです。花嫁は娘と同じくらいの年齢です。なんともお恥ずかしい次第でした。
結婚する相手も大学の医師で、出席者が医者だらけのなかで学会発表でなく、祝辞を述べるという大役があり、気持ちが落ち着かず、それを避けるためにはじめから酒をがぶがぶ飲んだための泣き上戸でもありました。講演や学会発表では絶対に「あがらない」のですが、どういう訳か結婚式のスピーチだけはむちゃくちゃ緊張するのです。
その後輩の女医さんも結婚後はびわこ学園と同様の重心施設で働く予定です。うれしいことです。彼女だけでなく自分の「教え子」(勝手にそう思っています)の多くが障害児医療に関与した小児科医になってくれています。
こんなことを書くとまた年齢を感じてしまいます。でもまだまだ働ける。
そう、しっかり医者として働かなあかんのです。
びわこ学園の定年後は無医村か離島へ行こうかな? もしその時、体が元気なら。少しは一般外科でトレーニングしなければなりません。傷を縫い合わせることすらできない腕前なので。そしていまは血をみるのも嫌な医者なのですから。そうです60歳の手習いとして。
10月31日 10・24シンポを終わってこれから
びわこ学園へやってきて最大のイベントが24日に無事終わりました。再三掲示板に書いてきましたシンポジウムです。これまでの医療的ケアネットワーク近畿とびわこ学園、びわこ学園後援会が共催したものですが、ほとんどはびわこ学園のメンバーにサポートしてもらいました。自分の計画は7月にありました。学園の中でも地域と結ぶようなシンポをしたいことを会議で述べてきました。
ちょっと場違いな医者が園長というトップに飛んできてすぐさま、いろいろな提案をするものですから、びわこ学園の中には戸惑いがあったと思います。たぶん、僕をすこし無理矢理引っ張ってきた手前、なんとか園長を支えなくてはという想いも管理職を主にあったと思います。
うれしいかぎりです。園長として支援されていることは様々な会議の場で感じてきました。もとより、まどろっこしいことは大嫌いで、決断力のない指導者もあまり好みません。なによりもやらねばならないことを「だらだら」と先延ばしすることも不快なのです。そんなわがままなトップを支えて、協力体制をとってくれたびわこ学園に感謝しきりの一日でした。うれし涙がでるというのではなくて、一人一人の支援の動きを園長は何もしないで旗だけ振って近くからみせてもらい、「うんうん」という気持ちで常に笑顔がでました。感動というより、共感するものを感じました。だれもが利用者のより快適な生活のために、びわこ学園をよくするためにもくもくと働く姿でした。
今回のシンポは午前は同じ敷地内にある滋賀県立八幡養護学校の野洲校舎の教師先生方が全面的に担当してくださいました。医ケアネットワーク近畿として。時間が短く近畿一円の養護学校での現状整理まででしたが、それぞれの課題が明確になりました。これは12月の亀岡でのネットワーク例会で引き続き討論することになります。来春の文科省の施策による「軽微3項目の看護師常駐による教師の実施」は全国的視野では前進だと思います。しかし、これまでは気管内吸引も実施してきた京阪神地区の肢体不自由校での「後退」はあるのか?9月の厚労省研究会の報告は、このことにはふれていません。イエスでもノーでもありません。今後はこの報告の解釈をめぐって立場立場で主張が異なることもおこると思われます。看護師の待遇の問題や保健室との関係、重い障害をもつ子どもたちへの障害児教育の中身の討論もあります。三位一体改革とやらで義務教育費負担から国が手を引こうとする施策案をみると、やはり教育や福祉はあくまで公的責任で貫徹すべきというこれまでのあたりまえの視点をいまこそ声を大きくして叫んでいかねばなりません。
午后は厚労省のグランドデザインを中心とした討論でした。このデザイン作成にあたっては厚労省福祉はトップメンバーを組んで徹夜をくりかえしながら作成したと聞きました。かけ声だけのデザインではなくて本気で来春の通常国会に出される案になりそうです。三位一体になるとこれまでの国での施策の流れが変わります。それが落ちる前に、厚労省としての意地のようなものを感じました。
デザインは個人的な評価としては、基本にスウェーデンの社会サービス法を意識し、1991年にスウェーデンでもLSS法でやっと認知した「強度行動障害」「医療的ケアなどを必要とする超重度者」の地域での生活も今回のデザインには明記されています。またどんな障害の人に対しても「昼間の活動」を保障するための事業を「夜、安心して休める場」の保障をわけて指摘している点も現状からみると興味深い施策です。この辺もデンマークなどが取り組んでいる、棲む場所と活動する場をかえて取り組んでいる施策に重なってきます。ただ、デンマークの施策の基礎は日本の倍の障害者年金があり、それを自己決定のもとに活用し自分たちで生活様式を組み立てるという考え方です。
残念ながらグランドデザインはお金の落とし方は、「新自由主義的」な米国の流れに乗っています。「応益負担」という自己負担を強いています。お金のない人にはそれなりの支えをすると書いてありますが、具体性はありません。介護保険の見直しも平行して行われています。はたして保険者、被保険者の自己負担がどの程度になるのか?しっかり注視し発言していかねばなりません。
長くなりました。まだまだ書きたいことがありますが、シンポの企画が7月として、10月にグランドデザインがでて、その後二週間で厚労省大塚氏を招いて、その「旬」の話を渦中の「入所施設」自らが討論会をもったことに因縁とタイムリーさを感じました。びわこ学園自身が今後の地域支援と利用者の視点に立った日中や地域での活動をどのように展開していくか?をこれまで以上に真剣に討論を重ねたいと考えています。できればまず地域である野洲市を重い障害のある人たちとの共棲モデル地域にするために行政とともに考えていきたいと考えています。ちょうどデンマークのオーフス市が取り組んでいるようなものを具体的にハードもソフトも作っていきたいのです。近いうちに新たな共棲の文化をびわこ学園もはいって、地域の福祉関係、市関係、様々なNPOなどといっしょに作り上げていきたいという自分自身の50歳台後半の「夢」を描いています。
皆様方のご支援とご教示をお待ちしています。
10月11日 一郎と子どもの夢
子どもの夢を大人がつぶさないように。
子どもが親に「一郎のようになりたい」と云った時、「一郎は特別の人、あの人は別」と、そして「ほとんどの野球選手が二軍で終わる」と、親はいう。
そうして大人は子どもの夢をこわしてしまう。
「いま僕がこうしてここにいる」と一郎は言葉を一つ一つ選びながら語りました。ということは両親が一郎に夢をもたせたまま大人にしたのでしょう。
日本の団塊世代の親たちは一郎のような息子をもちたかったと思ったことでしょう。
今日11日の夜7時のNHKニュースでした。
それにしても、すごい若者だなと思いました。常に子どもたちへのメッセージを持っている。子どもたちは無限の可能性を持っている。
それを生かすも殺すも大人か。
僕もずっとずっと夢を追い続け、知らぬ間に老いてきました。
子どもの頃、果たして僕の両親はどうだったのか? ここに書くほどの結論は見いだせませんでした。たいした記憶がありません。
いまは、自分の責任です。自分が求めていた生き方をどう実現するか、、、、
1996年にはじめて海外で暮らしました。そこには多くの人の理解と援助がありました。「清水の舞台から飛び降りた」気分でしたが、いまはそれがしっかりと自分の人生の鍵になる一年でした。それなくして、今の進路はありえませんでした。
海外での研究生活はそれ以降のその分野でのサクセスストーリーを描こうとする場合が多いのかもしれません。遅まきながら僕もそういう側面もあったかもしれません。しかし、一年経ったあとは、違っていました。青春の想いに立ち戻りました。そして、海外とのバリアーもなくなりました。
久しぶりにアルコールを飲んだ(飲めるようになった)ので少し感傷的になっているのでしょう。ちょっと押し付けがましい内容になっているのかもしれませんね。
先週、なんとカナダのモントリオールから若い、そして美人の雑誌記者がわざわざびわこ学園にインタビューに来ました。英語でなくフランス語の通訳の方を伴って。
森岡先生といっしょに英文でだした「森岡杉本提案」を読んだからなのでしょう。
会話はフランス語、英語、日本語がごちゃごちゃに混じったややこしい2時間弱の時でした。
一つだけ印象的なこと、「何故、脳死や移植に取り組んでいるのか?」という僕への彼女の質問に、「1985年に長男を失った」という話から始め、内容をフランス語に通訳してもらうと、彼女は突如、プロの海外からのインタビュアーにも関わらず、涙ぐんだのでした。
彼女もきっと悲しい経験をしていたのでしょう。それでこの問題に取り組み、わざわざカナダから子どもの脳死と移植の討論が沸騰している日本に取材に来た理由の一端が理解できました。
はたしてどんな記事になるのか。
この二時間弱の興奮からさめないうちに、続いて第二びわこの運営会議でした。4時間の討論が終わったときには、めまい発作が再発です。
でも前向きの結構楽しい会議なので悔いはありませんでした。自分が長引かせている可能性もあるのですから。
いろいろご心配をかけました。今夜はgoodです。
明日からまた気合いをいれて仕事できるかな?と思います。
今日12日は比較的良くなっています。
10月2日 病欠のおわび
本当に申し訳ありませんでした。今朝の男山病院の外来を休んでしまいました。
30人を越える予約していただいた方々に深くお詫び申し上げます。
病状は過労からくる自律神経失調症と食事摂取が不定で、いい加減からくる消化器症状の悪化が重なり、動けませんでした。首を少し上下や左右にまわすと同時に目が回り、バランスを崩すという状態で、部屋から出て最小限のことしかできないのです。
昔と同じ体力があると信じて、計画を作ります。移動可能な限りの時間設定にします。これがつもりつもって、あふれ出たのだと思います。
木曜の夜からめまいが頻発しはじめ、寝返りうつたびに不快感で覚醒しました。愚痴になりますが、宿泊したホテルが今年できたとこだというのに、部屋がものすごくたばこ臭くて、今から思えば部屋の変更を申し出るべきでした。 金曜日、朝から静岡でのてんかん学会では格式を重んじる方からすれば無作法な発表(自認しています)を無事終了し、新幹線静岡駅ホームでのめまい発作にもなんとか対応しながら、すぐさま京都へ帰り、JRで折り返し、大津プリンスホテルでの近畿重症児施設長会議に出席しました。近々にやってくるであろう「三位一体改革」が重い障害を持つ人たちを支援する重症児施設にどのような影響がでるのか? そんな話もでました。
第二びわこでは、施策の変更を受け身的に待つのでなく、積極的に意見を行政に出していく姿勢が必要と思い、風通しのよい地域にひらかれた快適な施設作りを目指して、討論を重ねつつあります。
夕方会議終了後、症状が増悪するなかで、医学生と約束していましたのでホテルフロアで1時間半ほど会話しました。十分な気合いの入った話ができずにごめんなさい。でも神経症候の捉え方やみかた、考え方から、これからの医師になるにむけての心構えのようなものが討論出来たと思います。
二十そこそこの医学生をみて、僕にもこんな時期があったのだなー と話しながら青春を感じていました。若い学生さんと本音の話をするのも楽しいし、元気をもらいます。またそんな折に、その学生さん達の親の生き方も少し聞くことにしています。僕と同世代の親達がどう生きてきたか、そしてその姿を子どもの視線がどう捉えていたか、などが大変興味深いのです。これは自分にも投影される課題です。
少しの時間でしたが、しんどいのを忘れる楽しい会話でした。きっときっと誠意ある暖かい医者になってくれる人たちと思いました。病院の診察室で待ちかまえる医者でなく、患者の生活、生き様を丸ごと診られる医者になってほしいですね。
それから、急遽決まった臨時のびわこ学園経営会議に途中から出席しました。
その時はもう討論できる状況でなく、会議しているメンバーの横で横になっていました。まさに近未来の施設のあり方を問う一つの課題で、火曜日の夜10時半まで続いた討論の延長戦でした。なんとか一つの合意に達しました。しんどい会議ですが、結構楽しいのです。学生時代に大学をどうかえるか、世の中をどうかえるか、という討論を深夜までやったのを思い出す機会が多い毎日です。
大津から京都市内の自宅まで自動車で送ってもらったのですが、症状は改善せず、今朝はまともに起立できませんでした。
朝から先ほどまで、ときどきパソコンメールを開きながら、ベッド上で読書し、風呂でねそべりリラックスするという「素人療法」の一日でした。
まだ読んでいなかった森村誠一「青春の証明」を読破。
いつものように章ごとに違った登場人物がでて、それがどんどん増えていくパターンです。何度も前のページを読み返しては、「えーと、主人公のもと恋人で・・・これがその息子で・・・」という調子で、めまいがどんどん悪化するようなめまぐるしい展開でした。僕の青春は? 一人一人、殺人事件を起こしているわけではないにしても、みんな違った歩みがあるのでしょう。楽しいこと、悲しいこと、いろいろなこと。もう一度やり直しても決して良いことばかりではないと思います。その時その時、一生懸命考えながら歩んできた青春、そして中年、老齢期への道なのですね。
本日は本当にご迷惑をかけました。お許し下さい。
体を鍛え直すことの一策ですが、限りある命ですから、うまく若い後継者につないでいくという視点も本気で考える時期なのかとも寝ながら考えました。
9月21日の想い
今朝、国道一号線を走っていて、悲しい出来事に遭いました。
3連休あけの国道はいつもより混んでいました。アクセルやブレーキを踏む足の感覚も少し違和感を感じ、なんとなくけだるい休み明けの運転でした。
ある峠を越えると4車線の反対側2車線が、まったく一台の自動車もすれ違わなくなりました。
そして、その二車線の真ん中にパトカーが止まり、警官が立ち、その次の絵は、道路の真ん中に青いカバーがかけられた「もの」がありました。横目でゆっくりと通り過ぎる時、白くなった二本の足が見えました。反対車線上の絵でした。僕の方の車線にはフルフェイスのヘルメットと一足のスニーカーがころがっていました。
今日から「交通安全週間」だそうです。
その朝に一人の命が消えました。道のアスファルトの上にころがって、ただ青いカバーをかけられた青年の姿だったのです。
夕刊によると、事故は午前8時前に発生したそうです。僕が横を通過したのは8時半すぎでした。
すくなくとも30分以上道路の真ん中のアスファルト上に荷物のようにカバーをかけて、しかも足が出ている状態だったわけです。
現場保存、検死かどうか知りませんが、亡くなった人の尊厳はどこにあるのでしょうか?家族が見てどう思ったでしょうか?職業として、法の取り決めがあるのかしりませんが、あまりにも残酷で悲しい気持ちになりました。たった一つの命がいまさっき、ここで、消えてしまったのです。
ふと、1985年春に車にはね飛ばされた息子の姿とだぶりました。息子は救急車にのせてもらったそうですが、親はその間のことを全くしりません。
いま、亡くなった青年の親や近親者はどんな夜を迎えているのでしょうか。
夜、ウオーターボーイズの最終回を見ました。これまでの二作で「うけた」場面を同じシナリオでちょっと変更した「パクリ」だとわかっていても、「感動」しました。高校生のエネルギーを画面いっぱいに描いて、単純な筋書きとわかっていても、見ていると気持ちが洗われます。素直な気持ちになれます。
あの年齢の時に、僕は何を思い描いていたのか? なんかいいことあったっけ?
中途半端な受験への学習を日々もんもんとしながら過ごした時代でした。なんにもクラブ活動することなく、ただなんとなく医者を目指していた高校3年生だったように思います。主張がゼロでした。
僕の青春は、たった一人、家のしがらみから逃れて、京都で浪人生活するなかで始まりました。恥ずかしながら、予備校で初恋と失恋の味をたっぷり味わい、そして「過激」思想にも突入し、いまの原点が作られました。
それ以来一度は京都を離れても、また京の地へ舞い戻っています。
たった一度のちっぽけな人生ですが、「いのち」を大切にしたいですね。
今日、9月21日はそんな一日でした。
9月15日 臨時公報 小児脳死についてのアンケート結果
2004年9月12日日本小児科学会理事会で以下のアンケート報告を日本小児科学会雑誌にアンケート報告として掲載されることが決定しました。近日中に同学会のHPにもアップされます。この理事会承認で公表可能との基盤整備委員会での合意がありました。よってできるだけ多くの方々にアンケート結果を知っていただきたいので、このHPにも掲載させて頂きます。いろいろご批判もあるかと思います。どうぞHPの掲示板に書き込むなり、直接杉本健郎のメールに送信下さい。
また、この公表先立ち、結語部分に書きました通り、日本小児神経学会では引き続き同様の検討を前方視的に行います。すでに同学会機関誌「脳と発達」の最新号の表紙裏の綴じ込みとして会員に研究協力の依頼文とアンケート内容を掲載しています。
このアンケート結果で我が国の臨床現場での脳死、脳死に近い小児の診療内容が明らかになったと思います。
なお、この公表の責任は杉本健郎が負います。
2004年9月15日 杉本健郎(第3分科会事務局責任者)
PS・文章を転載される場合は、日本小児科学会雑誌(掲載決定)として下さい。
小児脳死の実態と診断についての全国医師アンケート結果(2004年)
日本小児科学会小児脳死臓器移植基盤整備ワーキング委員会第三分科会:日本小児神経学会小児脳死診断基準検証会議
杉本健郎(第三分科会長)、飯沼一宇(議長)、二瓶健次、阪井裕一、大野耕策、冨田 豊、
高田五郎(担当理事)、太田孝男(担当理事)
谷澤隆邦(副委員長)、清野佳紀(委員長)
抄録
2004年2月から5月にかけて、全国小児脳死(疑い含む、15歳未満)症例について日本小児科学会研修指定病院467施設と救命救急センター170施設を対象に郵送でアンケート調査を行った。
一次アンケートでは、1999年5月以降の4年半の間に、15歳未満脳死(疑い例含む)は163例(75施設)であった。少なくとも年間40〜50例の小児脳死(疑い含む)例の発生が報告された。
脳死(疑い含む)原因病名として虐待は乳幼児8例、不明死は11例あった。
第二次アンケートは第一次163例を経験した施設の回答医師に郵送で調査し、74例(45%)の回答を得た。二次調査対象施設回収率は、36施設(49%)であった。
脳幹反射を診断基準通りすべて(7つ)を実施した症例は23例(31%)であった。
脳波記録は59例(80%)で実施されたが、5倍に感度を上げたのは35例(47%)であった。全例病室での記録で、アーチファクト混入が9例で記載された。
無呼吸テストは11例(15%)で実施されたが、全身状態悪化のため、4例は途中で中止し、最後の血液ガスまで記載があったのは4例(うち1例はpCO2のみ)であった。
脳幹反射実施、脳波記録、無呼吸テストを重ねると、脳幹反射をすべて実施の23例中、感度をあげての脳波記録は13例、うち無呼吸テスト実施は6例で実施された。すなわち、脳幹反射と脳波記録まで診断基準に沿って厳密におこなった臨床的脳死診断は13例(18%)で、無呼吸テストまでとすると6例(8%)と極めて少数症例であった。
厳密な脳死診断(一部で判定)をしたのが少数例であった。年齢内訳は、6か月児例を含む6歳未満が8例で、それ以上が5例であった。経験施設は5施設(小児科3,救命センター2)であった。13例については呼吸回復や脳死状態と矛盾する結果はなかった。13例では診断基準は妥当であった
少数例であった主な理由は、「家族への終末医療の対応によって、あえて診断や判定を行わなかった」との内容が記載されていた。第一回から第二回判定を行ったのが32例(43%)にすぎず、最近の4年半の時期には、医療現場では厳密な脳死診断をあえて行っていない現状が確認された。
脳死診断/判定には、主治医以外の専門医としての立ち会いは、小児神経科医が23例(全例小児科施設)、麻酔科医8例、脳外科医7例(全例救命施設)、ほか4例であった。
今回の調査では厳密な脳死診断は極めて少ないという結果であったが、主治医が脳死状態(疑い含む)としてから心停止まで30日以上かかった症例・長期脳死例は、18例(24%)存在した。
1. 経過
子どもの脳死・移植については現在社会的に広く討論されている。日本小児科学会でも倫理委員会を主に3年来取り組んで来た。2003年6月下旬の小児科学会理事会記者会見による日本小児科学会の提言を受けて、11月28日「日本小児科学会脳死臓器移植基盤整備ワーキング委員会」が発足した。その主旨は日本小児科学会小児脳死臓器移植検討委員会(委員長・谷澤隆邦教授)の提言(日児誌2003;107:954-8)内容を具体化していくものである。
1)小児の自己決定を尊重するために、2) 被虐待児脳死例を排除するための方策、3) 小児脳死判定基準の検証、上記3点のうち1)は清野佳紀岡山大名誉教授,2)は谷澤隆邦兵庫医大教授、が座長で1月から基盤整備委員会ワーキングで開始された。3)の判定基準は、より専門性が高いために、日本小児科学会の分科会であり、専門学会である日本小児神経学会でワーキングチームを作ることになり、2003年12月小児神経学会理事会でワーキングチームを作ることを承認し検討を開始した。
2.小児脳死の実態と診断についての小児神経学会小児脳死診断基準検証会議
議長・飯沼一宇(小児神経学会理事長・東北大学小児科教授)、大野耕策(鳥取大学脳神経小児科教授・小児神経学会理事・倫理委員長)、二塀健次(国立成育センター神経科医長)、阪井裕一(国立成育センター救急診療科医長)、冨田 豊(鳥取大学保健学科教授)、事務局担当 杉本健郎(小児神経学会理事・小児科学会倫理委員会委員・現第二びわこ学園)、事務支援として中村彰利(関西医大男山病院小児科部長)の構成である。
目的は、1)我が国での2000年以降の小児脳死の現状を把握する、2)1985年1)、2000年2)の脳死判定基準の小児への適応の検証、3)長期脳死・慢性脳死を含めた小児脳死の文献的検討で、上記、3項目の検討により、専門家としての社会的使命として、小児脳死の実態と診断についての情報公開を行うことにある。
目的の1)、2)については2月下旬回答期限として郵送による全国アンケート調査を行った。今回はその第一次および後述する第二次アンケート結果を報告する。
3. 一次アンケートの内容と主な結果
アンケート回答は矢印(→)で記入した。
1) 施設名( )回答医師名前( )E-mailアドレス( )
→小児科学会研修指定病院(以下小児施設と略す)467施設と救命救急センター(以下救命施設と略す)170施設へ郵送し、それぞれ238(51%)、53(31%)、あわせて291(45.7%)施設から回答を得た。
2) これまでに小児(15歳未満・6歳未満も含む)の脳死状態症例(1985年厚生省脳死判定基準を参考にして)を経験されたことがありますか。(ある ない)
3)「ある」場合、お聞きします。(経験年度の限定はしません)
脳死臨床診断症例数 ( )例、 経験された年(複数の場合はそれぞれ列記下さい)
あえて診断していないが、脳死と疑われた症例数( )例、 経験された年( )
→経験年を限定しないで小児脳死をこれまで経験した施設数は130(44.7%)で小児施設97、救命施設33であった。(1999年5月以前の6歳未満症例はすでに報告されている2)。)
4)上記症例のうち1999年5月以降の脳死経験例(脳死と疑われた例を含む)は、
( )例、これらの症例につき、以下に二次調査のための情報をお願いします。
症例1(貴施設の認識番号で結構です・特定できるIDなどは書かないでください)
西暦年度( 年)、年齢、性別、原因疾患
→該当症例数 163例(75施設)、年齢:乳児以下32例、1歳〜5歳79例、6歳〜15歳未満52例、
→経験年:2000年29例、2001年28例、2002年42例、2003年53例(一部1999、2004年)
→主な原因疾患:脳炎・脳症、脳腫瘍、脳出血、髄膜炎など:81例、頭部外傷:31例、溺水17、窒息15、虐待8(乳児4、幼児4)、不明11
4.第二アンケート内容と結果
今回の二次アンケートは検証会議目的の2)についての検討で、1999年5月以降の症例が対象である。特に6歳以下の症例では2000年小児脳死判定基準の検証が大きな目的であるが、同時に診断(判定)前後の医療上の課題についての質問も含んだ。2004年5月下旬を回答期限とし郵送でアンケートをした。
1).貴施設認識NO. ( ) (M, F) 入院時年齢( )、原疾患( )
→対象163例の第一次アンケート回答医に依頼し、74例(45%)の回答を得た。対象施設別では、小児施設27例(52%)、救命施設9例(41%)で、全体として36施設(49%)の回収率であった。入院時年齢は、乳児13例、1〜5歳32例、6歳〜14歳27例、(不明2)であった。
2).脳死診断の目的
(選択肢・重複回答):医学的診断(→37例)、家族への状態説明(→51例)、その他(→3)
3). 臨床脳死診断実施について
診断医師(複数回答):主治医(→54例)、小児神経科専門医(→23例・すべて小児施設)、麻酔科医(→8例)、脳外科医(→7例・すべて救命施設)、その他(→6例)、診断していない(→5例)
・第一回診断は、貴施設入院後(→当日:2例、1〜7日:44例、8〜29:9例、30〜4月:2例)
・第二回診断は、(実施→32例)第一回診断後(→7時間:1例、24時間:6例、2〜7日:13例、8〜29:9例、1〜1.5月:3例)
・ 臨床診断時、保護者の立ち会いはありましたか・あった→8例(すべて小児施設)
なかった→47例
・ 貴施設では脳死診断を他の委員会でも確認しましたか(した→1例・倫理委員会)
(していない→57例)
4). 原疾患について
・ 診断は容易であった(→53例) ・ 診断まで(→6例・数時間〜10日かかる)
・ 心停止まで診断確定できなかった(→6例) ・検死は(あった→3例)
5). 臨床脳死診断、除外診断について(→結果割愛)
・ 診断時血圧 ・体温、深部体温、投与薬物
6). 診断方法について (原則として6歳未満は2000年基準、6歳以上は1985年基準)
(1) 瞳孔の大きさ(診断時)→3mm:1例, 4mm:6例, 5mm:9例, 6mm以上:33例
左右差: あり→13例、偏位:あり→0、特に問題あれば→0
(2)脊髄反射 胸部以下の疼痛刺激等に対する反応は (ある→13例 ない→46例)
(2) 脳幹反射について実施した反射に丸印を →7つすべて実施:23例、前庭以外6つ:10例、3〜5つ実施:13例、2つ実施(対光と角膜):9例、1つ実施(対光):9例
(4)脳波記録について 実施→59例(すべて病室) 実施していない→11例
記録者(設問説明が不備のため割愛)
記録回数→1回:12例、2回:20例、3回以上:26例
診断時記録持続時間と 記録速度 (割愛)
心電図同時記録した →50例
2uV/mmで記録した→35例、 その時間(割愛)
単極記録 双極記録 導出数(割愛)
刺激・呼名、顔面への刺激した→40例 していない→10例
脳波記録で、なにか問題点がありましたか→(増幅記録9例にアーチファクト混入)
(5)無呼吸テスト・実施した→12例、
していない→56例→理由:保護者希望せず 8例、必要感じない/しない 5例、臨床的診断の
み 11例、状態悪かったので 21例
a. 無呼吸テストに使用した器具(選択肢)→(割愛)
b. 無呼吸テストに要した時間(割愛)
c. 血液ガスのデータ→以下の記入は3例
無呼吸テスト開始前のpH( ),PaCO2 ( ),PaO2( )
無呼吸テスト終了時のpH( ),PaCO2( ),PaO2( )
d. 問題点(→上記)
無呼吸テストを最後まで実施したが、何か問題があった場合は具体的に:
無呼吸テストを途中で中止した場合は、その理由:
無呼吸テストを全く実施しなかった場合は、その理由:
(6)その他の補助検査について(実施検査に○印を。なにかコメントあれば)
ABR、SSEP、CT、MRI、脳血管造影(IV-DSA, ダイナミックCT、SPECT、キセノン
CT、超音波ドップラー)
→ ABR:3例、 ABR+CT:38例、 ABR+CT+MRI:3例、CT:17例、SPECT:4 例、SSEP:2例
なにか問題点がありましたか(→特に記載なし)
(7)診断方法について、総じて、なにか診断上難しい点や不明の点があればご教示下さい。
(→特に記載なし )
7). 臨床診断後治療について
(1)脳死診断は一度だけで、心停止までの対応(以下の選択肢)
1.薬物量や人工呼吸設定をゆっくりさげていく→5例
2.その時点以上に薬物量や人工呼吸設定をあげない→21例
3.薬物量や人工呼吸設定を必要に応じてあげる→21例
(2)脳死診断後薬物補充 (あり→49例 ない→9例)
(3)脳死診断後の「安定期」
・ 最終脳死診断(第一回、第二回)後、親の希望で呼吸循環の維持を止める方向にした。
(はい→10例→4時間以内:2例、1〜5日:4例、それ以上:4例
いいえ→49例)
・最終脳死診断後死亡確認までの時間 ( )時間、日、月、年
→24時間内:6例、1〜7日:15例、8〜14:6例、15〜30日未満:6例、30日以上:13例
・→長期脳死例:6か月未満:7例、6か月〜1年未満:5例、2年:1例
・ 現在なお管理中の症例→2例・9か月(刺激なしで両上肢挙上)と10か月目(在宅医療考慮中)
・ なにか診断後の治療についてご意見あればご教示下さい。→脊髄反射に家族が希望をもつ。家族の気持ちの揺れに対応する一定の基準がほしい。
8). 臨床脳死診断後症状
・なにか気になった症状(身長がのびる→4例、体の動き→4例)
・人工呼吸器をはずした時、ラザロ徴候(両側の手を胸の上であわせる・祈るような動作)
がありましたか。(はい→0 いいえ→34例)
5.今後の課題と取り組み
1) 小児脳死診断検証会議の主な目的は、15歳未満(1985年脳死判定基準)、特に6歳未満の2000年脳死判定基準の検証を行うことであった。しかし、上記の調査結果では、15歳未満の小児脳死症例数(疑い含む)は年間少なくとも40-50例はあると推測されたが、診療現場での脳死診断としては、脳幹反射の実施や脳波記録方法が不十分であった。そのなかで判定基準に沿った臨床的脳死診断が13例(5施設)あり、うち6例に無呼吸テストが実施されたが、3例のみが詳細に血液ガスまで記録されていた。今後の検証には診断基準にそった症例の蓄積が必要である。
2) 30日以上心停止がない長期脳死症例が、24%存在したことは、主治医や専門医などの病院側チームは、長期脳死状態について患者家族および市民に十分説明する義務があり、今後長期脳死例にあたって、病状の十分な説明を基本として、家族としっかり向き合うべきである。なお、判定基準にそって診断が的確に行われた13例中4例が長期脳死例であった。
3) 日本小児科学会の分科会日本小児神経学会では、以下のことを計画している。小児神経科専門医が約1000人いる。小児脳死診断は、深昏睡の状態診断として専門医の必須獲得項目である。今後の1年間、学会として、専門医による2000年脳死診断基準の推奨を行い、2005年5月の総会(熊本大学医学部発達小児科三池会長)までに前方視的アンケート調査(今回の二次調査用紙を用いて)を学会として実施し、あらためて1年後に2000年脳死判定基準に準じた詳しい実態を検証する。なお、今回の検討は、あくまで小児脳死の診断であって、それは重篤な病態の予後を判断することにある。臓器提供とは全く別の課題と認識して取り組む。
4) 今後、日本小児神経学会では脳死診断/判定事例について、第3者委員会としての検証・検討委員会を独自に立ち上げる予定である。
最後に、多忙の中、第一次、第二次アンケートにご協力頂いた先生方に深謝いたします。
文献
1)厚生省構成科学研究費特別研究事業、脳死に関する研究班、昭和59年度研究報告書.1985
2)厚生省“小児における脳死判定基準に関する研究班”平成11年度報告書.小児における脳
死判定基準.日医師雑誌2000;124:1623 ム1657.
8月31日 ウオーターボイズ2
今日の話題は、ウオーターボーイズ2です。びわこ学園へ移ってから、予想だにしていなかった、多忙の毎日です。重心施設の園長は判だけついていたら勤まると思っているでしょう? いえいえ、これがなかなか大変なのです。大変なことはまたの機会にするとして、ウオーターボーイズです。
映画からはじまり、第一編のテレビ編をみてから、すぐにではなくて、ゆっくり本気で見るようになりました。大忙しのびわこ学園へいっても、これだけはかかさず見ています。一度だけビデオをとってもらってみましたが。
これまで不定期日記で子ども向け映画の鑑賞感想をずいぶん書いてきました。しかしこの半年はほとんど見に行っていません。息子が相手にしてくれなくなりました。生意気に友達どうしで行くようになり、親父はいらんとのことです。無念の一言です。
でもウオーターボーイズ2だけは、なんといっしょにみてくれます。うれしいことです。でも内容も本当に楽しくって、気合いが入ります。今日の場面では、何回涙がでたでしょうか。息子よりテレビ(このときだけは息子にとられたデスクトップのアイマックでみます)よりでみますので、涙はみせません。映画を含め、3作とも同じような流れの内容ですが、なぜかおもしろい。若者、水、グループ、シンクロ、主題歌、恋、、なにがおっさんまで夢中にさせるのでしょうか。
こんな比較したら叱られますが、オリンピックの女子のシンクロをみていると、正直「しんきくさく」なります。一つのミスも許されなくて、みんなが楽しくやっているのか?それと、頭の髪型に鼻のつけるものなどが気になります。お化粧も。同じスポーツでも全く別ものに感じてしまいます。テレビの筋があるからでしょうか。いえ、あの飾らない必死(その意味もちがう)の若者(これは同じ年頃か)が元気に水しぶきをあげるのがさわやかなのです。
今回の主役の二人もいいですね。はじめは違和感がありました。前回のイメージをひきずっていたためでしょう。でも今日なんか最高だ。祭りの場で手を引いてはしりきる姿は「これが青春だ」です。
あー40年、いえ20年でもいい、戻りたい。
現実はまもなく56歳です。昨夜も台風のくる夜7時すぎから緊急の会議です。会議終わって、外へ出ると、風がびゅーびゅー。腹がすくどころか、名神で車が揺れること。おろおろしながら、なんとか家にたどり着きました。
このペースでは定年まで体がもたんね。でも朝、名神で真っ正面に近江富士を見ると、どういう訳か「今日もやるぞ」という気持ちになるのです。これもある意味「青春」なのかもしれませんね。
8月8日 名神高速道路 (おもしろくない文です)
毎日、朝7時過ぎにでて、夜は8時前後に名神を通ります。片道700円です。
時間にして14分から15分の間です。距離にして19.9kmです。しかし、この間が恐怖時間なのです。
このところトンネル内の事故が毎日のように報道されています。大津のトンネルは二つ続いて、京都側からゆっくり右へカーブしています。のぼりはあまり問題ないように思いますが、帰りは、大津サービスエリアや大津入り口から入ってくる車に沿うようにすぐさまトンネルへ突入します。ここが最大の難関です。怖いですね。帰り、びわ湖瀬田をわたり、ゆっくりのぼりになり、S字カーブを走る頃、今度は下りになります。そのころいつもどっちの車線を走るかは、毎日迷います。ほとんど最低限の車間距離しかない状態です。
京滋バイパス合流から栗東間は、この間だけは3車線になっています。左端をゆっくり走ればなにも怖くないのです。この間はいい気分なのです。朝、草津サービスエリアをすぎたら、栗東まであと5kmの表示とともに目の前に「近江富士=三上山」が真っ正面に見えます。これを見ると、「今日も前向きに仕事するぞ」という気分になります。先日、そんな想いで追い越し車線を走っていたら、後ろからでっかいトラックにあおられました。アクセルを踏み込み、少し引き離してバック・ミラーを見ると、運転手は、なんとうら若き(と見えた)長髪の女性の姿です。それならお譲りしますと左へ寄りました。でも怖いですね。
まあ、ここに書き残しておいたら、事故を起こして発言できなくなった時、「そういえばあんなこと云っていたな」とご理解頂けるでしょう。このリスクを毎日背負いながらの通勤は正直、ストレスになっています。かといって名神を通らなければ倍の時間を要します。名神つかえば50分足らずで到着できるのが1時間半以上かかる通勤は許せません。焦りの生活をモットーとする僕には、他に早い手段があるのに、ゆっくりペースでというのは選択できません。
もう一つ、ガソリンの消費も大変です。マイカーには一リッターあたりの走行距離が逐一画面に出ます。これとにらめっこして、最低でも12km/Lを目指します。そのためクーラーを切って窓全開で走っています。その間の走行距離とガソリン単価、給油量をすべてエクセルに書き込んで自己管理しています。
まあこうして通勤を楽しくしているのでしょう。
そういえば、数日前のある朝、栗東をおりて、三上交差点を右折した時、反対車線に車がなが〜く一列に停車しているのです。なにかと思えば、先頭車の前に「カラスが一匹」突っ立っているのです。かなりでかいカラスです。前照灯やクラクションで威嚇しても動かないのです。当初はなんとほほえましいと思いましたが、そのカラスの横を通り過ぎる時、カラスの頭に傷がありました。
たぶんカラスの意識障害がおこっていたために動けなかったのでしょうか。
その後そのカラスはどうなったのか?
7月25日 杉本健郎からの情報3つ発信
スギケンはびわこ学園へいっても元気でやっています。もう4ヶ月経とうとしています。友人の中にはきっと1ヶ月、いや3ヶ月くらいかな? きっとやめるのでは? とご心配の方々がいました。その予想を裏切っています。結構快適に園長職をやっています。これからも暖かく見守って下さい。
息切れしないようにほどほどにやるつもりですが、情勢が動いています。
日記ではありませんが、9月から11月にかけて開催します僕が関係した3つの催しです。残念ながら前の2つは職種限定ですが、10月24日の公開シンポジウムはぜひ、ぜひ秋の近江路へお出かけください。
1) びわこ学園主催の第一回重症心身障害児看護研修会を行います。9月23日祝日一日をかけて第二びわこ学園地域交流棟と病棟で実施します。今回の対象は、滋賀県内で訪問看護ステーションなどで活躍の看護師さん20人で、内容は「軽微3項目以外のハイレベル医療行為(気管内吸引など)を中心に具体的かつ、ケアを受ける障害児の目線で討論をする予定です。そして滋賀県内の医療的ケアに関しての看護師ネットワークを作ります。担当はびわこ学園の看護部があたります。
僕としては、連続開催しできれば近畿一円の障害者支援へのモチベーションのある看護師さんを対象に行いたいと個人的には考えています。これは第一回の出来次第ですね。
2) 日本小児神経学会主催第一回医療的ケア講師研修セミナーを11月23日に大津市で開催します。予想される来年からの文科省モデル事業の施策化に専門医師として応えるために小児神経学会社会活動広報委員会と教育委員会が共催で立ち上げました。講師は、北住先生(心身障害総合医療センター)、三浦先生(愛知コロニー病院)、口分田先生(第一びわこ学園)、川原先生(大阪母子医療センター)、塩見先生(ボバースセンター)です。
小児神経中心の医師50人の募集ですが、一週間でほぼいっぱいになりました。残りわずかです。すごい反響です。この裏方もびわこ学園で行い、関係者にも手伝いながらの勉強する機会にします。
来年は東北の仙台で行います。
3) びわこ学園と医療的ケアネットワーク近畿(滋賀担当)の共催で以下の内容で午前(第二びわこ学園)、午后(近江八幡市)連続で行います。最終決定案です。
ぜひとも時間を空けておいてください。入場は無料の予定です。
びわこ学園&医療的ケアネットワーク近畿
公開シンポジウム
「重度障害児者がいきいきと生きる・在宅支援と入所施設」
シンポジストとして、厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課大塚晃氏を迎えます。「施設解体」論が知的障害施設に対して論じられている現在、地域で生きる重症心身障害の人たちの支援体制や施設の役割ついて話せたらいいと思います。
大塚氏は元国立コロニーの職員であり、また我が子が重度知的障害をお持ちと聞いています。そしていま地域での障害者の暮らしをどうしていくかを厚労省にあって施策にも影響力を持っておられ、本音で討論できる方です。
2004年10月24日 日曜日
(保育については、午前午後ともに現在第二びわこ学園で対応できるように計画中です)
午前10−12時に第二びわこ学園地域交流棟(100人くらいまで)会議室で
滋賀県の養護学校の医療的ケア と大阪、京都からの発言を含め、意見交流する。現在、滋賀県八幡養護学校のネットワーク会員、有志に計画を練って頂いています。
昼 弁当 ・移動する
午後1時半から4時半まで公開シンポジウム
「重度障害児者がいきいきと生きる・在宅支援と入所施設」
超重度障害児者と強度行動傷害児者の快適な生き方をキーワードにする。
400人前後の規模と考えています。近畿一円に声をかけます。
場所は、滋賀県立男女共同参画センター大ホール
(500人収容、JR近江八幡駅南口から徒歩8分)
1時半〜2:00 大塚 晃氏 講演 (厚生労働省障害福祉企画課)
(7月の小児神経学会のシンポでは地域で重い障害をもつ人たちの受け入れシステムの模索と介護保険の活用の可能性を発言)
大塚氏を含んでのシンポで一人(15分)司会とまとめ・杉本健郎
シンポジスト(了解順)
1) 小川勝彦氏:第二びわこ副園長、地域医療部長、第二びわこの医療部門を作り上げてきた一人で、息子さんは重い障害をもっておられます。
2) 七里のり子氏:第二びわこ利用者の息子さんは超重度障害児(小学生)で、おかあさんは、滋賀県のバクバクの会や八幡養護野洲校舎のPTA役員です。
3) 峰島 厚氏:施設解体論への総論的討論。障害者問題研究Vol32,No1に「脱施設化方策の検討」を著されています。立命産業社会学部教授。
4) 中島秀夫氏:滋賀県社会事業福祉事業団、障害者支援地域ケアシステム推進担当者で日常的に重度児の地域で生きるための具体的支援を行っておられます。
5) 芳岡伊久子氏:在宅で「強度行動障害」の息子さん、支援費でショート・ステイを利用しながら地域で頑張っておられます。
第二びわこ学園園長/医療的ケア近畿ネットワーク代表
杉本健郎
(近畿ネットワークの主旨などは杉本健郎HPの表紙をご覧ください)
7月11日 小児神経学会を前に
昨日(土曜)はびわこ(僕がびわこと書くときは第二びわこのことです)の日直でした。3つある病棟(住棟)をあっちやこっちと走り回ります。ウイークデイとは異なりみんなのんびりしています。もう40年もびわこに住んでいる人は、果たして土曜や日曜のメリハリがどう感じておられるのかわかりませんが、なんかのんびりしています。
次からつぎにショートステイの方が見えます。そのたびに診察です。途中、尿チンサをみたり、結果抗生剤を自分で薬局へはいって作ったり、透析液がないから取ってきてだとか、お風呂で頭をうってこぶができたとか、人工呼吸器使用のU君が興奮して機械とうまく同調しないなどさまざまな業務が発生します。それがまた結構楽しいのです。3つの病棟は、ながーい廊下でつながっています。よい運動です。日頃は医者をしないで管理職のみに近い生活で、会議に明け暮れていますから、「時々、医者」が楽しいのでしょう。
水曜日から日本小児神経学会が東京ではじまります。すでに掲示板でお知らせした通り、毎日いっぱい出番があります。
水曜日は理事会、それに続いて理事会選挙(僕は今回非改選です)で、全国から小児神経では名前がしれた多くの会員が立候補し、結果6人落選することになります。激戦なのです。いいことです。それぞれが抱負を機関誌にのせての選挙ですが、やはり「なわばり」があるのでしょうか?必死で電話がかかってきます。「○○教授をよろしく」と。学術学会といえども、これからの学会の行く末にリーダシップをとれる、はっきりと会議で自分の意見を述べることができる人でなければなりません。重箱のすみをつっついたような業績でのし上がってきたような教授にとっては理事とは単なるステータスにすぎないのです。ちなみに理事で教授経験がないのは20人のうち、自慢ではないですが僕とほかにお一人でしょうか。今回は高見の見物ですが、二年後は選挙運動することになるのでしょうか。
選挙は全国の200人ほどの評議員によります。今日の参議院選挙も気になりますが、身近な小児神経の選挙結果もおおいに気になります。
昨日の日直の折、生命倫理を専門に研究されている方からインタビューを受けました。落雷、豪雨の中、車で3時間かけて訪問してくださいました。仕事の合間の3時間の会話でした。正直「感動しました」。40歳代後半で4人の子どもを育て、自らも病魔におかされながら、大学院で研究を続けているその姿に感動しました。
「死に際して・死に様は」?のような質問がありました。「今をしっかり生きること・笑ってしねること」と、答えました。
僕にはまだまだやることがある。当面今週は、シンポジウムで、障害児を障害者になってもしっかり支援し続ける小児神経学会という主旨の「キャリーオーバー(小児科領域の15歳をすぎても診療続ける)」。もう一つは、重度障害者のノーマリゼーションへの医療の役割のワークショップでの発言です。10月に滋賀県へお迎えする厚労省大塚氏もいっしょです。重い障害を持つ人たちが地域で生きていくための条件整備の欠けているところや入所施設が地域にできることなどを話すつもりです。そして、自分の一般演題では、全国の胃ロウについてのアンケート調査結果を報告し、胃ロウは軽微3項目に入れて実施すべきことを学会に呼びかけます。
もう一つ、この学会の間に、小児科学会の小児脳死診断検証会議の討論をします。これは非公開ですが、今回行いました二次調査結果をうけて、小児科学会の基盤整備ワーキングから小児神経学会理事会へ依頼されたことへの答申を討論します。
忙しいのですが、なんだか楽しくて仕方がないのです。「こんなことをみんなで討論したい」と、思うことが実現するのですから楽しいはずですね。
あと5年この調子で楽しくやりぬく覚悟です。そうすれば少しは生きた証が作れるでしょう。なにせ昨日のインタビューでも話題になりましたが、僕の背中には「剛亮」が張り付いています。贖罪という重い十字架でなく、よりパワーアップのエンジンなのでしょう。
昼間っから、草刈りの汗をかいて、ビール飲んで、風呂にはいって、いい気分でここまで打ち込んできました。
いつもながら、勝手な話の連続でお許しください。
6月27日 快適に生きることは難しい
このごろ年齢を意識しているためか、何事についても年齢が気になります。
この年になっても迷いの連続です。果たして自分の考えが正しいのか?いつも迷います。もちろん年齢からくるプライドもあります。医師という職業も意識しています。
この問題については、自分の判断が果たして正しいのかを誰に相談し、何を読めば、より正解に近づくのか、、、、リーダシップをとるのも責任があります。誰かにまかせてしまうのも一つの手なのでしょうが、「俺がやるしかない」と思ってしまう。押し付けるのと任せるのとの違いも難しい。何か新しいことを始めるのも勇気がいります。独りよがりになっていないか?その社会のルールを無視していないか?
意見が対立すると、どこで引くべきか?どこまで突っ込むべきか?どこまでもこだわることなく、うまくかわせないかも考えるようになってきました。
でも、あきらかに自分の判断からすると、「間違った」「おかしい」と思う内容を認知することは不快でなりません。
いくつになっても迷います。これでいいのだろうか? もちろん治療法だって同じです。この判断で正しいのだろうか? 治療を受ける側には、本当にこの治療で快適になれるのだろうか? 教科書を開いても、正解なんぞ書いていないことばかりです。
自分の生き方を考えても同じです。学生時代の迷いとそんなに質的に変わっていないような気がします。このごろ特にそう思います。たぶん今の生き方が学生時代の思考と似ているのでしょうか? かっての30年前の悩みと同じレベルの悩みなのかもしれません。だったらこの30年はなんだったのか?
いったい何が書きたいのでしょうか?
昨日、あるもめ事が起こった時、「わたしはこれまで80年生きてきましたが、こんなことははじめてです。大変不愉快です。不快でどうしようもなく、、、」最後に「自殺したい」と。いやーこの言葉は唐突で、きつかった。「80歳と自殺」の言葉。内容はともかくとして、その80年という長さを想像して、僕は55年だ。負けていると変に納得しました。一瞬、55年より80年の方が正しいような気持ちになったのですが、理屈はどうも納得できない。我田引水の考えに年齢的要素を加えて、人に意見する姿勢(断っておきますが身内の話ではありません)。
80歳まで25年、だとすると、55−25=30歳だ。とても80歳まで生きられないですが、まだ30歳と思えばいいんだ。変な計算ですが。
思い込みには注意しましよう。どうも視野が狭くなっていくようでなりません。また、まわりが相手にしてくれなくなると、余計にでしゃばりたい気持ちもわからんでもないし。
掲示板にも少し書きましたが、このごろ、「生きる」という意味を日々考えます。人類誕生までのながいながい歴史に比べれば、ほんのちっぽけな人生ではないですか。びわこ学園のなかには古墳があります。そこに眠るヒトとあまり変わらないかもしれません。せいぜい1000年位のちがいですか。 でもその同じ短い人生でも、一度も歩いたり、話したりしないで、数十年間ベット上で過ごす毎日のヒトたちがいます。医者としては、これまで病院での診察では、ほんの点の生活を見ていただけでした。頭ではその状態は理解できましたが、実感としては? でも今の職場では、日常が見えます。頭がさがります。教えられます。 以前よりは人間らしくなったのかもしれません?でも第二びわこ学園の真ん中にある古墳の主も生きている当時はプライド高いイケイケ人生だったかもしれませんが、重い障害の人たちが墓の周辺で毎日楽しく暮らしているのを見て、きっと人生を再勉強していることでしょう。もう一つの古墳は、園長室の窓際にあります。墓の主に至近距離でいつも見つめられている気分です。「しっかりやりや」と。
6月13日 首が曲がりません
昨日朝起きると、首が回転できません。回転すると激痛がはしります。どうしたのか?人生始めての経験です。体のことでは、新しい経験がこの年齢になるとたくさん出てきます。首が回らないのも始めてでした。寝違い?なのでしょうか。
車に乗っていても、追い越しやバックの時、首が曲がらないから、体ごと横や後ろを見ることになります。不自由ですね。危ないです。名神なんぞヒヤヒヤです。
自宅に通じる細い道で、対向車が来ました。相方はたぶん近くの墓地へお参りする車なのでしょう。細い道でにらみ合ったまま、どちらもバックしようとしません。当方は毎日通っている道ですから、相方のすぐ後ろに出会える場所があるのです。「バックせいよ!」と車の中で叫びます。相方動きません。
仕方がない、バックするしかない。ところが首が曲がらない。サイドミラーを見ながらの道のきちきち30mバックでした。出会う時、怒鳴ってやろう(まだまだヤクザ的)と待ち構えていたら、相方が窓をあけて顔をみせて「どうもありがとうございました」と、30代男性運転手と家族。「うんうん」、負けた、しかたがない。これでいいんだ、と納得しました。
同じくその細い道に老人二人が散歩中。その道は歩行者でも道から外へはみ出してもらわないと通過できません。悪いと思いながら道からはみ出てもらうのを停止して待ちました。そしてその一見品の良さそうな老婦をゆっくり通過する時、「すみません」という間もなく、さきに老婦、大きな声で「なんで、こんな狭い道を車で通るねん!」と捨て台詞。さっきのお返しで、ぐっと我慢して窓を開けて「ごめんなさい。僕の家がその奥にありますので」と大きな声で云いました。(これは僕の勝ちだ。)
ここ数ヶ月竹やぶ掃除にこっています。お隣の竹やぶは、つい先日まで荒れ放題でした。ところが、ここ数日でお隣様が整備して、なんとラズベリーの木?やあじさいやかわいい花(名前知りません)などを竹林の竹の間に植え込まれました。こりゃ負けられへん。ひさぶりのお休みであっても、ビール飲むのを後回しにして、竹やぶ掃除を思いつきました。
竹やぶのすそには夏草が茂っています。京都東山山麓で竹やぶがあり、タケノコも自前のものを賞味してきました。なかなか粋な生活でしょう。でも管理があるのです。その一貫として、面倒くさいのでエンジン草刈り機を2万円で買い求めてきました。ところが、いざ使おうとして組み立て、ガソリンいれて丸い刃を回転させると、「オオー怖」。ものすごい迫力と音で回転します。草刈るところは、竹の切り株や石がごろごろしている斜面、おまけに竹やぶの下方には、別のお家の窓があります。
結局使わず、どこかでトレーニングして、うまく使えるようになってからすることにしました。 草刈りはやめて、掃除のみ。汗ぐっしょりで、ビールのうまいこと。真っ青な空を久しぶりにあおぎました。
新しくなった第二びわこ学園、愛称は「第二」と云わず、「ほほえみの里・びわこ学園」といいます。お休みも含めて、ひっきりなしに見学者がこられます。見学された方々が、どんな印象をもって帰られるのか大変気になる毎日です。梅雨になると「におい」も気になります。
もし、見学された方、匿名・ハンドルネームで結構です。ぜひ感想を書き込んでください。
6月2日 トロントからのお客様をのせて逆走
いやはや、情けない、というより恐ろしい話です。
先週のことです。トロント小児病院神経科のスタッフであるDr Ayako Ochi先生が
関西医大小児科の後輩としてははじめて第二びわこ学園を訪問してくれました。
学園が不便なところにあるためマイカーでJR野洲駅に迎えに行きました。
野洲駅には偶然、もう一人、びわこ学園内の養護学校訪問予定の先生がおられたので、いっしょにおつれすることにしました。
殺風景なマイカーに若い女性が二人も同乗されたため、年甲斐もなく「あがって」いました。恐い話です。風光明媚、自然がいっぱいの希望ヶ丘公園のルートから学園にアプローチしたのですが、なんと中央分離帯がある一方通行の道を途中の脇道から右折して入りました。しばらくして、真ん前から白いワンボックスカーが近づいてきます。???どうしたんだ?? マイカーの目の前でその車は避けて通過(すれ違い)しましたが、そこでやっと自分の運転の無法に気づきました。
逆走していたのです。オーコワ!「ごめんなさい、ごめんなさい」 なにもけがなどなかったのでよかったのですが、まさにラッキーとしかいえない状況でした。
1996年にトロントで運転を始めた時、十字路で曲がる時、いつも「みぎ、みぎ」と声を出しながら、自分に自分の声で命令して認識を高めていました。同乗者がトロント在住者だからといって、右側通行することはないのですが、いやはや、ほんまになにもなくてよかった。老いぼれました。一人で事故死するのは仕方がないですが、若い女性をふたりも怪我などさせると・・・本当にごめんなさい。
ピアニストでもある越智君は、メインホールにグランドピアノがおかれていたことと、調律も適切であることをほめくれました。彼女はトロントでグループを組んで「老人ホーム」などをボランテアで音楽演奏して回っているとのことでした。そこでの経験もふまえての指摘がありました。
各病棟を案内した時です。「においがしない」と。トロントに限らず、入所施設での「におい」はたいへん気になる課題なのです。園長ゆえか、なんとなく臭うように思い、その克服に敏感になっていますが、たいへんうれしい評価でした。利用者が快適な居住空間で気持ちよく生活してほしいというのは、スタッフの願いでもあるのです。
すこしずつ園長の自覚が出てきています。第二びわこ学園のHPの園長の挨拶も新しくなりました(ヤフーででます)。ちかいうちにさらに親しみやすいHPにするつもりで、プロジェクトチームを作ります。
今日はびわこ学園創立41年目の記念日でした。「いのちみつめて・死に逝く子どもたちの権利・弱者の自己決定」と題して、記念講演しました。重い障害を持つ人たちの真の自己決定とはなにか?なかなか答えがでない当面、かつ重要な課題に少しだけ迫りました。
もう逃げ出せないぞ! と自分に言い聞かせています。
5月15日 うーん 余裕なし
もう二週間以上不定期日記を更新していませんでした。そのことに気づいたのも今日です。余裕のない毎日だったと思います。ぼつりぼつりと掲示板には書き込んでいます。短文しか書けなかったのです。
12日から北海道札幌へ出張でした。これまでは学会で発表するために自ら決めて旅にでたのですが、今回は職務上の出張であることを実感しました。
全国の重心施設の施設長会議だったのです。来年が滋賀県大津で主催することや、新任であることで欠席するなんぞもってのほかでした。
会場はこの4月にオープンしたばかりの札幌プリンスタワーホテルでした。温泉露天風呂付きcity hotelです。でも義務感ばかり先に立って、ちっとも解放感なしの3日間でした。見方かえれば、それだけ他力本願な出席で、ある意味、気楽でもありましたが。
会場では、小児神経の先輩や元小児科教授の先生方にたくさん会いました。本当にお世話になった大先輩から、名前だけしっていた元教授まで。そのなかの比較的若い先輩曰く、「君、なんでここにいるの?ちょっと早いのでは?大学でやり残しがいっぱいあるでしょう!」と。、、、、、
どういう意味でしょうか? とは聞き返せませんでした。僕は関西医大の定年を10年のこしての転身です。決して最後までつとめ終えて変わってきた職場という認識ではないのです。
もちろん僕と同世代やそれより若い小児神経のドクターもいます。顔見知りの仲間がいっぱいいました。そういう仲間と二日目の夜は静かに飲みました。情報交換もいっぱいしました。有名な施設の意外な地元での事実も聞きました。
そとでみるのと、近くでみるのとの違いを思い知りました。
厚労省の担当課長の行政講演後の質疑には思わず手をあげていました。
「入所施設、重心施設もこれからは地域で暮らす障害者に支援してほしい」との主旨でした。もちろん異論ありませんが、「超重度児者が地域で生きるためには、通園事業としてのA,B型事業がもっともっと増えないと、というより認可しないといけないのではないか? 何故A型など増えないのか? 一県に一つといわずに」B型も15年度は11施設増えたそうです。全国でです。質問で「もっともっと多数が申請したのでは?」と聞いたのですが、実数はお答えありませんでした。もちろん、たとえすでにA型であっても、15人わくで10人以下のところや、B型へランクダウンしなければならないところもあるそうです。
京阪神では考えられない現状です。大阪府はB型であっても、定員5人に対して15人以上の具体的なメンバー表を提出しなければなりません。またその障害内容も重く(当然)なければなりません。しかし、ある県では、5人のメンバー表だけでオッケーになると、、、。なんでこうも違うのか? 本当に医療的ケアの障害者を地域で支援しようとするなら、そして医療行為と考え、看護師対応が必要という方針なら、その看護師雇用のためのお金を出してほしい。それには制度としてB型が全国的な唯一のシステムではないかと思います。もちろん府県単位、市町村でそれぞれ独自の支援システムもあるでしょうが。
平成16年度の厚労省通園事業関係費はB型が11増えても、予算は700万円減でした。
まだまだ勉強不足です。そのことを思い知りました。施設長として3日間しっかり勉強しました。
追加ですが、プリンスホテルの露天風呂は、宿泊していても無料ではなく450円がプラスされました。150円は入浴税だそうです。
それにしても重心施設としては、古い人の話では、昔から「そういう傾向」だそうですが、つまり「福祉志向」と「医療志向」の二つに大きく分かれるように思いました。医療的ケアを必要とする超重度児がゼロという施設から1、2割の入所者が小児病院のICUと同等の治療をしているところと分かれるのです。びわこ学園は後者になります。
重心施設の中身についてはこれから少しずつ書いていくつもりです。
外からはあまりにも見えない世界であってはならない。重くても「生き抜く」人たちがそこにはいます。またそこにいる理由がみんなあるのです。その理由は一人一人異なります。でも自宅で、地域で過ごしたくても過ごせない理由があるのです。
4月29日 国会議員会館の喫煙所
いくつか短い話題があります。
どうしても書きたい事の一つ・なんで厚労省や国会議員会館は喫煙室があるのか?
このところ、霞ヶ関の厚労省に行くことがあります。いつも思います。国民の健康をあずかる省庁の中心のビルの一階に広大な喫煙コーナーがあります。もうもうと煙があがっています。どうしてですか? もう支配下の病院には喫煙コーナーすらありませんよ。
昨日行きました衆議院第一議員会館も、待合いにしっかりと喫煙コーナーがあり、二階の会議室の出入り口にもご丁寧な喫煙コーナーが設置されています。
許せない状況です。たぶん警備の関係で喫煙に外へでられたら困るという弁解があるのかもしれません。おかしいと思います。
やっと新幹線の禁煙車の方が優位性を持つようになってきました。一両100人で16両、少ない座席があるとしてものぞみは1500人を運んでいるのですが、とにかく禁煙車は混んでいます。喫煙者は比較的すいています。もっともっと禁煙車を増やすべきです。もっとニーズに敏感になってほしいですJRさん。
昨日、議員会館で約50分ほど話させてもらいました。意気込んで京都駅七時台ののぞみで飛んでいったのですが、国会は年金法案の大詰めで、残念ながら出席下さったのは、社民の阿部さん、共産の小池さん、民主の金田さんで、もうお一人こられていたようにも思います。まあ勉強会だし、重要法案があったので仕方がないですね。なじみの各社の方々と議員会館食堂で昼食を取りながら二次会・情報交換しました。
医療不信を拭うシステムをきちっと立ち上げることが、国会議決より先の仕事であることを強調しました。以下は杉本個人のまとめのスライド内容です。
1)子どもをドナーにする親の気持ちは多民族国家カナダと日本は同じか。
死に逝く子どもの貢献それに依拠する親の癒し。
違うのは医療への想い。医療不信はどっちもあるが、弱者の権利を
保証するシステムが確保されている。
我が国の根底には医療不信がある。誠実な情報公開と納得のシステムを
公的にまず立ち上げることから始まる。
2)子どもの意見表明や情報公開、生と死の教育などを、国が率先して
モデル事業、研究会を立ち上げるべき時か。小児科学会ももちろん協力。
「脳死チーム」「被虐待児を守るチーム」を病院に早急に立ち上げる
時が来ている。検死システムも再考すべき。
専門家育成、定期的研修も公的に保障する。
これは病院など独自に展開するには経営的には難しい。
我が国の文化にあった独自の討論を、歴史的に問われてきた負の遺産を解決するため(同じ過ちは許せない)、具体的な研究やモデル事業を開始すべきで、国会議決が先にくるのは、どうしても納得できない。
2004年4月28日 杉本健郎
4月15日 特別編・第107回日本小児科学会に参加して(4月9日〜4月11日)
大阪の小児科医TS氏のご意見とまとめ
TS氏ご了解のうえここにご意見を掲載します。S先生ありがとうございます。(杉本健郎のTSではありませんので)
今回の小児科学会への一番の参加目的はシンポジウムの一つである「小児の脳死移植はいかにあるべきか」を聞くことでした。
わが国では脳死移植について1997年に「臓器移植法」が成立しました。この中で他国とは違い、本人の「自己決定」を尊重するドナーカードの採用が決定されました。これは本人が「積極的に希望」した場合のみ脳死移植が実施されるというものです。この「臓器移植法」は近く見直しの予定ですが、現在立案されているのは、本人が「積極的に拒否」しないかぎり脳死移植が実施されるといった内容に大きく変換されようとしています。現行法では本人と家族の同意が必要ですが(本人は脳死になるまえにドナーカードに記入することで事前の同意がある)、新案では家族のみの同意だけで移植を行うことができます。
また、現行法では15歳未満の脳死患者からの移植は禁じられていますが、この年齢を引き下げる検討がなされています。
なぜこのような見直しがあるのでしょうか。おそらく移植臓器が大幅に不足しているために、なんとかその確保をしたいといった移植推進派の意志が強く影響していると思われます。しかし、これまで国内で行われた脳死移植において、その判断や報道、ドナー家族への配慮など多くの問題点が指摘されており、安易に移植推進派の意志に従うことは大変危険ではないでしょうか。
他人の臓器と自身の臓器を交換することで生命を維持するといった行動は、この世に存在する生命体の中で唯一人類のみが行う行為です。ではこの移植医療は悪であるのか?否、必ずしもそうとはいえません。移植に行った人達が、新たに輝ける人生をおくっているのも事実です。おそらく、ある段階で人類が臓器移植を行うということはごく自然の成り行きで、神への冒涜ではないように思います。もちろん人類が同種の臓器移植に依存するのはある一定の期間であり、将来的にはハイテクもしくはバイオテクノロジーの発展による代替臓器が得られることでしょう。
これまで小児の脳死移植については鍵となる学会が2回ありました。2001年5月5日の「小児の脳死臓器移植はいかにあるべきか」(東京女子医大)、2003年1月13日の「子どもの死を考える・イン・神戸」(神戸国際会議場)です。前者には柳田邦男(自身の子供も脳死臓器提供、いくつか脳死についての著書あり)、大阪府立大学の森岡正博(脳死についての論文多数あり)が発表されました。後者には先日近畿小児科学会小児救急公開フォーラムにも参加された坂下祐子(子供をインフルエンザ脳症で失い、その後インフルエンザ脳症の会「小さないのち」を立ち上げ、心のケアについて研究中)が発表しています。(詳細は前回のレポートを参照されたし。)
私はいずれも参加したかったのですが、業務のため断念しましたので、今回満を持して(?)の参加です。
今回のシンポジウムには下記の人達が参加していました。それぞれの方の主旨を簡単にまとめます。(題名は皆さんにわかりやすいように変更しています)
?@ レシピエントの立場から 畑 信行(心臓病患者の会)
子供が海外で心臓移植を行った経験を報告。募金によってなんとか移植をおこなうことができたが、とにかくお金がかかった。他の心臓病の子供たちはなんとか日本で移植ができないか?
?A 移植医の立場から 北村 惣一郎(国立循環器病センター)
心臓移植に限れば、移植を待っている子供たちがたくさんいる。その幾人かは幸い海外で心臓移植が可能であるが、実現するためには資金が必要(5千万〜1億円)。日本の心臓移植の技術は既に満足するレベルにいたっているらしい。日本人から日本人へ移植することは至極当然。現行法は15歳未満の移植を禁じた愚法であると。
?Bドナーファミリーの立場から 杉本 健郎(第二びわこ学園)
自分の子供が6歳の時に脳死となり、家族の意志により腎移植を希望した経緯あり。子供の「自己決定」とは?家族へのサポートは?といった問題点を提起。また、カナダでの脳死関連のレポートあり。カナダでは「死=脳死」(日本では否?)。また、虐待児に対するプロの検死チーム(SCAN)がある等のレポートがなされた。
?C 小児の脳死と虐待について 田中 英高(大阪医科大学)
国内の小児科医へのアンケートの集計について報告。頭部外傷児の場合、約3割が虐待の可能性があり、虐待の同定は困難で少なくとも否定には1ヶ月以上はかかる等のレポートを報告した。
これらのことから、虐待による脳死患者からの臓器提供は適切ではないのではないか?と提言された。
?D 臓器移植法の解釈 加藤 高志(日弁連)
現行法の改正については法律の枠組みを抜本的に変える必要がある。自己決定、意見表明権、子どもの権利条約等の解釈等。現在の日本の医療に潜在的に存在する医療不信についても言及し、情報の開示を求めた。
?E 本人、家族の意志決定について 掛江 直子(国立成育医療センター)
informed consentを子供で得ることは困難。しかしそれぞれの年齢に応じた理解力を尊重し、能力に応じた了解(assent)を期待しても良いのではないか?しかし、乳児の場合は?等の問題提起があった。
?F 新聞社から 田辺 功(朝日新聞)
脳死移植の問題点は「臓器移植法」ができたころとあまり変わっていないように感じる。平生は自分の健康にさえ無関心な国民が、果たして脳死についてどこまで考えているか。小児脳死移植と対をなす小児救急医療にも問題が多い。国民の医療現場への不信は強い。
シンポジスト発表後の質問
一人目は、自身の脳死観にはじまり、議論については宗教家をいれるべきだといった意見を述べたにすぎず。質問が要領を得なかったため、司会者によりカットされました。質問内容のレベルが低く、しらけムードでした。次に私が医療の密室性をどう公開させるべきか杉本氏に質問しましたが、杉本氏からは明確な返答が得られませんでした。私の質問の仕方が十分でなかったことと田辺氏が患者名や病院名を伏せることでマスコミに公開すべきという回答で、私の意図していた公正なアセスメントが誰により、どのようになされるかが得られずに残念な思いをしました。
実際に移植を行う立場にある北村惣一郎氏は「現行法は臓器確保に対して制約が強く、特に必要とされている子供の臓器が得られない。早急に改正すべき」といった短絡的な移植推進派であると感じました。なぜなら議論を行っている間にも、「今、目の前で心臓移植を求めている子供達がたくさんいる。この子達は移植をしないと死んでしまうのです。」と現行法のもとに存在する問題点をいかに改善すべきかという議論を寸断してしまうのです。もちろん私たちも心臓病の子供達の命も大切だと考えています。しかし、脳死ドナーの家族の気持ち、脳死である本人の気持ち(もしくは脳死前の気持ち)、脳死判定が正しく行われているか、さらに多くの付随する重要な問題が十分議論されていないのです。中でも脳死問題に携わる小児科医達は子供(ドナー)の人権に最大限配慮していく立場をとろうとしていますが、その解釈には様々な見解があり、さらに議論が必要な状態です。本来は移植医こそが移植技術そのものだけでなく、関連する多くの問題点を率先して理解し、取り組んでもらいたいところです。
一番大きな会場でのセッションでしたが、残念ながら満員ではありませんでした。同時刻に別の小さな会場で行われた岡部信彦(国立感染症情報センター)のSARS、新型インフルエンザについての講演が立ち見状態でした。まだまだ、小児脳死移植は小児科医の中でも注目度が高くないようで心配が残ります。
現在、私はドナーカードを持っていません。基本的には脳死移植には理解を示していますが、私が脳死したあと本当に適切に移植が行われ、また、残された家族の心がやすらかな状態が継続しうるとは現状では到底思えないからです。しかし、医師としてはこの問題から目を背けるわけにはいかないと思っています。
最後に日本小児科学会の現在の見解を記載します。
?@ 小児脳死臓器移植法を治療に一つとして認めている。
?A 小児に自己決定権の尊重
?B 被虐待児脳死例の排除
?C 小児脳死基準の見直し
レポートに興味をもたれた方は杉本健郎著書の「子どもの脳死・移植」を是非読んでみて下さい。脳死の本は多く出ていますが、小児脳死についての本はあまりないように思います。内容は実際に我が子を脳死で失い、この時「父」としてどう考えたか。また、その後「小児神経専門医」として小児脳死移植はどうあるべきかを執筆しています。
いままさに小児脳死移植はどうなっていくのかという大切な分岐点なのです。
平成16年4月 ST
スギケンへのメールで以下の様にもお話されています。僕への質問補足として、
脳死判定が適切におこなわれているかどうかを誰によってどのように検証されるべきかをお尋ねしたかったのです。脳死判定については、マニュアルにそった 判定がおこなわれなかったケースの報告があります。おそらく判定医の経験が未熟であったことや、一部には脳死移植を実現させるためにややフライングした などが原因ではないでしょうか。これらの経過は主にマスコミによって公にされています。
基本的に脳死判定の手順については情報公開されるべきであると考えます。しかし、その任をマスコミのみにたくすことには大きな問題を感じます。一般にマ スコミは医療界に対して批判的立場をとることが多いように思います。また、日常のニュースからも決して十分な理解に基づいた報道とは思えないものが多い からです。さらに、ドナー家族に対する配慮という点に関しては、いきすぎた質問が多いように思います。
私は公的な第三者機関から脳死判定過程について調査を行うようにはできないものかと考えています。スタッフは脳死判定のプロである医師を含みます。仮に 脳死判定が適切でなかった場合には当日または後日になんらかの指導(場合によっては罰則を規定)を行います。
また、脳死判定はそれが可能な環境(設備)と脳死判定の経験を積んだスタッフが必要と考えますが、事前に登録制にしてもよいのではないでしょうか(公的 な第三者機関の認定による)。基準をみたしていなかった場合や不適切な脳死判定をおこなった医療機関には次回よりこの施設では脳死判定がおこなえないよ うにします。
この公的な機関は平素脳死判定医の育成に努めることを業務としてはいかがでしょうか。
運営にあたっては小児科、内科、神経内科、脳外科、救命救急等の専門医等が中心となって良いと思います。(医者の評価を医者がおこなうことへの社会の批 判があるやもしれませんが)
私はこのぐらいのことしか発案できませんが、先生はどのように脳死判定の手順が検証されるべきとお考えでしょうか?お手すきのあいまにお返事いただけれ
ば幸いです。
4月8日 さくらさくら・ライトアップ
びわこ学園に赴任して一週間が過ぎました。もうへとへとです。毎日が勉強です。今朝は不定期日記ご意見コーナー3月25日に書いていただいた「どんべいさん」が所属されていた八幡(これは「やわた」ではなく「はちまん」です)養護学校野洲校舎の入学式がありました。生徒はみんな第2びわこの超重度児です。人工呼吸器が動いていている児童もいます。そこで来賓のあいさつとやらを頼まれ、いつもアジテートしかできない中年なので、あがってしまいました。我ながら珍しいことです。これもよい経験でした。楽しい入学式でした。
今日は僕の最初の外来日でしたが、開店休業状態でした。いまなら何時間でもお話につきあいますので、どうぞ近江富士のふもとまでお越し下さい。
この一週間、会議とハンコ押しの毎日でした。今日の午後の会議は延々5時間半続きました。でも僕にとっては討論が好きなので結構楽しい時間でした。いまこんなことを云えば叱られるかもしれませんが、男山病院の部長会は僕がかみつき、騒ぎ立て一人相撲をとった形でした。この間の会議は結構かみ合うのです。でも、この会議の雰囲気や内容が現場にうまく伝わらないのは、男山もびわこも同じようです。もっともっと情報公開し、みんなでこの厳しい状況を打開していくための楽しい団結が必要な時と思います。
自宅の庭の桜の大木は今が満開です。自宅が3階建てで、桜の咲き方が一階から順番に満開になっていきました。それぞれの位置で満開の時期が違うことを発見し、新鮮な春でした。夜はライトアップしています。今夜はライトアップしてなかったのですが、仲良くしているお隣さんから、海外から友人が来ているので「ライトアップして」と要請がありました。早速ライトをつけると、拍手やらビウティフルだとか・・・お隣からやんやの喝采です。結局裏口からお隣に入り込み、パーティに割り込むことになりました。このライトアップは京都駅八条口のホテル京阪の屋上からきれいに見えるそうです。
明日から岡山での日本小児科学会に出かけます。といっても土曜日のシンポジウムのスライドがまだできていません。いまから作らねばならないのですが、グルメのお隣のチーズとワインなどでもうふらふらです。不定期日記を書く時間あるならスライド作ったら、と云われそうですが、この日記を書くことはストレス解消法の一つなのです。
この間の興味深い経験を3つ。
1) 名神栗東料金所を出るとき、後ろから救急車がきました。なんと長い列をうまくやり過ごせないのです。僕の車はETCです。救急車を横目にお先に失礼しました。なんで救急車にETCをつけないの??
2) 第2びわこ学園は新しくなりました。もちろんトイレも最新設備?です。
ドアをあけたら、勝手に照明がつきます。ところが、おしっこしていると途中で電気がきえて真っ暗になります。たしかに前立腺肥大なのかもしれませんが、幾ら節電といってもちょっと消えるのはや過ぎます。
3) 国道の東山トンネルは車のみ通行で、ヒトは別のトンネルを歩くことになっています。ところが数日前に一人のおにいさんがごみ袋さげて道端を歩いています。「あぶないな!ひかれるよ」と怒鳴ってやりたかったのですが、停止できません。トンネルを出ると、少し広くなった場所にそのにいさんの車が止まっていました。その車はコカ・コーラの赤い箱形の車でした。なるほど、これは命をかけた宣伝か? 彼はトンネル内の誰かが捨てたカンを拾い集めていたことを理解しました。これこそプロ?いやいや危険過ぎる。
土曜日のシンポジウムは頑張ります。すでに何件か報道関係者から問い合わせがあります。「杉本はいったい何を話すのか?」と。関西医大所属ではなく重症心身障害児者施設びわこ学園杉本の初舞台です。結構過激に迫まる予定です。ご期待下さい。
3月29日 月曜日 ストレス・スランプ
これから赴任するびわこ学園の人達には第2びわこ学園園長として55歳にして転身する男をどうみておられるかはわかりませんが、本人は小学校入学のような気分です。とっくに忘れた気分です。55歳にしての新人です。ものすごい重圧があります。若い人にはたぶん理解できないでしょう。もっと若い人はわかるかも。
何故ここへ来たのですか?と素朴な質問を新人研修の懇親会の場で質問されました。素朴な質問です。娘と同世代の女性でした。
「おとうさんは、なー・・・これからの人生を考えてここへきたのや。少しでもお役に立てるかな? それとも邪魔するか?わからんが、一本道を後戻りはできへんのや。とりあえず学びながら前へ進むので、よろしく」
こんな気分です。
課題がいっぱいあるのに、なにも消化できないのです。ストレス・スランプですね。まわりに迷惑かけています。
小児科学会のワークショップとシンポのスライドをCDで送るはずが、まだできていません。小児科学会・小児神経学会の脳死診断基準の二次アンケートもまだ発信できていません。
なんといっても、この31日原稿締切のクリエイツかもがわ出版の新作・重症児教育の本の原稿はまだなんにも書けていません。指定された締め切り日をオーバーするのは人生はじめての経験です。
日曜、月曜(医師として有給休暇をとりました)と第2びわこ学園園長室へ荷物やパソコンを運びました。園長室はガラス張りで廊下から中のすみずみまで「丸見え」状態です。以前拙著の「北欧・北米・・・」で紹介したスウェーデンの障害児支援センターの部屋は全てガラス張りでした。
ええーい、なにもかも隠すものはないわ、全部見て下さい。ちゃんと仕事するつもりですから・・・机上には学園から借りたウインドウズと自前のマックG5が並んでいます。この二つのモニターで僕の顔は隠れます。まさにコンピュータの陰に隠れて仕事をする形にになります。
今回、この年齢・自分ではほんまは青年のつもりですが・での職場の転身はこれほどのストレスとは思いませんでした。関西医大から辞職勧告を受けたのではなく、自主的なもので、請われての転身であるのに、気もそぞろで、寝ても夜中に「怖い夢」で目が醒め、毎日5時おきが続いています。トロントの時差ボケからの連続です。これがリストラされた後の新しい職場ならもっともっとストレスは凄いでしょう。鬱状態で自殺という気持ちも少しはわかるような気がします。年齢を加え、変にプライドだけ増幅し、頭は回転しないし、人の名前はでないし、覚えられないし、器械の使用方法はしっかりメモらないと再現できないという特徴です。
気持ちをレフレッシュしようと、医大卒業後、最後まで迷った選択・長野県佐久総合病院へ行ったかもしれなかった人生ですから、そこにまつわる本、佐久病院内科医師である南木佳士の本を読んでいます。彼は医者のくせして、文章がうまいですね。読んでいると佐久、臼田町や八千穂村、八ヶ岳周辺の風景がファラッシュバックしてきます。学生時代4年間通いました。若月氏ともいっしょに焼酎を飲みました。自然がいっぱいある中で彼・南木氏は(年齢は僕より3つ若い)のびのびと人生を楽しんでいるかにみえます。
楽しみながら、仕事をする。本を書く。なんとかまねたいものです。少し、職場での医師としての評判が気になりますが・・・。
3月21日 釣果ゼロ
トロントのことはちょっと気合いがいりますので、まだ書き始めることができません。やっと「時差ぼけ」がとれてきました。帰国後、数日は朝3時、4時に目があいて困りました。
いま、「脳死」課題では、小児科学会の第一次アンケートのまとめ中で、同時に第二次アンケート内容を考察・討論中です。1999年5月以降の脳死ケースは最終的に150例くらいになりそうです。その内容とトロント小児病院ICU移植コーディネーターの話をふくめて、4月10日の日本小児科学会の小児脳死・移植のシンポジウムで報告予定です。
このシンポと同時間進行でワークショップがあり、関西医大の神経外来通院中のキャリーオーバーした約400人近い15歳以上の患者さんの実態を報告します。二カ所で発表はできませんので、この発表は関西医大病院の荒木先生にお願いしました。上記の二つのスライドを作らねばなりません。
今週は小児神経学会の要望を持って厚労省、文科省の訪問予定です。そして土曜日は小児神経学会近畿地方会で胃ロウアンケート結果を報告します。
結構忙しいのですが、そんななか、昨日朝から中学一年の男子4名といっしょに須磨へ釣りに出かけました。昨年来の約束でもあったので、自分の仕事が忙しいといって破棄できませんでした。
昨日は平磯つり公園、今朝は開門と同時に須磨のつり公園に行きました。雨や寒さのなかで、魚もじっとしているのでしょう、釣果は全員ゼロでした。土曜日は須磨の国民宿舎のシーパル須磨に泊まりました。8畳ほどの部屋に僕よりでかい男ばかりあわせて5人が一緒に寝ました。耳元ですごいいびきです。いつもならぶつぶついうのですが、単なる引率者の立場ですから、彼らの会話を聞き、今時の男子中学生の発想や興味の持ち方を学びました。そして、おもいっきり食べさせることに奔走しました。
夜はステーキの食事のあと、お気に入りのテレビをみんなで鑑賞(僕は邪魔なのでロビーで、会いに来た娘と会話)後、娘とその彼氏といっしょに明石の焼き鳥屋さんに食べにいきました。何という店だったか?(第2神明高速の玉津インターから3分の「とりうめ」でした)
「うまい、うまい」とでてくる肉を次々とたいらげる食欲に圧倒されました。たしかにおいしい店でした。お近くの人、是非いってみてください。お勧めします。
それにしても、シーパル須磨11階の展望風呂は須磨の砂浜と海が一望できるほんとに気持ちのよいお風呂でした。裸でボーと見とれました。ところが若い連中は、風呂場に入るなり、洗い場にすわり、ゴシゴシ洗い始めます。美しい風景を見ようともしない。あとで聞いても窓の外に何が見えていたかを認識していなかったのです。それも若者みんながです。
年齢のちがいで五感まで違うのでしょうか?
おいしいものはおいしいと同感ですが・・・。こんなことを感じたり、書いたりすることが年をとった証拠なのでしょうか。かれら、13歳前後の若者にとって、釣果ゼロはどのように受け止めたのでしょうか? 55歳のおっさんは結構ショックうけたのです。しかし、だからといって、同じ施設にある魚の養殖をしている「海の牧場」で高い入場券を払って釣りあげるのを「楽しむ」という考えはおこりませんでした。それは大人的発想なのです。
12,13歳の子どもの視点を勉強した2日間でした。
京都は墓参りの車であふれていました。今日は春のお彼岸で、殺生したらあかんのでした。これでよかった・・・・・
2月28日 小児脳死・自民党案と決意
あと1か月で約30年学んだ関西医大を去ることになります。医者になったのがつい最近のことのように思われます。でもここ数日は感傷にふける時間はないのです。
いま、日本小児科学会小児脳死・移植基盤整備委員会で脳死症例や虐待症例について全国アンケートをしています。小児科学会の研修指定病院467施設と救命救急センター約160施設へのアンケートです。その一部が帰ってきています。その真っ最中に責任与党である自民党の臓器移植法改正案を近いうちに提出するという報道が走りました。しかも内容は小児を含めた旧中山法案とのこと。1997年に国会で否定された法案です。本当にこれでいくの?という想いです。先の臓器移植法でドナーが少なかったから、それを多くするために法律をかえるという考え方が基本的に気に入りません。「15歳未満のレシピエントを米国に送らないために」というのが改正案の大義名分ではなかったのでしょうか?どう考えてもおかしいです。自民党さんおかしいですよ。聞くところによるとドナーになった(生体肝移植です)K議員が最後に大きな声でこの案でいくとおっしゃったとか(某新聞社)。これから国会でどんな討論をされるのですか?小児科学会がこの間、地道に取り組んできた子どもの自己決定です。しかもいままだ検討中(進行中)なのに、それを無視しての国会議論ですか。本当に自民党案でドナーが増えると思われているのでしょうか?
疑問だらけです。いい加減なことをしたら、和田移植と同様になりますよ。かえってストップがかかることに。
個人的には、4月、日本小児科学会のシンポジウムがあります。それからすぐ後に、神戸生命倫理委研究会のシンポもあります。いいえ、それ以上にいま、小児科学会の上記委員会は会議を重ねています。すくなくとも、子どもの死を知っている職業集団です。小児科学会のなかには、自民党案が出ることに危機感をもって、それに迎合するために、早急に討論結果を出すべきという意見もあります。でもこの子どもの自己決定と言う問題は、いたって普遍的でかつ、歴史的に重要な課題です。世界のどの国も取り組んでいない課題の「脳死・移植と子どもの自己決定」です。我が日本は1997年の臓器移植法で自己決定を基本とした新しい画期的な取り組みを始めました。この精神の延長線上に子どもの脳死・移植もおかなければなりません。
今週、トロントへ飛びます。すでに小児心移植の盛んなトロント小児病院の移植の現状へのヒアリングの予約はできています。虐待の扱い、親の想いなどを中心にしっかり討論してくるつもりです。このままひきさがりません。
もちろん、4月からの僕の職場を意識して、超重度児が早期退院した後の受け入れ病院(慢性療育病院)、そして地域での対応についてもアメリカの影響を受けながらも、本国であった英国の福祉の伝統を守り続けるカナダの現状を見てきたいと思います。果たして前回調査した1997年以降どう変わったのか?
宮城県知事が知的障害の施設を全解体すると宣言しました。行政できっちり、ほんまに地域で受け止める覚悟がおありなのでしょうか。あらゆる障害を持つ人たちを。厚労省障害福祉部長であった知事としては、念願のアドバルーンです。でもスウェーデンの全解体とちょっと意味は違います。実際は施設が現存しているデンマークの解体論とも異質です。スローガンだけ真似しても中身がついてきません。お金もついてきません。
まあ、これからおおいに我が国で討論をはじめようということであれば良いのですが、すでに近畿圏では金剛コロニーのように、解体に近い形で討論が進みつつあります。
重い障害をもつ人々が本当に楽しい人生をおくれるのであればなにも異論はありません。
これからは、その現場から、障害を持つ人たちの視点でさらなる発言していきたいと思います。
これが決意その2です。このような歴史的な時代、過渡期に生きあわせた人間の責務でもあります。発言できる幸せも感じています。
2月15日 くどい言い訳
二週間のご無沙汰です。特に体調が悪いわけでもないのですが、なかなかこれと言った話題がありません。本当は表紙にも書きました通りの我が転身があるので書くことはいっぱいあるはずです。でも、重大事であるがゆえに、簡単に書けないのです。
いま、プレゼントして頂いたタラバガニと日本酒で思いっきり飲んだ状態です。昨夜も完全に泥酔状態で2日酔いに拍車をかけました。こんな状態で不定期日記を書くことは、ふらちなことだと思いながら、先を考えずに言葉を打ち込んでいます。
この間、表紙に「お詫び」と書いて辞職願いを提出したことを書きました。
毎日の診療が、まず「ごめんなさい」から始まるものですから、患者さんやご家族にものすごい悪いことをしたような気持ちでいました。でも、ある方のメール(これは別の人から、杉本は「メイル」と書くが、それはへたくそな英語をカタカナにしたもので、違和感あり、「メール」と書けと指摘されました)で、お詫びはおかしいのでは? 自分で良き選択、これからの生き方で前向きの選択するのであるから、自らの決意とするべきと指摘されました。今後の杉本の働きをみれば、いまは残念に思った人たちもいずれ理解してくれるはずだ、と。そこで表紙書き込みのタイトルを変えました。
自分がみんなのためにやっていると誤解するほどの思い上がりはありません。
でも新しい職場で果たして僕が受け入れられるのかは、この年になってもものすごい不安です。こびるつもりはありませんが、遠慮はあります。いろいろな意見を聞くところから、見るところから、学ぶところから始めたいと思います。
どんな集団でも、指導者である限り、責任は自覚しなければなりません。人間的な善悪ではなく、上に立つ力量を持ち合わせているのか、いないのかを上に立つもの(一定の権力をもち、人の人生を少しでも左右する立場)は自覚しなければなりません。自分の好き嫌いで、人材登用を考えたら破滅です。その組織はボロボロになります。力量のない「指導者」はたくさん見てきました。そしてその人たちの「卒業後」はあまりにも寂しいものになることも知っています。そんな人生にはしたくないです。財前教授は果たして笑って死ねるでしょうか?
いま、医者に向かって、{あなたは財前教授か、里見助教授か?それとも「西田」産婦人科か?}という問いかけがあります。お母さん方との診察室の会話にも良く出てきます。 こんな時期に、助教授が「辞める」というと、「なにかあったの?」と勘ぐられます。 なにもありません。
僕を知る「成功した医者達」は、僕のことを「あの元気な人」と揶揄?します。 そうです。僕はいつまでも「元気に」生きるつもりです。
本当に力量をもって、患者さんに役に立つ医者にならないといけないということが本気で問いかけられるような時代になってきました。
ミスに継ぐミスを重ねるリピーター医者がいます。日本の制度は甘すぎます。このような医者はライセンスを剥奪するようなシステムを作らないといけない時期に来ているように思います。自分のミスをミスとも思わない奴、平気で同じミスを繰り返す奴。こんな奴ら、幾ら偏差値が高くても、人の命を任せることはできません。許せません。また、自分に火の粉が及ばないために、そういう奴らを組織で守ろうとする奴らも許せません。
この書き込みをどう理解されても結構です。僕は新しい道に踏み出します。
太陽のもと、正直に生きたい。「ただそれだけのこと」を書きたかったのです。
2月1日 ハイテク機器 2つ
いま京都は市長選挙真っ最中です。といっても僕らの若い頃はタクシー会社も二つに分かれて、市内はシンボルカラーをワッペンで溢れていました。いまは静かな選挙戦です。僕はもちろん市内の高速道路反対派です。堀川通りを南下する油小路通りのセメントでかためたビルのような橋脚が林立している姿は、一体何のための施策なのか通る度に疑問をもちます。前から何度もここで述べているように、土曜、日曜の京都市内の車の混雑ぶりは、当局の無策そのものの表れです。それがより一層ひどくなっています。それがスムースに高速道路で市内中心部へ入れるようになったら、いったい何がおこるか。税金は住んでる人のために使って欲しいものです。
まあそれは今回は本論でないのです。 言葉を忘れましたが、たしか「期日内投票?」とかいって不在者投票といわなくなったのですね。その投票にウイークディ朝開門と同時に行ってきました。我が東山区は電子投票なのです。なんのことはない画面にでた立候補者の名前をタッチするだけのことで、「投票」は簡単です。開票ももっと簡単になることは明白です。ただ、投票に行っての体験ですが、入り口に二人の説明者、部屋に入って左に「立会人」と称する3人が鎮座、パソコンを使っている若者(たぶんバイトか?)そこに住民台帳があるのか、照合する。朝の一番なので立ち上げに時間がかかる。その横にアコムのリース器械を用いたコンパクトな投票セットに女性一人と補助者一人、さらに投票タッチ担当が一人、合計何人ですか?これが本番当日にはどれくらい要員が各投票所に配置されるのでしょうか。まあはじめだからこれだけの要員がいるのでしょう。たしかに開票作業が実に簡単になることだけは確かですが。鉛筆で立候補者の名前を書くのが省けましたが、今回のタッチ投票では、20インチくらい画面に3人選択で画面いっぱいをつかって候補者名などが横に並んでいます。そのタッチ場所が、鎮座している立会人の真っ正面に背中を向ける形でタッチします。手の位置で誰に投票したかをその気になれば立会人が知ることができるのです。ケッタイなハイテク投票でした。
別のハイテク話題です。高速道路のETCです。
これは食わず嫌いでした。今年に入ってから使っています。便利です。お勧めします。
これまで、「変な」雰囲気をただよわせる車専門特別ゲートのように思って警戒していました。でも僕も仲間入りです。
手続きが少し煩雑です。そして少し費用がいります。でもそれを取り返す内容の便利さです。オートバックスで年末に器械を購入しました。1万5千円位だったでしょうか。そこで登録してもらいます。ここでさらに取り付けまで依頼すると国産車5000円です。ぼくのは外車(大衆ドイツ車)なので7500円で、しかも2時間待ちと言われました。若い気のいいオートバックスのお兄さん(少しキムタク風)が、「ご主人、自分で簡単につけられますよ」といわれ、そのまま器械をもってかえるも、オッさんには無理でした。いつもの町中の小さな修理屋・Sさんで4000円でつけてもらいました。あとはじっくり銀行カードでETC専用カードを申請し、まつこと1週間、さらに割引申請をパソコンでしてやっと成立。念願かなっていざゲートへ。
あかない!!しかも無人ゲート。幸いにして後続車がいない。バックしてゲートでて、5分ほど模索。カードの入れ方が裏表逆でした。表を下にしてつっこむのです。以来、ゲート前で果たして、スムースに開いてくれるのか?毎度内々緊張しながら、一見優雅なゲートインを「楽しんで」います。
先日、20歳をすぎた重度障害者のおかあさんが診察時にこの話になりました。
ご本人は緊張が強い方でゲート入るとき、一時止まって、窓あけて、さらにおっちゃんが覗いたりすると、緊張が強くなりびっくり反射がおこります。不快きわまりないゲートなのです。
この ETCになってからたいへん気分良く高速道路へ入れるし、出ることができる、と教えてもらいました。
実は昨日、阪大へ行くときにミスりました。ゲートに閉じこめられました。カードを器械に入れるのが遅かったのです。 いまだ不思議な緊張感をもってのゲートスルーですが、変に優越感を味わうのです。長蛇の列を横目に一気に「合法的に」抜ききる気分のよさ。今少しの時間、体験できそうです。
インフルエンザが流行しています。あの寒い3日間のあと2,3日でやってきました。予防注射をしていても罹っている人も少なくありません。我が家の息子も予防注射したのですが、いま、隣の部屋でしんどいとウンウン唸っています。人混みをさけて、帰宅時のうがい励行・・・で少しはましかな。気をつけて下さい。
大阪府は本日ですね。京都市の方は来週、必ず投票に行きましょう。
1月26日 大切な落とし物
この二週間、ずっと探していた名刺と定期入れが見つかりました。
落とし物とはどこでどう落としたか覚えていないから落とし物なのでしょう。たしか京阪の駅を下りてカードをポケットに入れたところまでは記憶にあったのですが。京阪電車の5000円のスルッ ト関西カードを一回使ったきり、バスカードも同様に5000円を二回使ったきりでした。きっと拾われたら、そのまま使われるだろうと思いつつも、自分の名刺がいっぱい入っいて、所有者が明白なのできっと病院へ届けてくれるのでは?といろいろ考えていました。そして、昨日車の後ろのシートの荷物を取るときになんとなく見た運転席のシートの横にそれが落ちていました。きっと運転席に座ったときにポケットからこぼれ落ちたのでしょう。
感激でした。約一万円相当のカードも残念なおもいでしたが、実はドナーカードが入っていたのです。亡くなった息子と同じ条件で記載しています。もうボロボロになっていましたが、毎日身に付けていました。変なもので、執着していたものがなくなると、ものすごく寂しく感じます。それが長男との関連のものだと余計に気持ちが動きます。「ドナーカードだけでも届けて欲しい」と思い続けていました。
でもこのドナーカードは、たぶんドナーカードとしては不適な記入だと思います。一度丸を入れた所にx印を入れたりしています。新しく作り替えるべきなのでしょうが、最初のカードへのこだわりです。自分の気持ちを表現したお守りのような位置にあり、他人に理解を求める為のものと考えて所持していませんでした。自分の意思は明確であっても、紙上に示された内容は第三者からみると判断に苦しむ記載方法なのです。ゆえに本当はドナーカードとしては無意味なものだったのです。もしかしたら、そんな風にしてドナーカードを持っている人もあるかもしれません。
ドナーカードの記入方法がややこしく、問題があることは、これまでいろいろなところで指摘されてきました。でも書式を新しく作り替えることなく今日に至っています。脳死からの移植が27例になりますが、脳死になったドナーカード所持者で、カード記入が不適として、意志があるのに結局移植できなかった人が倍以上の数存在したことは良く知られています。
まもなく国会に議員立法による臓器移植法改正案でドナーカード不要な改正が行われる可能性がたかいから、作り替えないのでしょうか?と勘ぐりたくなります。
ただ、僕にとっては、ドナーカードは息子から受け継いだお守りとしての価値なので、記載法の間違いは気になりません。
ここで終わりにするつもりの不定期日記でしたが、岸和田でおこった中学生の虐待報道でどうしても書きたくなりました。
子どもの命を誰が守るのか?国は児童虐待法を改正して子どもを守る決意をしたのではないのか。
親を問いつめたとき、親は「私が、かわいいわが子を虐待していると思ってるの?」と大声で叫びます。どうしても他人はこの言葉でたじろぎます。児童相談所職員は少ない職員数で疲労気味なことは理解できます。バックに控える養護施設も満員なのは知っています。だからといって、新しい被虐待の子どもを見殺しにしたり、中途半端な対応をして良いとは思いません。
たしかに小児科医としての経験でも虐待は増えています。家族関係が複雑になれば頻度が増えるというのも事実と思います。行政が現状の虐待増加に追いつかないのかもしれませんが、岸和田の子ども支援センター(児童相談所)の今回の対応の遅れは、大きな問題を残しました。でも決して岸和田だけの現象ではないと思います。全国同じようなことがおこる可能性は大です。報道だけからの印象ですが、今回もそうですが、「いつも手遅れ」にならないように、しっかりと子どもの視点・権利を保障してほしい。措置決定に、「あんたはわが子を拉致するのか」とたとえ親に攻められようと、子どもの命を守る姿勢を堅持して、自宅へ踏み込んでほしいと思います。
1月10日 初体験・クリーンセンター
新年早々という意味ではなく、人生の初体験の話です。
当年55歳という年齢を認めざるを得ない現状で、保守的になる気持ちをむしろ意識的に否定し、あらゆることに行動を優先しようとしている新年です。
自宅に不用になった大型ゴミがいろいろたまっていました。これをどう処理するか。いかに安くするかを行動的に勉強しました。おおげさですね。以下、たわごとにおつきあい下さい。
一番大きなものが、長年子ども達が使ってきて古くなったスプリング入りのマットでした。
京都市発行の「しおり」をみると、電話して所定の日に自宅近くへ出すと、これだけで一個2000円也。なんと高い。ほかの古いボストンバックなどを入れると4,5000円になりそうです。驚きながら、さらに読み進むと、「市民持ち込みごみ」というコーナーがありました。
南部クリーンセンターという、いつも京阪電車や車の窓からぼんやり眺めている淀(伏見区横大路)のゴミ処理場です。
昔、田舎の小学生だった40年ほど前に、村に「子供会」という組織がありました。年に一回、レクレーションとして京都、大阪方面へバスで出かけました。その時の思い出が、場面を切り取ったようにいつも思い出すのです。
当時、たしか高い煙突が4本立っていたと思います。バスガイドさんが、ちょうどバスが、淀を通るときにクイズのようにして「さーて、煙突は何本あるでしょう?」と。見る位置によって本数が変わるのです。
このことが、子ども心にいやに印象的に残っているのです。でも、その後40年間一度も現地を訪問したことがなかったのです。
ちょうどいいチャンスだ。一度このゴミたちといっしょに訪問してみよう。
新しいことに挑戦する気持ち。どんな手続きでも自分で体験してみようという気持ち。そこにあらたな発見もあるだろう。
多くの中年男子がそうであり、自分の仕事以外は手をつけない、面倒くさいというより、引っ込み思案でなにも自分で動かない。それを変革すべし。
50歳前のカナダ生活で一定変革され、「恥の文化」観が少し払拭されました。
いえ、そうせざるを得なかったのです。英語を話すのが嫌だと家に閉じこもっていては、なにも進みません。保険、市民カード、免許証、銀行といった生活に直結したこと。拙著にも書きましたが、いろいろな障害児者施設のアポイントから実際の訪問に至るまで、「嫌や、嫌や」では、すまなかったのです。
大いに恥もかき、少し喧嘩もしましたが、まさに急に経験豊富な中年になりました。社会的生活力がついたのでしょうか。(食事作りだけはまだ今後の課題ですが。)
今回は、さわやかな経験でした。
近代的な建物に変わった東山区役所の地域振興課で手持ちぶさたにしているおじさんからゴミ用マークシートをもらいました。書き込むために、窓口に鉛筆がないので「貸して下さい」というと、変なこというおっさんという顔をもろにだして、自分の引き出しから短い鉛筆を一本出してくれました。
何を持ち込むかだけでなく、持ち込む車の番号まで書き込みます。書き終わって「ありがとう」というと、何も返事がありませんでした。そして屋根にスプリングマットをくくりつけた車を淀のクリーンセンターへ走らせました。
受付に3人のおじさん。片耳に金色のイヤリングをしたおじさんがマークシートの書き込みの点検。記載にまずさがあったのですが、これを叱責するのでなく、軽いジョークまじりに指摘し、自ら書き込んでくれる。おまけに車をほめてくれ、「ドアをあけるとき、傷つけないように」、屋根に積んでいたマットをたたいて「これも忘れんと置いていくのやで。時々捨てに来て、そのままもって帰る人がいるのや」と。すごくのりがよい。気持ちよい対応。京都市環境局のイメージがぐっと良くなりました。区役所での暗い気持ちが一気に青空のようなさわやかな気分になりました。この接客法は「こび」がなくていいなーと管理職的発想も。
車の重さを計って、あとは、捨てるものの内容によって、道路にかかれた色の線にそってそれぞれをベルトコンベアーに投げ捨てるだけでした。どの場所でも係り員の対応はファミリアルでした。捨ててからもう一度車の重さを計って、今回は1kgでした。100kgまでは800円也。安い。出てきたレシートには、問い合わせ責任者としてでしょう、「管理課長」のデスク電話番号が印刷されていました。そうです。いろいろな問い合わせには、一定の責任者が直接答えるべきなのです。
入り口から出口まで約10分。たったそれだけの経験でしたが、ものすごい「とく」をしたような気分になりました。そして勉強になりました。
ただそれだけの日常の出来事でしたが、自分にとっては40年の宿題をやったような経験でした。
今読んでいる 「新しい人」の方へ 大江健三郎(朝日新聞社)の影響を受けた不定期日記でした。
この本のご一読をお勧めします。
12月31日 最後の日直 と1月1日の鐘
雨がしとしと降っていますが室内は暖房が効いて暖かいです。
2003年の不定期日記も今日でおしまいです。よくぞ へたくそな
(はっきりヘタクソという人ありなので、そう思います)文におつきあい下さいました。遠くは米国シンシナティやカナダ・トロントでご愛読くださりありがとう。
来年は もっと具体的な行動を と考えています。よろしくご期待下さい。杉本健郎はまだまだこれからが勝負の年齢と理解しています。
それにしても暇です。朝から3人しか診察していません。男山に来て16年でこんなことはじめてです。そのほとんどは31日朝から1日元旦の朝まで毎年日当直していました。でも小児科の常勤が減らされた数年前から日直だけになりました。
流行が予想されたインフルエンザ・ウイルスも陰をひそめています。
病院が暇だということは喜ぶべきことです。
明日からの4日間何をしてすごそうか?
年末に天橋立へ一泊旅行してきました。若者が「旅館は嫌」というものですからMロイヤルホテルに泊まりました。橋立を望む絶景の最上階8階の部屋でした。備長炭がいっぱいぶら下げてあり、環境に配慮したホテルということはうれしかったのですが・・・食事がいかん! この間3年連続の山陰旅行でしたが、最悪のメニューでした。おまけにボーイさんが夜だけ雇われたバイトの若いニイちゃん達?で、にわか勉強ではおっつかない需要と応用編で、あっちでもこっちでもトラブッテいました。はじめは怒りでしたが、途中から同情して「ご苦労様」と声かける気持ちになりました。
このホテル、たぶん日頃はすいていて、サービスもいいのでしょう。年末のカニ食い旅行で混み合ったための印象と思いますが、この時期のここの訪問はおすすめできません。
40年以上?ぶりの「橋立股覗き」を経験しました。感想は控えます。
昇降のケーブルが満員電車そのもの。茶髪のギャル集団だったのが救いでした。
12月31日午後2時記す
2004年1月1日
そして、いま、鐘の音が聞こえます。昨年5月に、以前に住んでいた所から2kmほど南に位置する東山山麓に引っ越したのですが、地域的に、より京都風情を感じます。日記を書いている途中中座(時間あく)・・・・3階ベランダの物見台(特注)に登ってきました。
鐘の音にも、品のある音と割れたような「安っぽい」(失礼)音があり、やたらとトーンの高い鐘も聞こえてきます。何十カ所からの鐘の音です。いやーすごい! それが谷間にこだまして、すごい幻想的雰囲気です。東山の中腹の位置から望む雨上がりの京都の町並みがヨーロッパの古い町並みのような雰囲気なのです。
これは京都のどんなセレモニーよりも重さを感じます。冷たい風がさわやかに感じます。ちっぽけな心、つもり積もった煩悩が吹っ飛んでしました。京都に住んで約20年になりますが、こんな京都を感じたのははじめてです。
よって、新年迎えるにあたり、昨日の書き込みとは違った方針、チェンジをもう一度ローに入れ替えて、静かに、かつ力強い進みを目指します。(弁解が多く、良く気が変わる単純な奴なのです)
55歳からの新しい仕事に取り組む意欲が沸々と沸いてきています。
今年もよろしくお願いします。 午前1時