学校教育における「医療的ケア」の在り方についての、見解と提言
       
               平成14年10月15日 日本小児神経学会

日本小児神経学会は、小児の脳・神経系、筋肉等の疾患についての、診断・治療・研究に携わる医師や関連の専門家によって構成されており、会員は3000余名を擁します。診療の対象となる多くの子どもたちは脳性麻痺・知的発達障害・筋ジストロフィーなど種々の疾患による障害を持ち、狭い意味での診断・治療だけではなくリハビリテーションや教育的対応への援助も含めた医療サイドからのかかわりを必要としています。多くの日本小児神経学会会員が、そのような意味での療育的な活動にも携わっております。
学校教育の場において、経管栄養注入、痰の吸引などの「医療的ケア」の実施を必要とする障害児が増加してきています。家族によって行われることが前提とされているこの「医療的ケア」を、学校においては家族以外のスタッフが行えるようにしていくことが、医療・教育・福祉のそれぞれの面から必要とされています。
この問題に対し、最近、厚生労働省・文部科学省から、看護師の配置や派遣を基本とした対応を進めるという方針が示され予算要求も進められています。今まで国による積極的な対応がなされてこなかった中で、このような対策が示されたことは、大きな前進であります。
しかし日本小児神経学会としては、伝えられるような看護師の配置だけでは問題は解決しないと考えております。看護師の配置を進めるとともに、全国各地の学校で着実に実践され教育的・福祉的・医療的な成果が確認されてきた一般教職員による「医療的ケア」の実施が、看護師との連携を強化しながら、今後も進められるべきであると考えます。看護師の配置によって、一般教職員による実践が大きく制限されるようになるとすれば、それは障害児の医療・教育・福祉の大きな後退をもたらすことになります。
会員の多くが各地でこの問題に現実に深くかかわってきた立場から、この問題に対しての、日本小児神経学会としての現状認識と見解と提言を以下に詳しく述べるものであります。

1.学校教育の場における「医療的ケア」
を要する児童の増加

在宅医療の技術的進歩と普及、および長期入院や施設入所療育から地域在宅療育へという方向の結果として、日常的に医療的対応を必要としながら在宅で生活する障害児が増加しています。さらに、家庭に閉じこもるだけの在宅療育ではなく学校生活が望まれるために、学校教育の場での適切な対応の必要性が増加しています。
経管栄養・吸引などの日常生活に必要な医療的な生活援助行為を、治療行為としての医療行為とは区別して「医療的ケア」と呼ぶことが、関係者の間では定着しつつあります。東京都内の肢体不自由養護学校14校における平成1年度の調査では、この「医療的ケア」を日常生活で必要としているのは全児童・生徒の10.4%、この中で学校生活でも必要としているのは全児童・生徒の4.2%でした。しかし、平成13年度になると、「医療的ケア」を日常生活で必要とするのは全児童・生徒の26.6%(515名)、この中で学校生活でも必要としているのは12.4%(240名)という多数に増加しています。この傾向は全国的であり、全国の肢体不自由養護学校の平成13年度の調査では、「医療的ケア」を必要としているのは通学の生徒の14.7%で 2246名という多数となっています。これらの児童・生徒の大半は病院や施設に併設・隣接していない学校への通学生です。さらに、肢体不自由養護学校だけでなく知的障害養護学校や病弱養護学校等にも「医療的ケア」を要する児童・生徒が多数通学しています。
かつては、このような「医療的ケア」を要する子どもを無理に通学させるのは危険であり訪問教育とすることが幸せであるという考え方が、教育・医療の中でありました。しかし、適切な医療的配慮と対応のもとに学校での集団生活を送ることにより、子どもたちは在宅だけの生活や訪問教育だけでは得られない教育的効果を得て、精神的成長、社会的成長を示すとともに、より健康が保たれる例の多いことを、私たちは主治医や学校医として実際の事例を通して経験してきました。
「医療的ケア」が必要であっても可能な限り通学による教育を保障する、そのための手だてやバックアップ体制を、教育・医療・福祉の関係者が協力して整備していくことが必要な時代となっています。

2.家族以外のスタッフによって学校で「医
療的ケア」が行われることの必要性

 現状では「医療的ケア」を要する子どもが通学する際に、その子への「医療的ケア」の実施は基本的には家族が行うこととされています。このために、家族おもに母親が常時子どもに付き添うか別室で待機していることを余儀なくされています。家族が病気や疲労などの事情で来られない日には、子どもが欠席せざるを得ません。これは、教育を受ける権利、親子分離して精神的自立へ向かうための教育を受ける権利を大きく制限するものです。またこの状況は、家族の過剰負担や兄弟姉妹への間接的な負担を強いることにもなり、障害を持つ子どもとその家族の生活の安定を目的とすべき障害児福祉の見地からも大きな課題となっています。
さらに、家族の慢性的病気や仕事、兄弟への対応の必要性などの家庭事情により平常から家族の来校が困難である場合には、実施が望ましい医療的ケアを学校では行えないために医療的に好ましくない状態を招いている場合も少なくありません。具体的には、痰がたまっていても吸引ができず苦しい状態のままとなっている、経管栄養注入ができないために誤嚥の危険性が大きくありながらあえて口から食事・水分を摂取させている、水分の補充的注入ができずに水分不足の状態となっているなどの事例が多数あります。家族以外のスタッフによる実施が可能であれば、このような事態は避けられるはずです。
 このように、医療的な意味においても、また、教育的・福祉的意味からも、「医療的ケア」が学校教育の場において家族以外のスタッフによって行われることが必要とされています。

3.学校教職員による「医療的ケア」実施
の実績と意義

「医療的ケア」を学校生活でも必要とする子どもが増加し、その実施のニードが切迫してくる中で、家族ではなく学校の教職員おもに一般教職員が「医療的ケア」を一定の条件のもとに児童・生徒に実施する事例が全国各地で積み重ねられてきました。
日本小児神経学会会員の医師も、学校医・指導医・主治医等の立場で、この取り組みを支援してきました。具体的には、学校教職員による「医療的ケア」の実施が適切に安全になされるよう、研修指導・実技指導・家族や教職員への助言などを行っています。教育現場での「医療的ケア」の切実な必要性を痛切に感じざるを得ない立場から、各地の多くの本学会会員の医師がこのような支援を行っています。
このような学校教職員による実施の状況と問題点の検討も日本小児神経学会会員により行われてきました。平成10年1〜2月の全国の肢体不自由養護学校を対象とした調査では、回答159校中の60校で326名の児童・生徒に対して学校教職員が「医療的ケア」を行っていました。その直接の実施者はほとんどが、看護師や養護教諭でなく一般教員でした。その中で一般教職員による実施を禁止すべきであるという結論に至るような事故は報告されていません。
この調査の後にも、文部科学省による実践研究での取り組みなど、医師による指導・研修・管理と看護師との連携のもとで確実に安全に行われるための条件整備がなされながら、各地での多数の実践事例が安全に積み重ねられて来ています。
 このような取り組みを受けている児童・生徒では、医療的な改善や、呼吸状態の悪化の防止や誤嚥の事故などの防止が可能になり、元気に通学できる時間が増え、学校にいる時の状態も改善しているのを、支援を行っている医師は実感を持って経験しています。このことは、教職員が「医療的ケア」を実施することを通して、健康への関心と知識が高まり児童・生徒に寄り添った的確な配慮や対応を行えるようになったことも大きな要因となっています。教職員による「医療的ケア」の実施が進む中で、総体的には安全度が高まり在学中の死亡が減った、入院頻度が減少しているなどの状況も認められてきています。
 さらに教育現場からも「医療的ケア」を教職員が行うことにより教育条件の改善や教育活動の拡がりだけでなく、生徒への理解、信頼関係が深まる、生徒の自発性・主体性が高められるなど、教育の質の高まりに繋がるより深い意味での教育的意義を示す実践報告も積み重なってきています。平成10年度に厚生省の協力のもとに文部省によって開始された実践研究において、研究指定を受けた県で日本小児神経学会会員がこの研究に関わってきましたが、その研究の中でも、医師の研修指導と看護師との連携のもとで一般教員が一部の「医療的ケア」を実施する中で、安全性と意義が確認されてきています。
 このように、医師による指導・研修・管理や看護師との連携のもとで、一般教職員により確実に安全に実施されている多数の実践例が蓄積され、その中で、福祉的な意義だけではなく、医療的にも教育的にもその意義と成果が確認されてきています。学校教職員・教育関係者・家族・看護師・医師などの協力と連携と熱意によって着実に進められてきた、このような各地での多数の実践の過程とその成果を、医療・看護・教育・行政の関係者は直視し尊重していただきたいと考えます。

4.「医療的ケア」の望ましい実施者と内容

医療的ケアは、内容(種類)により、また、同じ種類のケアでもその子の状態により、技術的なむずかしさや、起きる可能性のある事故の重大さと確率、そしてそのケアに伴い必要とされる判断や対応のむずかしさなどに、段階があります。「医療的ケア」を一律に扱うのではなく、ケアの内容と子どもの状態、さらに学校の状況等の、状況に応じた実施者が考えられるべきです。

(1)一般教職員による実施 

医療的ケアの中で技術的に難しくなく比較的安全に実施できるケアについては、医師や看護師の指導・管理のもとで条件を整えた中であれば、一般教職員による実施が是認されるべきであると考えます。「医療行為」の実質的な定義は「医師の医学的判断と技術をもってしなければ人体に危害を及ぼしまたは危害を及ぼす恐れのある行為」とされています。現在までの一般教職員による多数の実践の中で、「危害を及ぼす」ような事態が生じていないことは既に述べた通りです。むしろ、一般教職員によるケアの実施により、誤嚥や痰による呼吸困難など「危害が及ぼされる」事態が防止できているのです。
平成10年度からの文部科学省による研究事業では、看護師資格のある者が常駐するという条件のもとで教員が行える日常的・応急的手当てとして「(1)経管栄養:咳や嘔吐、喘鳴等の問題のない児童生徒で、留置されている管からの注入による経管栄養、(2)吸引:咽頭より手前の吸引、(3)導尿:自己導尿の補助」の、3項目があげられています。日本小児神経学会は、この研究事業が進められている県を含め各地での一般教職員による実施を支援してきた経験から、少なくともこの3項目を教員が実施することは問題なく是認されるべきであると考えます。
 担当教職員はその子どもを良く知り信頼関係も深く持てる立場にあります。関係の深い人によって「医療的ケア」が適切なタイミングで上手になされ、子どもも安定してケアを受けている場面を私たちはしばしば経験しています。障害のある子どもへのかかわりにおいては、このような関係性が専門性よりも重要な意味を持ち得るのです。関係性の確立した担当教職員がケアの一翼を担っていることにより信頼感と安心感をもってケアを受けることができるという側面が、教育の場でのケアの在り方として重視されるべきであると考えます。
さらに、「医療的ケア」には、経管栄養注入や導尿など決められた時間に行う定時的なケアと、痰の吸引など必要な状態の時にすぐに行うべき随時的ケアがあります。空間的に広い養護学校では、緊急性を要する随時的ケアを少数の看護師に限定していては、迅速に適切に行うことは困難であります。結果として子どもの苦しい状況が長引くこととなります。定時的ケアでも対象児が多数いると少数の看護師では対応しきれません。このような実質的問題からも一般教職員による実施が行われることが必要であるという実状も、考慮するべきであると考えます。

(2)看護師による実施

「医療的ケア」の中で、難易度の高いケア、すなわち技術的な面での難しさのあるケア、高度の医療的判断を必要とするケア、そのケアに伴って生じ得る事故のリスク度が高いケアなどに関しては、看護師による実施を原則とすべきです。
多くの養護学校において、健康を維持増進するための適切な配慮や対応を日常的に必要とする重度・重複障害の児童・生徒が多くなっております。そのような適切な対応がなされるためにも、学校での看護師の恒常的な存在が必要となっています。痰の吸引などの「医療的ケア」も、痰が出やすくするための姿勢の調節や胸郭運動の促進などの対応と連動して行う必要があり、「医療的ケア」だけを単独に行うだけでは適切ではありません。このように、日常的な医療的配慮と対応・健康管理を、養護教諭や一般教職員と連携しながら行い、その中で難易度の高い「医療的ケア」を実施していくスタッフとして、看護師が学校に常に存在することが望ましい状況があります。そして、医師による指導・管理を受けながら、一般教職員が行う「医療的ケア」を指導・援助していくことも、学校の看護師の大きな役割となります。
訪問看護師・派遣看護師により学校での「医療的ケア」を実施する方式は、現実化しやすい方法であり、充分に生かされていくべきです。しかし、上に述べたような学校における看護師の望ましい役割や在り方から見て、訪問看護師・派遣看護師による対応のみで問題の解決を図るだけでは不充分であると考えます。「医療的ケア」を要する児童・生徒が多数通学する学校では、そのケアの全て、とくに随時性を必要とするケアをも訪問看護師・派遣看護師によって全て実施するためには多数の看護師を必要とするという現実的問題もあります。

5.実績を尊重し、現状に即した対応を

以上述べてきましたように、学校における「医療的ケア」は、学校に常在の看護師、訪問看護師・派遣看護師とともに一般教職員も実施者として想定しながら、そのケアの内容や、それぞれの児童・生徒の状態、それぞれの学校や地域の状況に応じて、医師の指導管理のもとで、個々の児童・生徒への実際の実施者が決められていくべきであり、そのための多様な対応策が整備されていくべきであると考えます。
その中で、一般教職員による多数の実施が安全に行われ教育的意義も認識されてきているという実績、および看護師資格のある者のみによる実施では現状には対応しきれないという現実を踏まえ、一定範囲内での「医療的ケア」の一般教職員による実施が認められていくことが必要です。「医療行為であるので、一般教職員は実施できない」という従来型の判断ではなく、現実を直視し実績を尊重した柔軟な対応が、行政や関係者によって進められていくべきであると考えます。これは、現行法のもとでも可能であると考えます。
 技術的発展と対象者の急速な増加の中で、在宅医療は家族への依存と家族の過剰負担を前提とせざるを得ない中で進められてきました。医療費抑制政策の中で、本人や家族のためというより、病院・施設運営の都合から重度重症の児童生徒を在宅に返させざるを得ないケースを、私たちは医師として多く経験しています。在宅医療を支える人的な受け皿は極めて不充分です。家族の過剰負担なしには、在宅医療が維持できない場合が多いのです。訪問看護制度での支援は時間的にきわめて限られています。家族と看護師だけでは、対応しきれないのです。家族による「医療的ケア」は安易に認めてそれに依存し家族の過剰負担を前提としながら、一方で、家族の周辺の人々によって行われるケアは公的には認められないという施策は、現実を踏まえた施策へと転換される必要があります。
しかし、家族や看護師以外の人により「医療」的ケア」が行われることの弊害はあり得ます。経管栄養が医療・福祉サービスの手抜きのために無原則的におこなわれ、高齢者や障害児者の食べる権利が踏みにじられる恐れはあります。さらに、研修や指導・管理が不充分であれば注入や吸引等に伴う事故もあり得ます。このような弊害が生ずる可能性を抑えながら、安全に確実に適切に「医療的ケア」が行われるようにしていく必要があります。 
 既に行われている学校での一般教職員による「医療的ケア」の実施においては、家族からの明確な委託のもとに、主治医や指導医などの医師による指導・管理、教職員の研修、妥当と判断される範囲内への「医療的ケア」の限定、その児童生徒について研修を受けた教職員のみによるその生徒のみへの実施、マニュアルに基づく手順の個別確認と実施、毎回の実施における複数のスタッフによるポイントの確認、諸問題や手順についての学校内委員会による確認と管理など、安全に確実に実施されるための要件を満たしながら、実施が進められています。このように条件を整えながら限定された範囲で行われている一般教職員によるケアの実施の在り方は認めた上で、看護師がその知識と技術を発揮して教職員と連携しながら前に述べたような役割を担っていくという体制が、学校教育においては望ましいと考えます。
以上、日本小児神経学会としての見解と提言を述べて参りました。障害のある子どものいのちの輝き(QOL)と家族のQOL向上に向けて、この問題についても学会として最大限の支援を努めていく所存です。関係する方々には、意をお汲み取りいただきまして、重ねてご検討くださいますよう、願うものであります。


{養護学校の教育と展望、NO.119 46頁に掲載}

医療的ケアの理解と対応
学校保健の立場から日本と北欧・北米との比較による考察

関西医大男山病院小児科
杉本健郎

1、「医療的ケア」の言葉の意味
「医療的ケア」という言葉は、筆者の記憶では、1988年東京都教育委員会の学校内でのケアは「医行為」であるとの発言から多く用られるようになったと思われます。1994年秋の国会でもこの名称が使われ一般化しています。
まず確認すべきは、在宅医療で保護者が行う我が子への「行為」と、学校内(訪問教育も含む)で担任が行う「行為」が、同じものであっても、現在の日本の社会認識では同じではないことです。
何故なら現在の法律では、在宅医療の責任体系とは異なり、学校内でのすべての「行為」は、国の義務教育内での公的責任が明確な責任体系であるからです。
すなわち、学校での「医療的ケア」の問題は、国・文部省が重度重複脳障害児の教育にいかに責任をもつかという立場から考えねばなりません。さらに突き詰めると、重度児への教育の中身そのものが問われているといえます。明治時代から先人たちが討論してきた「学校保健体制」をいかに充実させるかという立場で討論し、現状にあった体制にリメイクすることが問われています。
在宅医療での重度児へのケアは、どこまでが医行為で、どこからが生活行為なのかという討論は、保護者がケアの主体者である限りなされません。主治医の治療方針を保護者が「納得」した時点から在宅医療が始まります。訪問看護の看護婦であっても、緊急時でない限り、医師の指示をこえる行為をすることはできません。しかし、保護者の行う行為であるから保護者に責任があると考えられがちですが、基本的には主治医に指示責任があります。在宅医療での公的責任はあまり討論されず、日本では歴史的に曖昧に推移してきました。今後もさらに、個人責任(保護者負担・受益者負担)の傾向が強く志向されていくでしょう。
これは、北米、特にアメリカの考え方です。北欧では、法の下に国民のコンセンサスが得られ、地域医療・在宅医療にも学校と同様の公的責任が厳然と存在しています。在宅医療の指示責任は医師ですが、医行為をも包括した在宅での障害児のよりよい環境作りには、公的責任が問われるべきと思います。
日本では介護保険開始に伴い、老人の介護分野では、どこまでが非医療職のヘルパーの仕事なのかという議論が出てきています。ヘルパーは医療的な免許ではありません。しかし老人(障害者)の立場に立ってで親身な世話をしようとして「医療的な」介護を行うことを問われた結果、「違法」になるというものです。障害者の自己決定に基づいて障害者(老人も含む)自身がいかにハッピーに生きるか、その環境作りを誰が責任をもって整えるべきなのかが問われています。専門職の役割分担の線引きをすることだけが「公的責任」であってはなりません。
本来、障害児への豊かな環境作りは、文部省、厚生省と国の担当省庁が異なっても、障害者にとっては学校も家庭も同次元のものであり、公的責任が明確に問われるものと考えます。
学校での「医療的ケア」の討論は、法律的に誰が行うのが適切かという矮小化した討論になりがちです。筆者は、「医療的ケア」の問題は、障害児教育とは何か、学校保健体制、地域医療・保健体制、ひいては国の障害児・者医療福祉政策としてのノーマライゼーション思想を実現することを問うているものと理解しています。なによりも討論の中心にいる一人ひとりの児童・生徒が、障害をもっていても「ハッピーに生きる」、「発達する」、「学ぶ」権利を保障する観点から討論しなければなりません。

2、 「医療的ケア」を取り巻く背景
(1)重度重複脳障害児の増加
筆者は1974年に医師になりました。その当時、重度の脳障害を持つ子ども達への延命的医療や染色体異常児に合併した心臓疾患の手術は「治療の範囲」を超えるという考えが一般的でした。ところが、医療技術の革新と重度児の生きる権利を保障する思想が広がり、乳幼児期に亡くなっていた子ども達が成人まで生き抜く時代になってきています。
こうした医療側の変化に伴い、教育側はどう変わってきたでしょうか。
1979年、全国の障害児をもつ親や教師の運動があって、国は養護学校の義務制を開始しました。同時に訪問教育制度を開始しました。すべての子ども達に通学保障をする立場から考えると、訪問教育制度が並列していくことは違和感をもちますが、それまで「就学猶予」であった障害児の教育を保障したことは大きな前進でした。最近では高等教育にも訪問教育制度が開始されました。このように制度的にはずいぶん前進しました。ところが、大学での障害児教育への専門的研究は不十分で、重度重複脳障害児が通う養護学校でも障害児教育専門教師の配置は十分に行われず、管理職配置でも、子ども達の現状を理解できない校長が赴任することもあります。
学校保健体制の面から見ると、歴史的には文部省の画一的な指導指示しか行われず、旧態依然の学校医制度や保健室の要である養護教諭の二本立ての養成制度(後述)が、適材適所の配置を妨げている可能性があります。
20年前から、制度としては増え続ける重度児の通学を保障していこうとする姿勢があるにも関わらず、それに関わる学校現場の体制が、昔と変わらない状態で推移してきたことに現在の混乱を招いている原因の一つがあると思われます。「医療的ケア」問題はその一つにすぎません。

(2)医療技術の進歩:危急新生児医療の充   実と地域のサポート体制
筆者が医師として診てきた25年間で、医療現場、特にNICUと呼ばれる危急新生児を扱う部門の技術革新やスタッフの充実・発展は画期的なものでした。そのため早期新生児死亡が激減し、新生児死亡率の低さも世界のトップレベルになりました。重度脳障害を持つ子ども達が延命し、生きる権利が尊重されるようになり、病院や地域保健機関でのフォローアップ体制が整って、より専門的になってきました。地域・市町村の通園施設は年ごとに充実し、早期からの療育が可能になりました。
ところが6歳までは、専門スタッフが連携して取り組まれながら、サポートした障害児が学童期を迎えると、すべては学校だけに任されることになります。日本の多くの地域で、就学を迎えるこの時点で障害児と家族、地域医療・福祉の接点が絶たれることになってしまいます。学校以外でのつながりは、病院と主治医だけとなりがちです。
新生児期からの主治医は、幼児期以降になると難治性のてんかん発作や誤燕性肺炎などを繰り返さない限り、病院ではあまり積極的に関わらなくなります。乳幼児期の緊急時に行った治療、すなわち鼻腔からのチューブ栄養や吸引器による喀痰の吸引、さらには気管切開などはそのままで病院から在宅医療に移されることになります。これらは、本来は緊急避難的な急性期の治療法であり、そのまま慢性化させて長期間維持していくことを十分検討された結果としての治療法ではありません。現在多くの主治医は、医学的に長期管理を十分検討した方法ではない、いわば「我流」の長期管理をしています。たとえば気管切開の日常的管理方法は、主治医が違えば吸引方法だけでなく消毒方法まで異なるというのが現状です。医療分野で障害児に理解のある医師や医療スタッフでも、科学的に確立した方法に至っていません。
障害児が長期に快適に生きていくために、サポートしていく医師や医療スタッフの側も十分な研究や研修を積み重ねていく必要性があるのです。
学校内で、「医療的ケア」を誰が実施すれば、法的に問題がないのかというような討論ではありません。子ども達に関わる教師を中心にした専門家達が、どのような連携をして、質的に高いレベルのサポートをしていくかが問われているのです。それには現制度をどうリメイクし、不足があるなら何をメイクするのかを総合的に討論していく必要があるのです。

(3) 地球的規模の医療費抑制策、行政のリストラ策
新生児治療の進歩によって、新生児期から長期に人工呼吸器がついたまま病院生活を続ける障害児が増えています。そのためベッドはふさがり、大都市では危急新生児の転送場所を探すのに苦慮することが少なくありません。そのため病院は、急性期治療が終われば、できるだけ早く退院を勧めます。それは緊迫する病院経営の立場から見ると、ベッド回転率を上げ、早期退院を促すことが病院生き残り策の一つとならざるを得ない現状なのです。
北米だけでなく、北欧も同じように、入院による医療費上昇を回避するために、早期退院を目指します。世界的に国の総医療費抑制策がとられているのです。
早期退院した場合、北欧のように地域での受け入れ体制が公的に保障されていればいいのですが、日本は自宅へ帰っても地域での受け入れ体制が十分ではありません。チューブ栄養や頻回の吸引器による吸引、そして気管切開の管理、さらには人工呼吸器の管理を自宅で保護者だけに任されることで、想像を絶する不安な日々が続くことになります。
日本の母子保健に関する地域医療の要は、都道府県保健所の保健婦でした。しかし1994年の地域保健法の改正で、市町村の保健センターに母子保健担当が変更されました。新規採用の若い保健婦には、指導を受ける先輩もいなければ、研修の場もありません。在宅児ケアの指導や援助は重荷です。しかも週3回程度の訪問看護では不十分です。保護者の短時間のレスパイト(休息)時間にすぎないのが現状です。自宅や地域でハッピーに生きるのが理想ですが、その負担を保護者のみに負わせるのは間違っています。本来は学校と地域医療施設や福祉施設が一体となって教育や生活を公的に保障していく視点が必要でしょう。

3、 学校保健の歴史と北欧・北米の現状
これまで「医療的ケア」をとりまく問題点に触れ、学校保健体制の再確認が必要であること強調しました。
学校保健はいうまでもなく、児童・生徒および教職員の健康の保持と増進をはかるのが目的で、保健教育、保健管理、保健組織活動の3点に集約されます。
筆者は内科校医として10年以上養護学校の保健室から学校現場の移り変わりを見てきました。
現在の学校保健は、保健主事を中心に、養護教諭が保健室のキーパーソンとして機能し、各種の校医が健診とは別に相談やコメントをしながら進めるているものと理解しています。
校医の歴史は、明治時代にさかのぼります。国策との関連で、若者の健康増進を狙った側面もありますが、当初は小児科医師からはじまったことは、最低限のニーズとして、こどもの健康を判断できることが求められたからだと思われます。現在の校医の職務執行内容は、昭和33年の学校保健法に規定されたもので、基本的な文言、内容については現在でも矛盾を生じません。その20年後の1979年に養護学校義務制が決められ、現在はさらに20年経っています。その間何度か学校保健法の改正がありました。しかし、これまで述べてきたように、重度の子ども達の増加を背景に、教育保障を唱えながらも、重度児の学校内の保健体制についてのリメイク策の通達はありませんでした。
障害児教育に専門性が問われるのと同様に、学校保健体制についても、通学する子ども達や学校のニーズに合わせた対応とリメイクがされていかなければなりません。
校医には、入学してくる子ども達の病名や体調を把握するための最低限の「専門性」が必要です。
学校看護婦から養護教諭への歴史は、当時の学校保健の課題にあわせて変わってきました。明治38年(1905)、校内のトラコーマ流行時、洗眼のために校医助手として学校看護婦が登場しました。ほぼ同じころ、ニューヨークやロンドンでは、白癬やシラミ駆除のため学校看護婦が登場しています。日本が海外先進国の模倣をしたのではなく、独自の判断で作られてきたのです。そして北米には現在も校医は存在しません。
大正11年(1922)大阪市では常駐の学校看護婦がおかれました。昭和4年には、すでに教育職員として文部省が認定しています。国民学校発足と同時に養護訓導となり、養護イコール教育という捉え方でした。戦後、学校教育法で現在の「養護教諭」となりました。その後、看護婦免許が不要な養成課程ができ、1969年には短大養成課程ができるなどして、医学的教育が不十分であっても養護教諭になれる制度ができました。
筆者は、養成課程別に養護教諭を選別しようというのではありません。しかし、医学は進歩し、治療法も変わり、20年前には予想もしなかった重度重複障害児が病院から早期に退院し、通学する時代になったのです。看護婦免許を獲得するために学ぶ医学的知識の蓄積や臨床実習が、最低限の専門的条件として必要だと思います。しかも適材適所の配置が必要であることを強調します。たとえば重度の子ども達が通学する保健室には、複数以上の、専門性のあるトレーニングされた養護教諭が必要でしょう。
次に校内保健体制における責任分担について考えてみます。
在宅医療のところでも触れましたが、気管切開の場合を例にとると、基本的な管理と指示責任は、気管切開術をした病院・主治医にあります。自宅では主治医の指導の下、保護者が管理をせざるをえない現状です。ところが学校での子ども達の健康管理は、教育の一環としての学校保健として、子どもの健康を維持し増進させることを目的に法律で規定されています。保健主事の役割は学校によって様々ですが、実際に保健計画をたてたり緊急時の対応をするのはすべて養護教諭です。しかし校医の存在も大切です。校医は常勤でなくても、常に養護教諭の相談に応じられる体制が必要です。主治医が学校内の状況を知ることは難しいので、校医が主治医と教師の間に入り、保護者の了解の下に、児童・生徒の病態をわかりやすく説明したり、時には主治医と連携をとりながら、保健相談の形で病態や治療内容の理解を深めたりすることも役目の一つでしょう。「医療的ケア」の実施にあたっては、定期的に校内での方法をチェックし、指導することが必要です。
「医療的ケア」を実施するために、養護教諭とは別に看護婦を学校に配置する考えがあり、これによって現在の矛盾が一気に解決されるように思われますが、必ずしも賛成できません。早急な結論を出す前に、学校保健体制をどうリメイクしていくのかの討論の積み重ねがまずは大切ではないでしょうか。
米国のヒューストン市立ロージャースクールでは、1997年の訪問当時、重度児が約150人通学していました。毎日200件以上もの「医療的ケア」に相当する処置を、学校看護婦が学校の広い医務室で実施していました。看護学生一人を含む5人の看護婦が、朝の授業開始前に、設備の整った病院の処置室のような医務室で忙しく働いていました。救命救急処置を含め、ほとんどの処置は医務室で対応できるそうで、学校看護婦は子ども達の病気のことをよく知っていました。しかし、教育のことには一切口出ししません。緊急性がないかぎり教室内にも入らず、専門領域の棲み分けが徹底していました。よくトレーニングされた看護婦4人がレベルの高い処置をすることで、より快適にその日の教育を受けるための体調を整えることができます。日本の同規模の養護学校であれば養護教諭は二人ですが、十分な処置をしようとするためには、4人位の人数が必要なのでしょう。
さて、日本には先に述べたように学校保健の要である養護教諭の歴史が60年近くあります。学校保健計画を立て、保健指導をします。医師の指示による当面の医療処置だけに限らず、いかに児童の体調を健康的に維持し、重度の場合は命を守るかという養護の立場をよく考えていかなければなりません。
筆者は医師なので子ども達の医学的なことはわかりますが、生活の大半を過ごす学校や家庭での様子は知りませんし、十分で適切な指導はできません。同じ様に仮に看護婦が多数の処置をこなすことだけにとどまるならば、子ども達の全体像をつかむことはできないでしょう。病院での処置ならそれでも許されるかもしれませんが、学校教育の一貫としては問題が残ります。「医療的ケア」は、子どもの全体を理解する立場から、障害児教育の一環としてとらえ直す必要があります。
1997〜98年に訪問したスウェーデン・ストックホルムは、障害別専門教育を主にした教育形態が問い直されている時でした。
増加する重度障害児の学校内での医療的ケアは十分検討されていませんでした。
30年の長い歴史をもつ統合小中学校では、気管切開した障害児に、本人と保護者が選んだヘルパーがぴったりとはりついていました。これは1994年の法律で保障されるようになったのです。ところが2年前にできた新しい形の重度児ばかりの小さな学校には、学校看護婦はいませんでした。そこでは、教師が吸引などの医療的ケアを実施していました。誰が吸引を実施するか結論がでるまでは自宅で待機というのではなくて、当面は、親が納得しているということで教師が吸引していました。そして、子どもの権利としてまずはすべての重度児を登校させ、それから早急に中身を充実させるという方法をとっていました。
法的にノーマライゼーションを保障している国ですから、子ども達に必要な対応をするのに、「お金がないからできない」という理由は認められません。また必要な法律は現場で早急に討論し作成する。自分たちで決めた法律はみんなで前向きに遵守していくのがスウェーデンのやり方です。

4、リメイクとメイクするところ
いくつかの「医療的ケア」の処置そのものを画一的に討論することはできません。現在全国のモデル校で行われている「学校現場における医療的バックアップ体制に関する研究」での「文部省限定3項目」があります。すなわち咽頭より手前の吸引、痰や喘鳴のない子どもで留置されている管からの注入による経管栄養、自己導尿の補助という「軽微な」ケアの3項目は、教師にも安全に行うことができます。
限定3項目には入りませんが、一部の学校で試行されている導尿チューブの挿入と鼻腔チューブの挿入を比較してみましょう。一見難しそうに見える前者の方が安全です。後者は医師であってもうまく挿入できないことがあり、医師でも本当に胃まで到達しているのか不安になることもあり、事実小児科医師が気管支に挿入してしまった例があります。それにくらべ後者は一本道ですから容易です。このようにケア内容を画一的にとらえることはできません。
また、ケアを受ける側の重度脳障害児の障害内容や病態は十人十色です。本人の性格や感受性も異なります。ケアそのものがいくら簡単であっても、本人の体調や病態を判断できる専門的な視点が学校内には必要なのです。
古くからある教育基本法、学校保健法にはすばらしい言辞が並んでいます。今ある法律を十分に活用し、子ども達がハッピーになる教育環境にリメイクしていく討論が必要なのです。
重い障害をもつ児童・生徒が通学する学校では、学校保健法の職務規程にのっとって校医の役割を再点検する必要があります。養護教諭の仕事やそれに伴う必要人数も再点検すべきでしょう。養護教諭は、今後地域保健活動への学校側の窓口にもならなければなりません。
第二次大戦後まもなく提案された学校保健委員会が、各校で有機的に運用されていません。21世紀に地域に開かれた学校になるためには、もっとリフレッシュ・リメイクして運用、活用すべき委員会であると思われ、それには保健主事の指導性と養護教諭の力量が問われるでしょう。
 それらを討論した結果、最後に現在のシステムで足らないものをメイクすべきかどうかという討論になっていかなくてはならないでしょう。